第3話 言葉の記憶
午前の陽光が、灰色のカーテン越しにぼんやりと差し込んでいた。
書類をめくる音と、ペン先が紙を擦る音。それに混じって、扉の向こう側からは、同僚技官たちのやり取りが微かに聞こえてくる。
「こっちは術式負荷、基準値内で収束。次の試験は午後回しでいいな」
「おい、あの式展開図、まだ直ってないのか? 演算最適化、間に合わねぇぞ」
「第三試験棟のスケジュール、確認しとけよ」
効率と納期がすべて──軍属技官の会話としては、日常の一部。
カイ・ヴェルティアは、その会話に一切関与せず、執務室で一人、静かに手元の資料を見つめていた。
彼の机の上には、標準術式の出力波形、宝珠反応の遷移記録、圧縮マナの共鳴率グラフなど、整然と分類された実験書類が積み重ねられていた。その中央に置かれた紙束だけが、ひときわ異彩を放っている。
詠唱記録。整然とした表の端に、赤インクで書き殴られた手書きの注釈。
「……祖語由来か?」
他の技官たちが進める日常業務──予定された範囲で、予定通りに収束する制御試験。その流れから外れた何かを、この記録は示していた。
言葉の重みは──単なる数式のパラメータでは測れない。
カイは、もう一度、あの日の声を思い出しながら、赤インクの走り書きをじっと睨んだ。
帝都中央と東郊の魔導工区とのちょうど中間──そこに、帝国陸軍兵器局本部がある。その三階には、帝国陸軍の魔導技官たちが集う開発部の執務室が整然と並び、宝珠設計や術式理論の検証が日々積み重ねられている。
棟内には小規模な実験室も備わっているが、あくまで安全性の高い低出力実験に限られる。本格的な術式試験や高危険度のマナ放射実験には、東郊の帝国陸軍工廠第三魔導技術試験棟──通称「第三試験棟」への出張が必須であり、技官たちは設計と検証をここで、実証を現地で、という往復の生活を繰り返していた。
ふと、隣の棚に目をやる。無造作に並べられた書物の中から、一冊を抜き取った。『帝国語と古詠唱の変遷』──大学時代、一般教養科目で使われた魔法語史の基礎テキストだ。
何の気なしにページを繰る。時系列で並ぶ語形変化、統治者による言語標準化の歴史、詠唱語から術式言語への脱構築。
講義は不人気だった。理論系の履修者の間では「酔狂な古語オタク養成講座」などと陰口を叩かれ、実習課程の学生からは「取っても意味がない」の一言で片付けられていた。
講義室は石造りの旧棟にあり、教室内はいつもひんやりとしていた。
窓からは中庭の古木が揺れて見えていた。
講壇には年配の男──ハルダン教授が立ち、ゆっくりとした口調で語っていた。
「かつては、言葉こそが力だった。記すことで術を刻み、唱えることで力を顕現させた」
「そのままでは再現性がないので、式と理論に移行したのでは?」
「教授、もしかして古詠唱が本当に効くとでも?」
小さな笑い声が教室に広がる。だが博士は、眉ひとつ動かさず続けた。
「効くかどうか、ではない。なぜ効かなくなったのか──そこにこそ、魔導の転換点がある」
カイは、その言葉に、奇妙な静けさを感じていた。
まるで、誰も見ていないところで踏み越えた境界線のような感覚だった。
学友たちは気にも留めず、テキストを半ば寝転がるようにして読んでいたが、カイだけは背筋を伸ばしていた。言葉が力を持っていた時代──その可能性に、漠然と惹かれていたのだ。
──ページをめくる手がふと止まる。
(音が……生きていた)
講義室で詠唱の変遷を学んだときには感じなかった、生々しい響き。意味を持った音の響きが力を持つという感覚。あの声に、書物には記されない何かがあった。
余韻を断ち切るように、扉が軽くノックされた。
「入れ」
開いた扉から、レイン・ミルズ准尉が顔を覗かせた。いかにもレインらしい形だけの敬礼をしたが、軽口を叩くいつもの調子はない。
「中尉、課長がお呼びだよ」
「分かった」
カイは短く頷いた。
レインは、眉尻をわずかに下げ、何か言いたそうに唇を動かしかけたが、結局は形だけの敬礼で部屋を後にした。
開発部宝珠開発課長──ウルバイン少佐の執務室は三階の奥にある。
カイは扉の前で一呼吸すると、扉をノックした。
「入れ」
敬礼の後、カイが口を開く。
「失礼します。お呼びでしょうか?」
「うむ、……本日午後、二階の小会議室で情報局によるヒアリングが行われる」
「……対象は?」
「例のスィリナティア女史だ」
「私の同席は必要でしょうか?」
「いや。貴官には通知だけだ。今回は立ち会い不要らしい。兵器局からの詳細資料は、すでに送ってある」
「了解致しました」
──カイは自室に戻ると、椅子に深く腰を落とした。机の上に視線を向け、小さく息を吐く。
数日前の会議──参謀本部地下第三会議室で、兵器局主導の監視体制継続が正式に確認され、情報局はその補佐に留まることが明言されたはずだった。
会議の翌日、課長がリィエンに対して暴走沈静化への謝辞と、詠唱に関する簡単な聞き取りを行ったが、特に実のある内容は得られなかった。
たしかに、ヒアリングについての細かな指示はなかった。にもかかわらず、情報局がやってくるというのは、やや奇妙だった。
決して越権とは言えない。それでも、ほんの数歩だけ──見えない線を踏み越えるような、鈍い違和感があった。
(……補佐のはずが、ずいぶん前に出る)
そんな言葉が、胸の奥でかすかに波立った。
カイは椅子に背を預けたまま、静かに天井を見上げた。瞼を閉じれば、あの声がまた蘇る。機械に刻まれた波形でもなく、術式の応答音でもない──音として、届いた声。
(なぜ、あれほど心に引っかかった?)
彼女の澄んだ声が、単に珍しかったからではない。詠唱という行為が、本来持っていた何かを思い出させた気がした。文字通り、──〝響いた〟のだ。
数式でも、式図でもない。 ──言葉が、力を持つと信じていたあの頃の自分に。
(……忘れていたのは、俺のほうかもしれないな)
──ふと時計を見ると、いつの間にか針は午後を指していた。
今、彼女は下の小会議室で、あのときの言葉について尋ねられている。
椅子の背から身体を起こし、カイは静かに立ち上がって、窓際へと歩み寄った。
午後の陽射しが、淡く滲むようにカーテンの隙間から差し込んでいる。遠く霞む街並みの向こう、鉄骨の塔と煙突が、陽炎の中に浮かんでいた。
そこには、いつもと変わらぬ風景が広がっている──はずだった。だが今の彼には、それがどこか、少し違って見えた。
カイは、黙ってその光景を見つめ続けていた。