第2話 報告会議
帝都中央──帝国陸軍参謀本部、地下第三会議室。
「──詠唱後、術式は速やかに沈静化。干渉した宝珠内のマナ量も、予定値内に収束しました」
ウルバイン少佐──カイの直属の上官は落ち着いた声でそう述べ、紙束の一枚をめくる。その背後で中尉であるカイは直立したまま控え、言葉を差し挟むことなく、ただ黙して耳を傾けていた。
重厚な扉の内側、普段は作戦会議や機密戦略の策定に用いられるその会議室の壁面には、盗聴防止用の魔導障壁が張り巡らされ、外部との通信は完全に遮断されている。
室内には年季の入った長机を中心に十数脚の椅子が並び、座る者の階級により席次が自然と分かれていた。照明は抑えられ、沈黙の中で紙の擦れる音やペンの走る音すら響く。
奥の壁面には、深紅と黒を基調とした帝国旗が静かに掲げられていた。その中央には、剣を掲げる双頭の獅子──帝国建国を象徴する紋章が、金糸の精緻なレリーフで縫い込まれており、重厚な空気にさらに威圧的な荘厳さを添えていた。
微かに耳鳴りのような振動音が、壁面を包む魔導障壁から伝わってくる。常時起動される防壁としては高出力な類であり、この会議室が極秘性を求められる用途に限られていることを示していた。
時計の秒針が規則正しく刻む音だけが、時折その静けさにかすかな緊張を走らせる。
参謀本部、情報局、兵器局の各将官が参加しているこの会議は、これが単なる実験報告会ではないことを物語っていた。
それまで目を閉じ、腕組みをして報告を聞いていた参謀本部中将が、ゆっくりと少佐の方に顔を向ける。
「……リファレンスは一旦保留か。──第3世代は革新的であるがゆえに、過信は許されん。今は焦る時期ではない。引き続き、確実な検証を積み重ねよ」
「はっ!」
少佐はその場で姿勢を正し、深々と最敬礼を取った。
情報局長が冷笑を浮かべつつ、報告書の文言をなぞるように指を滑らせ、少佐へ冷ややかな視線を送った。
「詠唱、とは技術的にどのような意味を持つものだったのか?」
報告者の少佐はわずかに口を引き結びながら応じた。
「はい、局長。発音構造は既知の詠唱体系と一致せず、意味のある構文構造を持つと推測されます。現在のところ、古代エルフ語あるいは祖語の変化形と見られますが、照合には至っておりません」
「だが、術式は作動したのだな」
銀縁メガネの参謀本部大佐が、少佐の言葉にわずかに眉を動かし、視線だけを移して鋭く確認を入れる。
「……はい。制御陣の入力は切られていたにもかかわらず、音声をトリガーとして、宝珠内の制御術式が反応しました」
「言葉だけで魔法が成立した……と、そういうことか。貴官の見解は?」
大佐のこの問いには、席に着いたままの兵器局長、ラキネル少将が口を挟んだ。
彼は思案の末に掌で顎を軽く支え、机を指でとんとんと鳴らしながら、興味を隠しきれない声音で口を開く。
「ヴェルティア中尉、貴官は現場の記録を直接確認しているな。私見で構わん。技術的観点からの見解を述べよ」
カイは一歩進み出て、敬礼の後、静かに言葉を選んだ。
「はい、局長。詠唱は明らかにトリガーとして作用しました。制御式による発火ではなく、音声の持つ意味が、宝珠内の術式構造と共鳴した可能性があります。……あれは、ただの呪文ではなく、言語体系を持つ〝語り〟かと愚考致します」
「……中尉、私見で構わんとは言ったが──ずいぶん詩的じゃないか」
ラキネル少将が苦笑まじりに言う。
「はっ、失礼いたしました!」
カイは慌てて姿勢を正した。
銀縁の奥で、参謀本部大佐の眉がわずかに動いた。
「この報告書には、詠唱を行った者はエルフだとあるが?」
「はい。詠唱者はリィエン・スィリナティア、エルフ自治領との協定に基づく交流研究員です。先日、定例の交代要員として着任しております」
情報局長が薄笑いを浮かべた。
「ふん、定例という言葉は便利だ。派遣理由について、技術局側では『不明』という報告もあったと聞いている」
銀縁の大佐が小さく頷く。
「書類の上では整っています。しかしながら、実情までは踏み込まないのは、いつものことかと」
「たしかに、再確認した人事レポートにも、これといって不審な点はなかった。──もっとも、あの連中は昔から当たり障りのない情報しか寄越さないがな」
情報局長が鼻で笑いながら言葉を継いだ。
「とはいえ、下手に取り込めば自治領相手といえども波風が立つ恐れが。しかし……」
大佐は銀縁のメガネを指先で正し、奥の席で髭を撫でていた参謀本部中将の様子を伺う。
中将は言葉を選ぶように沈黙し、鼻下の髭を親指で一撫でする。
会議室の空気がわずかに沈む。
誰もがその一言を待っていた。
やがて中将は、わずかに目を細めると、静かに口を開いた。
「……今回はヒアリングのみに留めよ」
場の空気が凍るでもなく、静かに収縮した。
ラキネル少将の眉がわずかに動き、表情がこわばる。
「現場の技術者としては、さらなる接触を──」
中将はそれを制するように、手をひとつだけ軽く掲げた。
「必要な配慮だ。今は、事を荒立てる時期ではない」
その言葉に、銀縁の大佐もわずかに頷いた。
「……局長、証拠も目的も曖昧な段階では、動けばこちらの立場が悪くなるかと。まずは注視に留めるのが適当かと考えます」
「兵器局は、監視体制を維持するに留めよ。情報局、補佐を頼む」
「はっ」
冷静な声とともに、情報局長が敬礼した。
その一連のやり取りを、カイは沈黙のまま見つめていた。
彼の胸の内には、別の火種がくすぶっていた。
──言葉だけで魔法が発動する。
それは、技術士官としての前提を根底から揺るがす発見だった。
情報局長は最後にちらりと報告書の末尾に目を落とし、口元に僅かな笑みを浮かべた。
──今後の動向を見極める必要があるな。
そんな無言の視線が、記録者として名を連ねたカイの名のすぐ上に滲んでいた。
やがて会議は静かに散会となった。カイは控えの姿勢を解き、上官に従って会議室を後にする。魔導障壁が静かに緩み、かすかな軋みだけが背後に残った。
厚い扉が背後で閉まると同時に、密閉された空間の緊張がゆっくりと剥がれ落ちる。地下階特有の冷たい空気が、肌の表面に戻ってきた感覚を思い出させた。
──詠唱が、術式を動かす。
あの一節が頭の奥から離れない。
発音、リズム、語調。すべてが明確な意図をもって構成されていた。単なる起動句ではない。〝意味〟が宿っていた──そう感じた。
だが、それを証明する術は、まだない。
自分の直感は、果たして技術士官として正当な根拠と言えるのか。あれを〝語り〟としたのは、専門的判断だったのか、それとも……。
廊下を歩く足音が、コンクリートの床に静かに反響する。
──もし、言葉そのものに術式を喚起する力があるのだとしたら。
それは、魔導技術という体系を根本から問い直す事態かもしれない。
カイは無意識に右手を胸元へと持っていく。そこにあるのは記録書類でも、解析道具でもない。
──ただ、鼓動だけだった。
その言葉がもたらした魔法は、術式だけではなかった。カイ自身の常識さえ、静かに塗り替えようとしていた。