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第23話 継承の芽吹き

 王国北部の地方都市。夜の宿屋の一室。厚い石壁に囲まれた簡素な部屋に、蝋燭の微かな光が揺れていた。王都で生前のカスティオを知る老人──ディナスと会ったリィエンは、その後、しばらくこの宿に滞在していた。


 彼女は窓辺の小さな卓に身を寄せ、膝上に広げた革装の手記を凝視していた。何度も読み返してきたカスティオの遺稿。その頁を、今宵もゆっくりとめくる。


『定義とは、存在そのものの枠組みである──』


 薄紙に刻まれた文字は、彼の筆致そのままに、端正で誠実だった。けれど頁を進めるごとに、その整然さに微かな乱れが混じり始める。思索の苦悩が滲む跡だ。


 ──こんなにも。


 静かに頁をめくりながら、リィエンは胸の奥に微かな戸惑いを覚えていた。自分が知っている、かつてのカスティオは、まだ若く、言葉そのものの美しさと響きに魅せられていた少年だったはずだ。詠唱は契約だと語りつつも、その語り口には柔らかな理想が滲んでいた。世界と通じ合う詩のように、音の重なりを愛していた。


 あれから、どれほどの歳月が流れただろう。自分がこの頁を開くのは、彼が去って久しい後だ。数十年という隔たりの中で、彼は独りこの理論をここまで深く掘り下げていたのか──。


 あの頃の彼は、言葉の重なりに微笑み、音の響きを楽しむように語っていた。だが今、頁の中にあるのは……ただの天賦の才だけではない。長い孤独な時間と、止まらぬ思索の末に紡がれた冷静な分析。理論の奥に、努力の痕跡が静かに滲んでいた。


 ──知らなかった。だが今、その続きを知ってしまった以上、自分もまた、この場所に立たざるを得ない。


『言葉は単なる記号ではない。音韻は現象を指し示すだけでなく、その背後にある構造と属性を規定する。水とは単なる液体ではなく、マナ同士の結合構造、流動の性質、温度による相転移──そうした内的性質のすべてが、定義体系に内包されている。詠唱とは、その定義体系に介入する行為である。ゆえに、言葉の正確さが結果を規定する。音韻純度の重要性はそこにある。だが、それは表層に過ぎない。本質は定義そのものの改編だ。』


 リィエンは頁の文字をそっと撫でるように指先でなぞった。そして、ゆっくりと息を吐く。


「おばあさまが教えてくれた、古代詠唱の〝重なり〟……多層の定義……」


 思い返す。幼き日に耳にした儀式の響き。単なる祝詞ではなく、重層的に積み重なる言葉の流れが、まるで世界の在り方そのものに触れているようだった。


『単純な定義操作ならば、初歩的な詠唱でも可能だ。だが、現象は複雑で動的である。属性は相互に干渉し、多重層を形成する。ある層の変更は、他の層へ連鎖的に波及する。これを安定化させるには、詠唱の持つ意味を補足し、より詳細な操作へと展開させる必要がある。そのためには、膨大な並列演算が必要となる。』


 カスティオはそこまで書き綴り、さらに深く掘り下げようとした痕跡を残していた。


『──定義層の階層管理。安定収束演算。多重変数制御。音韻純度と古来からの魔法陣だけでは対処できぬ。何か新たな補助演算装置の必要性は明白である。しかし……』


 そこで筆跡は、わずかに掠れ、言葉が乱れていく。


『……そのような演算補助の機構が存在しない現状では、これ以上の詠唱および構文拡張は危険領域に入る。誤定義は崩壊を招く。……理論は完成しつつある。だが、我々の手には届かぬ場所にある……』


 長い沈黙の後、静かに頁を閉じたリィエンの瞳に、蝋燭の光が映る。


「……足りなかったのね、あなたの時代には……」


 言葉がこぼれる。


「でも、今なら──」


 脳裏に蘇るのは、あの帝国兵器局の光景だった。


 整然と並ぶ精密宝珠群。幾何学的に編まれた魔法陣。高次振動制御による安定演算。微細な位相ずれすら補正し、連続的な演算展開を実現する宝珠制御システム。


 カスティオが求めた「補助装置」。それは今、帝国の技術によって現実に存在している──カイ・ヴェルティアたち技官の手の中に。


「……ヴェルティア中尉……」


 その名を静かに呟いた瞬間、胸の奥から微かな痛みが浮かび上がる。迷い。怒り。哀しみ。そして、拭いきれない願い。


 帝国という存在への違和感は消えない。あの組織の冷徹さも、無機質さも、現実として知っている。だが──それでも。


「あの方なら……あの方となら、きっとこの続きを、形にできる」


 遠くで時を告げる鐘の音が鳴った。夜明けが近い。窓の外、東の空がわずかに青みを帯び始めている。


 リィエンはゆっくりと立ち上がると、まだ微かに暖かい手稿を胸に抱いた。


 カスティオが遺した理論。祖母リザエルが信じた古代の響き。そして今、自分が抱き始めた新たな確信。


「……もう一度」


 蝋燭を吹き消す。その瞬間、静かな闇が部屋を包み込んだ。だがリィエンの胸中には、確かな光が芽吹いていた。


 彼女はふと、最後に頁の余白に残されたカスティオの小さな走り書きに目を留めた。


『──もし、私の道を継ぐ者が現れるならば。その者は、きっと〝言葉〟と〝技〟を併せ持つ者となるだろう。』


 リィエンは、自治領を立つ時に誓ったあの言葉を静かに思い出した。


《神の定めが忘れられようとしているなら、私はそれを記しに行きます──》


 エルフは見届け、それを記す者。この想いは今も変わらない。けれど今の自分には、それに加えて「ともに歩める誰か」が必要なのだと、ようやく気づき始めていた。


「言葉と、技──」


 その一文が、胸に深く刻まれる。


 カイ。彼は今、その両方を持ちつつある。思索の鋭さと、宝珠制御の精密さと。


 だが同時に、リィエンは自分の内に芽生えたもうひとつの恐れも感じ取っていた。もしこの研究が進めば、帝国はどこまでこの力を求めるのか。あの兵器局の奥深くに潜む、静かだが冷たい熱意──それが新たな歯車を回し始めるのではないか、と。


 窓の外の空は、さらに淡い光を帯び始めていた。リィエンは東──帝国の在る空の彼方を、静かに見つめていた。

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