第17話 失われた場所
王都──白灰色の城壁が高くそびえ、昼下がりの陽光を反射して眩しく輝いていた。細い石畳の道は幾筋にも分かれ、古の建築様式が残る荘厳な石造りの建物が肩を寄せ合って並んでいる。尖塔の先端を彩る青銅の装飾は空を突き、鐘楼からは穏やかな鐘の音が微かに響き渡っていた。
リィエンはゆったりとした足取りでその中心区を歩いていた。帝国の都市とは異なるこの街の空気には、数世紀を超えて積み重なった時間の重みが染み込んでいる。道行く人々の衣装もまた、どこか格式と伝統を漂わせていた。頭上を横切る鳥の影が、長い石造りの回廊に柔らかな影を落としてゆく。
向かう先──かつて王立魔法語協会があった場所は、記憶に刻まれたそれとはまるで違っていた。
瑠璃瓦の屋根だけは当時のままかろうじて残っている。だが、威厳に満ちた石扉には新たに『王国統合法務庁』の銘板が掲げられ、往時の協会の紋章は跡形もなく削り取られていた。石壁には新たな王国行政庁の標章が彫り込まれ、まるで過去を塗り潰すかのようだ。
──やはり、もう……。
心の奥底に冷たい痛みが走る。幾度も覚悟を決めたはずだった。けれど、現実を突きつけられると、その覚悟が脆く崩れるのを感じる。
ゆっくりと扉に手をかける。重厚な石扉が軋む音を立てて開き、ひんやりとした空気が頬を撫でた。内部は簡素で無機質な空間だった。受付カウンターが真正面にあり、左右には整然と書類棚が並んでいる。そこに人の温もりはほとんど感じられない。
高い天井から吊り下げられた燭台型の魔導灯が、冷たい白光を放って室内を照らしていた。まるで昼間の陽光とは隔絶した無機質な世界のように感じられる。床には石の継ぎ目が規則正しく走り、訪問者の足音だけが乾いた音を反響させた。
「ご用件は?」
窓口の男性職員が顔を上げた。若く、端整な制服に身を包んでいるが、表情には事務的な疲労感が滲んでいる。背後の書類棚には分厚い記録簿がずらりと並び、権威と無関心が奇妙に同居していた。
「以前ここにあった王立魔法語協会について、お尋ねしたいのです」
職員は一瞬怪訝な顔をしたが、名乗ろうとしたリィエンの言葉を、軽く手を振って遮った。
「すでに解散しています。資料や書類もすべて王立文書館に移管済みです。一般公開はされておりません」
「残っている記録は——」
「ご案内できるものはありません」
よどみなく告げるその口調は、まるで何百回も繰り返された定型応答のようだった。哀れみも同情も、そこには微塵もない。
「ご迷惑をおかけしました」
短く礼を述べると、職員はすでに次の来訪者へと視線を移していた。
重い扉を押し開け、再び陽光がリィエンを包み込む。昼の高い太陽が、石畳にくっきりと長い影を落としていた。歩を進める人々は忙しなく交差し、この地にかつて理想に燃えた学者たちが集っていたことなど、とうに忘れ去られたかのようだった。
──無理もない……。
カスティオが亡くなってからしばらくして、協会は「歴史的使命を終えた」との宣言を行い、解散した。理由も明かされなかった。あれからすでに30〜40年は経っている。
それでも──
王立大学の裏手にひっそりと佇む古書店へとリィエンは足を運んだ。蔦が絡まる木製の看板が微かに軋む。『ルナセス古書房』──懐かしい文字が視界に入る。書店の主は、カスティオを協会に紹介した頃、協会で幾度も議論を交わしたエルフの学者だった。
扉を押し開けると、柔らかな鈴の音が響き、埃と古紙の混ざった香りが鼻腔をくすぐる。天井まで届く書架が壁際に並び、それらの隙間から、陽光が細い筋となって差し込んでいた。微細な埃がその光の帯の中でふわふわと舞っている。
奥の書斎では、くすんだ茶色のローブを纏った男が羊皮紙にペンを走らせていた。白髪交じりの髭が揺れ、淡い光が老練な横顔を照らしている。机の隅では古びた砂時計が静かに時を刻んでいた。
「……お久しぶりですね、セルヴェル殿」
リィエンが声を掛けると、男は驚きもせず顔を上げ、緩やかに微笑んだ。
「おや……まさか、君がまた王都へ顔を出すとは。何年ぶりかな? 百年? 九十年……いや、我々にとっては、十年そこそこの感覚かもしれんが。いずれにしても、久しぶりだ」
セルヴェル・ルナセス博士──同じく長命のエルフである彼は、ゆったりと立ち上がり椅子を勧める。その仕草には年齢を感じさせぬ静かな気品が漂っていた。
「実は、今日お伺いしたのは……」
リィエンは静かに事情を語り始めた。声は平静を装っていたが、内心には緊張が渦巻いていた。セルヴェルは黙って耳を傾け、頷き続けた。
やがて、重い沈黙を破るように深く息を吐く。
「……軍部だよ。大きな声では言えないが」
「やはり、ですか」
「協会の資料は、表向きには王立文書館に移管したことになっているが、実際は軍の研究機関に没収されている。君の求めるような記録は──軍が保管しているか……消された可能性が高い」
セルヴェルは窓の外へと視線を移した。微かな風がカーテンを揺らし、差し込む陽光が木漏れ日のように縞模様を描き出している。
「近ごろは、魔法語の研究に近づこうとする者への圧力もあるらしい。……君も、気をつけたまえ」
「心得ています」
リィエンの脳裏に、かつての友──カスティオの最後の姿が浮かぶ。彼女は唇を固く閉じた。
「だが、まだ道が閉ざされたわけではない」
セルヴェルは背もたれに身を預け、声を落とした。
「ひとり、思い当たる人物がいる。かつて協会の書庫整理に従事していた者だ。カスティオが活動していた頃には、まだ若手だったが、混乱の時代を経ても今も生きている」
「お名前を伺っても?」
「ディナス・フェロルト。几帳面で記憶力も確かだった。今はたしか八十を越え、南区の外れに静かに暮らしていると聞くが……或いは当時の断片を残しているやもしれぬ」
リィエンは小さく息を吐き、わずかに微笑んだ。
「ありがとうございます、セルヴェル殿。慎重に行動します」
「どうか、命を惜しむ賢さを忘れぬようにな。……あの頃の君たちの理想が、いつか再び芽吹く日が来ることを祈っているよ」
リィエンは静かに一礼し、書店を後にした。
王都の空は高く澄み渡り、冷えた風が街路樹の葉を揺らしている。人々の賑わいの奥底に、言葉にできぬ重苦しい気配が静かに満ちているように感じられた。