第16話 中庭の思い出
薄く立ちこめる霧の帳。その向こうに、かつての修道院跡が静かに姿を現す。
古びた石の回廊が、四方から中庭を囲んでいた。中央には泉の跡──今は干上がり、ただ苔むした縁石だけが、かつて水面を湛えていた記憶を残している。
風が落ち葉をさらい、静けさがひとしきり庭を満たす。
翡翠色の瞳が、その光景を静かに見つめていた。
リィエンはそっと歩を進めた。指先で苔をなぞるたび、柔らかな記憶の欠片が、泉の底から揺らめくように立ちのぼる。
──まだ幼かった頃、この場所で。
「よくお聞き、リィエン」
柔らかな声が耳元に蘇る。祖母リザエルの面差しが、霧の中に浮かび上がる。
中庭の片隅、石台の上。幼きリィエンは祖母の膝に抱かれていた。午後の日差しが降りそそぎ、泉にはまだ水が満ちていた頃──水音がわずかに響く。
「マナってね、いろんな形に変われるの。水みたいに流れることもあるし、風みたいに広がることもあるのよ」
「水にも、風にもなるの?」
「そうよ。でもね、マナは自分で『何になりたい』って決められないの。誰かが呼びかけてあげないと、どうしたらいいのか分からなくなるの」
祖母は、泉の水面を指先で軽く撫でた。波紋が静かに広がる。
「その呼びかけ方が、とても大事なの」
「呼びかけ方……って?」
「たとえばね、おまじないの言葉を唱えるとき。もし『お守りください』って願いをこめて言えば、マナは守ってくれる形になる。でも、ただ声に出すだけで何も考えていなかったら──マナは何をしたらいいか分からなくなって、ふわふわしちゃうの」
リィエンは小さく目を丸くした。
「ふわふわ……迷子みたいになるの?」
「そう。だから詠唱って、本当はお話と同じなのよ。お願いや思いをマナに伝えてあげる言葉なの」
その言葉の端々が、幼心にもどこか深く残った。
リザエルはさらに優しく微笑み、リィエンの髪を撫でた。
「きっと、あなたはこの先、言葉の力を学ぶわ。音だけじゃなく、心の奥にある意味を伝えること。難しそうに思うかもしれないけど、大丈夫。言葉はあなたの友だちになってくれるから」
リィエンは素直に頷いた。まだ意味は完全には理解していない。ただ、祖母のあたたかな手のぬくもりと、泉に漂うやさしい光景だけが、心の奥に刻まれていくようだった。
──やがて祖母が亡くなり、リィエンは時折この中庭をひとり訪れるようになった。風の音に混じって、いつも微かな声が聞こえる気がしていた──祖母の面影が寄り添ってくるように。
そんなある日──
薄曇りの午後、回廊の隅にひとりの少年が立っていた。十代半ばくらいだろうか。金の巻毛が柔らかく揺れ、粗末な旅衣に書物を抱えたその少年は、少し戸惑いながらこちらを見つめていた。
「ここって……草木とお話してるみたいに、静かですね」
「……あなたは?」
「僕、カスティオ……カスティオ・イルナスっていいます。あの、すぐ近くの村で暮らしてて……あなたがここに来るのを、何度か見てました。でも、声かけるの、ちょっと、ずっと迷ってて……」
リィエンは驚きつつも、その素直な眼差しに微笑を返した。
「私にとって、ここは思い出の庭なの。祖母がよく連れてきてくれた場所──」
カスティオは泉の跡を見下ろし、穏やかに笑った。
「ここ、泉だったんですね。水があったら、きっと綺麗だったんでしょうね……」
その日を境に、二人はこの庭で語り合うようになった。言葉について、祈りについて──マナと向き合う在り方について。
「あの……僕、村のお祈りを習ってるんですけど、なんか……祈りの言葉を口にすると……あったかくなるんです。願いがちゃんと届くと、マナが応えてくれる気がして」
少年の純粋な瞳に、かつての自分を重ねる。
幼い日、祖母から授かった教えを、今度は自分が伝える番なのだとリィエンは思った。
カスティオは、書物を携え、夢中で新しい言葉を学んだ。詠唱の響き方を試し、問いを重ねた。
「リィエンさん、こう言ったほうがマナに届くと思いません?」
「風も歌ってくれるような感じがするんです!」
その眼差しはいつも澄み切っていて、彼の中に眠る柔らかな才がゆっくりと芽吹いていくのが感じられた。
あるとき、リィエンはふと問いかけた。
「ねえ、本格的に学んでみたらどうかしら。王都に、魔法語を研究している所があるの。王立魔法語協会っていうんだけど」
リィエンが当時出入りしていた王立魔法語協会のことを話すと、カスティオは目を丸くして、それから顔を輝かせた。
「えっ、本当に!? でも……僕なんかでも大丈夫かな……?」
「大丈夫。きっとあなたなら、もっと多くのことを学べるわ」
希望を胸に、少年は王都へ旅立った。
リィエンが見守ったのは束の間だったが、彼の才能は協会で輝き始めていた。
──だが、その後数十年の時が流れた頃、思いがけない知らせが耳に届いた。
カスティオが自ら命を絶った──と。
それを耳にした瞬間、リィエンの心は凍りついた。
信じたくない想いと、どこかで抱えていた微かな不安が胸を締めつけた。理想に真っ直ぐすぎた。彼はきっと、純粋さゆえに呑み込まれたのだろう。
──間もなく、王立魔法語協会は解散し、跡形もなく姿を消した。
(なぜ? いったい、何が起こったの……)
その疑念は、消えることなく残り続けた。そして今──
再びこの庭に立つリィエンの瞳は、静かに決意を湛えていた。
(真実を──確かめよう)
泉の縁に手を置き、静かな吐息を落とす。
第三試験棟での、あの日の実験。カイの術式が均衡を保った理由──自らの詠唱が「契約」として作用した、そのことを今なら理解できる。
「定義が形を決める……あの方も、きっと辿り着く」
霧の彼方に、祖母の面影と、若き日のカスティオの微笑が揺れていた。
リィエンは、中庭を後にし、礼拝堂の奥へと向かった。
奥にある講壇。その足元の土埃をそっと払うと、薄く埋もれていた線が浮かび上がった。曲線が幾重にも重なり、流れるように交錯していく──古の契約の形。
中央に刻まれていたのは、あの言葉。
──「Arinai vel-en nas torai」
我らの言葉は、神との契約。
胸が震えた。
忘れ去られたはずのものが、ここに残り続けている。自らもまた、その系譜に連なる者なのだと。
──もう、逃げはしない。
リィエンは、そっと顔を上げた。翡翠の瞳が霧の中に射す光を捉えていた。
(王国へ──)