第15話 影を断つ
帝都の朝は、灰色の雲に覆われていた。空気はひんやりと湿り気を含み、低く垂れ込めた雲が遠くの工廠群を霞ませている。魔導工区の煙突からは白い蒸気がゆらりと立ち昇り、わずかな風に流されては消えていく。
リィエン・スィリナティアは、手元の封蝋にゆっくりと指先を滑らせた。わずかな力で封が外れ、中から折り畳まれた一枚の辞令が現れる。整った筆跡で、簡潔に命令が記されていた。
──派遣任務終了。即日帰郷されたし──
それだけだった。理由は添えられていない。説明もなかった。
リィエンは、静かに文面を読み終えると、細く息を吐き出した。その吐息はわずかに白く、消えていく。翡翠の瞳が紙面の端を一度なぞり、もう一度だけ読み返す。文章は変わることなく、ただ静かにそこにあった。
手元の小さな卓上時計が短く鳴る。時間は予定通りに進んでいた。
机上には、昨夜のうちにまとめた革鞄が整然と置かれている。日誌類、個人装備、護身用の簡易詠唱宝珠──必要最低限の品々が収められていた。
ゆっくりと椅子を引くと、床板が微かに軋む。背筋を伸ばし立ち上がり、革鞄の取っ手を握ると、部屋を一瞥する。数ヶ月前にこの帝都に着任した当初の緊張感が、ふと胸の奥を過ぎった。だが今は、もう何の未練もなかった。
窓の外には、兵器局本部の尖塔が淡く霞んで見える。淡い朝光が煉瓦の壁面を鈍く照らしていた。
リィエンは、無言のまま部屋の扉を閉め、鍵を掛けた。
翌朝。帝都中央兵器局本部。
通用門から歩みを進めると、建物内は相変わらず慌ただしい活気に包まれていた。技官たちが書類を抱え、短く指示を交わしながらすれ違っていく。
リィエンは無言でその流れの中に溶け込んだ。誰もが彼女の存在に気づいてはいたが、あえて口を開く者はいない。すれ違った若い士官が一瞬声をかけかけて、すぐに思い直したように目を伏せた。彼女は表情を変えず、歩を緩めることなく廊下を抜けていく。
──名残惜しさも、惜別も、もとよりこの場には似合わない。
始まりから、そう定められていた任務なのだ。
三階執務階の奥──ラキネル少将の執務室前で短くノックすると、すぐに低く「入れ」と返る。
扉を開けると、少将は机上の書類に視線を落としたまま立っていた。光の加減で皺の刻まれた額が深く影を作る。
数秒の沈黙の後、顔を上げた。厳しさと静けさが入り混じった眼差しがリィエンを捉える。
「……ご苦労だったな」
短い言葉。その奥にある多くの意味を、彼女は敢えて読み取ろうとはしなかった。
無言で一礼を返し、再び扉を閉める。
軽い靴音が廊下に消えていく。その背に、少将の視線はしばらく残っていた。
兵器局本部を出ると、薄日が射し始めていた。ひんやりとした冷たい風が石畳を撫で、灰色の外套の裾を揺らす。
並木の先には魔導灯が規則正しく並んでいる。淡青色の光が、未だ湿った街路をぼんやりと照らしていた。
リィエンは迷いのない歩調で通りを進む。背後から、微かな気配がじわりと寄り添ってくるのを感じながらも、振り返らなかった。
一定の間合いを保ちながら、密やかに追う足音。呼吸の波動さえ消すような慎重さ。
──情報局、と脳裏で呟く。予想通りだ。
監視網は離脱の瞬間こそ濃密に張られる。彼らも心得ている。
通りの雑踏が一瞬切れた裏通りの角を、彼女は迷いなく曲がる。その瞬間、誰にも聞こえぬ微細な声が唇から零れた。
「──Sîl navë arta.」
(──シル・ナヴェ・アルタ)
空気がわずかに震え、光が歪んだ。
直後、追尾していた情報局の若い職員が角を駆け抜ける。
そこには、誰の姿もない。
石畳に伸びる建物の影、這う蔦、遠くで鳴く鳥の声だけがあった。
職員は目を細め、周囲を警戒しながら素早く通信宝珠を手に取る。
「監視対象──視界より逸失」
冷静に、だが内心の焦りを隠すように報告する。宝珠の光が淡く消えると、彼は再び視線を巡らせた。
古びた並木道の先、緩やかな坂を下った先に、一台の馬車が静かに待っていた。木製の外板は長年の風雨に晒され、淡く灰色がかっている。
前には白毛の老馬が頭を垂れて立っていた。御者台には痩せた老人が背を丸め、まるで街道の一部のように微動だにしない。
午後の光が長く影を伸ばし、梢を揺らす風が僅かに木々を鳴らす。鳥の羽音が一度だけ低く流れた。
静けさの中、誰もいないはずの馬車のキャビンの扉が、きぃ、と軋む音を立ててひとりでに開いた。
沈黙が数秒流れる。
やがてドアが静かに閉まると、その座席に、外套を纏ったリィエンの姿がふっと現れる。光が形を縫い、静かに結ばれるように輪郭が立ち上がった。
彼女は御者の背に目をやり、静かに告げた。
「──北へ」
老人はわずかに頷いた。鞭は振られず、老馬がゆっくりと前足を踏み出す。車輪が石畳を滑るように回転を始めた。
帝都の街並みは徐々に遠ざかり、霞んだ空に溶けていく。
リィエンは窓越しに遠ざかる街並みを見つめた。翡翠の瞳に映るその光景が、次第に淡く消えていくまで、じっと静かに、身じろぎ一つせずに──。