第13話 契約という仮説
午後の柔らかな光が、窓辺のカーテン越しに射し込んでいた。兵器局本部、三階奥にあるウルバイン少佐の執務室。
書類の山を片付けた机の前で、カイは軽く背筋を正して立っていた。
「──以上が、現時点での私的な整理になります」
淡々と語り終えたカイは、卓上の小さなノートをそっと閉じる。
ウルバイン少佐は、肘をついたまま軽く顎に指を添え、しばし黙考していた。その眼差しは真剣だが、圧力めいたものはない。窓から差し込む光が、彼の肩口に淡く影を落としている。
「……なるほど。言葉の意味が、単なる発動のトリガーではなく、むしろマナとの契約そのものに関わる可能性、か」
「技術観点から見るに、その〝契約〟というものは、マナそのものの振る舞いを決定しうると考えられる、ということか?」
カイは頷いた。
「はい、課長。従来の見解では、マナは単なるエネルギー媒体とされてきました。しかし、もし言葉がマナの振る舞いに関与するとすれば、力の発現様式は、式展開以前の段階で既に影響を受けている可能性があります」
「──つまり、術式の前段階で、詠唱そのものがマナに〝枠組み〟を与えていると?」
「現時点では仮説に過ぎませんが、そういう見方も成り立つのではと愚考致します」
ウルバインはわずかに身を乗り出した。微かな興味の色が滲んでいる。
「だが、中尉。そこに踏み込むならば──どうしても避けて通れぬ問題があるだろう。祖語そのものの正確な発音、そして、〝思い〟の概念だ」
カイは表情を崩さず、静かに答えた。
「おっしゃる通りです。現代詠唱語は過去世代の実用最適化を重ねた結果、音韻の微細な違いを多く吸収してしまっております。たとえば、古詠唱において長短母音や子音の強弱によって意味が変化していた部分も、現代語では一律な表記体系に統合されています」
「つまり、記号化の過程で契約条件が曖昧化されている、と?」
「もし〝契約成立〟が音韻精度に依存するならば、その可能性は否定できません。ゆえに、祖語本来の発音体系を可能な限り復元することが第一の課題となります」
「だが──その資料は、いまの帝国には……乏しい。いや、ほぼ存在しないのが現実だな」
ウルバインの声に、わずかな苦味が滲んだ。
「はい。ただ、僅かに残る記録断片や、スィリナティア氏の詠唱音声から、ある程度の推定は可能と考えております。もちろん、現状では補完の域を出ませんが」
「……ふむ。そして〝思い〟の問題だが、こちらはどう見る?」
「現時点での技術化は困難と判断しています。測定可能な定量指標がなく、精神的要素としての〝思い〟がマナにどのように作用するのか、その機序が不明確です」
「仮に、強い意志や願望がマナの発露に影響するなら、極めて不安定な因子になるな」
「その通りです。ただ、完全な無視もまた危ういかと。先日のスィリナティア氏の詠唱事例においても、発音と同期してごく微細なマナの波形変動が観測されました。これが単なる偶然か、あるいは意志の投影によるものなのか……現段階では判断できません」
二人の間に静かな間が流れた。カイはわずかに視線を落とす。
「……いずれにせよ、私的研究の域を出ぬ段階ではございますが、積み重ねる価値はあると考えております」
「分かった。慎重に進めたまえよ、中尉」
ウルバインはそう言うと、わずかに微笑んだ。厳しさの中にも、技術者としての興味が滲んでいた。
「まだ正式な研究ではないが、こういう思索が積み重なることが、いずれ技術革新を生むのだ。──しかし、我々はあくまでも軍属。組織の枠を逸脱してはならん。分かっているかと思うが、そこは忘れないでくれ」
カイは静かに敬礼し、席を辞した。
──それから間もなく。
同日夕刻、ラキネル局長の執務室。重厚な書棚の前で、ウルバインは報告を終えていた。
「……以上が、ヴェルティア中尉の私的研究の現状です。概念実証の域を出るには、まだ課題が多いかと」
ラキネルは、深く頷いた。
「なるほど……少佐、現段階では問題はない。技術者とは本来、そうして試行錯誤するものだ」
その声音には、抑えきれぬ期待の色が僅かに滲んでいた。ラキネルは視線を少し泳がせ、窓外の夕焼けに目を向ける。
「……言葉が、ただの起動手段ではなく、マナの振る舞いを左右する鍵になるのだとすれば──。一見すれば常識外れの着想だが、術式工学そのものを揺さぶる芽とも言えような」
しばしの沈黙が流れる。ラキネルは、手元のペンを軽く転がしながら続けた。
「もちろん、まだ理屈が追いついてはいない。だが……可能性は否定せぬ。術式展開の数学的制御だけでは説明できぬ現象も、時に散見されるからな」
ウルバインは静かに頷いた。軍人としての慎重さと、技術者としての胸の高鳴りが、そこには同居していた。