第12話 余白に響く音
兵器局宿舎の一室。簡素な書架と実験記録が並ぶその部屋で、カイは手元のノートを静かにめくっていた。
机上には、修道院跡で採取した詠唱片と、兵器局本部で行った小実験の記録、そして一通の書簡。
差出人は、ハルダン・フンベルト元教授。
やや筆圧の弱い、しかし達筆な文字でこう綴られていた。
──あれから私も考察を続けてみたのだが、構文的には以前述べた通り、「祝詞」のような穏やかな形式だ。だが、君が現地で感じ取った〝響き〟の質を思い返していて、ふと別の可能性に気づいた。
aria-selは、「祝福を継ぐもの」ではなく、「魂から湧き上がる響き」ではないか。selは〝継ぐ〟だけでなく、〝由来する〟という意味にも解釈できる。ariaもまた、単なる詩歌ではなく、〝霊的振動〟を意味していた古い用法がある。
またvaraen──これは〝運ぶ〟という意味に加えて、〝結びつける〟という接続的意味を持っていた例が、北部の方言詩に見られる。
となれば、この詠唱文は単なる祝詞ではなく、〝語られぬ契約〟そのものの構文だった可能性がある。風の中に乗せられた声──思いが、聞き手と何かを繋いでいるような……そんな、余白の詠唱だ。
つまり、契約とは、言葉そのものではなく、言葉が含む〝思い〟にこそ宿るものかもしれん。それが、術式と詠唱とが分かたれる以前の、言葉の在り方だったのではないかと──
カイはその文面を何度も読み返した。
そこには教授なりの美学と、長年の古語への愛情が滲んでいた。
言葉の意味が〝力〟の根源になる可能性。
自分が感じたあの一瞬の脈動と、教授の解釈とが、どこかで響き合っている気がした。
彼はノートの余白に、教授の解説をそのまま書き写す。
「〝思い〟は風に乗り、静寂のうちに約定は結ばれる」
そして、その下に書き足した。
「言葉は〝思い〟、それが契約となる」
──石造りの礼拝堂。淡い残響のなかに詠唱が響く。その声音とともに、リィエンの翡翠色の瞳と銀灰の髪が脳裏に浮かぶ。
あの瞬間、彼女は確かに「何かと繋がっていた」──言葉ではなく、音でもなく、その奥にあるものと。
ふと、カイの手が動く。
ノートの片隅に、そっと一行──
──リィエン。
一文字ずつ、丁寧に。だが、書き終えた瞬間、自分でもなぜそうしたのか分からなかった。
窓の外で、風がひと吹き、木々を揺らした。
それは詠唱のようでもあり、ただの風音のようでもあった。
カイは静かにペンを置いた。
灯りを落とす前、ノートのページをそっと閉じる。
記録は、まだ未完成のままだった。
けれど今、その〝余白〟にこそ、何かが宿りはじめている──そんな気がした。