第11話 言葉と契約
帝都に戻った頃には、休暇も折り返しだった。
修道院跡での調査を終えたカイは、再び帝国大学の附属文書館を訪れていた。
午後の陽光が長い廊下に差し込み、赤茶色の煉瓦壁と古紙の匂いが、微かな既視感を呼び起こす。
扉の奥は、あの日と変わらぬ静寂だった。
最奥の窓際、文書に囲まれた机の前に、ひとりの老人が静かに座っている。
「……またお会いしました」
カイが声をかけると、老人──ハルダン・フンベルトはゆっくりと顔を上げた。
「これは……ヴェルティア君。ふふ、やはり来たか。目の奥が、少し変わったようだね」
「教授にご覧いただきたいものがあります。現地での記録です」
カイは手帳から、写し取った二つの文を差し出した。ひとつは、修道院の講壇に刻まれていた儀式的な句。もうひとつは、壁面に彫られていた詩的な文句──そして、その響きは、村で耳にした祭祀歌と酷似していた。
──「Arinai vel-en nas torai」
──「El*en t*al ar*a-s*l, var**n en lir*s.」
(*はかすれて判読できず)
ハルダンは眼鏡をかけ直し、じっと二つの句を見比べた。
「……なるほど。これは明らかに、語彙と主題を共有している。〝vel-en〟──我らの言葉、〝torai〟は神性。」
彼は〝Arinai vel-en nas torai〟の方に指を置いた。
「こちらは儀式的な構文だ。〝ari-nai〟で〝我らの意志〟、〝nas〟は〝結ばれる〟という古形動詞、そして〝torai〟は高位存在との誓約を意味する定型句。……間違いなく創建当時のものであろうね。形式も、古語の儀礼句に一致している」
──「Arinai vel-en nas torai」
我らの意思/我らの言葉/結ばれる/高位存在との誓約
「現代風に意訳すると、『我らの言葉は、神との契約』みたいな感じだろうか」
カイは、ハルダンが発した意訳と、自分が直感した意味がリンクしたことに静かな興奮を覚えた。その熱を抑えながら、問いを続ける。
「では、もう一方……」
カイは壁面の句に指を移した。
「〝El*en t*al ar*a-s*l〟は? 所々読めなかった文字がありましたが」
「ふむ……」
ハルダンは顎に手を当て、しばし、その文を見つめていた。
「おそらく……、〝Elmen thal aria-sel, varaen en liras.〟ではなかろうか」
「構文も文法も、ずいぶん柔らかい。〝elmen〟は〝vel-en〟の、子音の流れが滑らかに変化する詩語化の典型的な例ですね。そして〝thal〟は詠唱動詞。〝aria-sel〟は〝祝福を継ぐもの〟、〝varaen〟は〝運ぶ〟の進行形。……意味としては、祝詞に近い。〝en〟は前置詞、〝liras〟は風や風の精霊といったものを意味します」
──「Elmen thal aria-sel, varaen en liras.」
我らの言葉/〜である/祝福を継ぐもの/運んでいる/〜に向かって(前置詞)/風・風の精霊たち
「こちらは、意訳すると『継がれし祝福の言葉は、風の精霊に乗って運ばれる』、かな」
「実は……村で耳にした祭祀歌が、これと酷似していました。旋律はもっと崩れていましたが、音の配置と語彙が一致していたんです」
ハルダンの目が細くなる。
「……ほう。ならば、この詩句は単なる壁装飾ではないな。〝神との契約〟という句が、後の時代に〝祝福〟という形に再構成されたのだ。つまり、これは〝誓い〟が〝歌〟になった痕跡だよ」
カイは眉を寄せた。
「ということは……この〝Elmen thal aria-sel 〜〟は、後世に刻まれた可能性があると?」
「可能性は高い。講壇の句に比べて、構文にも古典形式の厳密さがない。おそらく、修道院が使われなくなってからの時代に、巡礼者や修道士が何らかの〝祈り〟として記したのだろう。〝契約〟から〝祝福〟へ。……言葉の意味が、柔らかくされていったんだよ」
ハルダンは言葉を置き、少し目を細めた。
「──しかしだね、たとえ形式が崩れても、残したい、伝えたいという意志があった。それこそが、言葉の本質なのだよ」
「それにしても、君があそこまで行けたのは、幸運だった。私が若い頃には、汽車など通っておらず、あの辺境に行くなど夢のまた夢だった。馬で何日もかけて踏破しなければならないような場所でね……学者仲間でも、実際に足を運んだ者はほとんどいなかったよ。まったく、羨ましい限りです」
カイは一礼し、静かに問うた。
「教授……、もし、意味も、発音も、完全に一致した〝祖語〟が、いま再び語られたとしたら……マナは、それに応えるのでしょうか」
ハルダンは、即答した。
「ああ、応えるとも」
それは、長きにわたり言葉の本質を追い求めてきた者だけが持つ、確かな確信の声だった。
「かつて、言葉は世界と結ばれていた。〝Arinai vel-en nas torai〟──それはまさに、〝言葉そのものが契約である〟という宣言。術式ではない。命令でも制御でもない。〝響き〟と〝意味〟が重なったとき、マナは共鳴するのだよ」
ハルダンの語りは、やがて静かな余韻となって空気に溶けていった。カイはその余韻を噛みしめながら、心に浮かんだひとつの問いを口にした。
──我らの言葉は、神との契約。
「……では、その契約を、今も結ぶことのできる者がいたとしたら?」
ハルダンは黙したまま、わずかに頷いた。その表情には、確かな理解と、祈るような沈黙があった。
◇ ◇ ◇
その夜。
カイは宿舎の机に向かい、私的な報告書を書き始めていた。
軍務とは無関係な、個人としての記録。しかし、今後の宝珠開発に役立つ時がきっと来る、という思いもあった。
ペン先はためらわなかった。
【仮説】
・正しい祖語が持つ〝意味〟と〝発音〟が一致したとき、マナは共鳴する。
・契約とは、命令ではなく、言葉によって構築される関係性である。
・現代術式の失効は、構造上の劣化ではなく、〝契約〟の様式を失った結果である。
・なお、正確な発音の体系は現在失われており、再現は非常に困難である。
【観察】
・講壇句:「Arinai vel-en nas torai」
→ 意訳:〝我らの言葉は、神との契約〟
・壁面句:「Elmen thal aria-sel, varaen en liras.」
→ 意訳:〝伝えられし祝福の言葉は、風に乗って運ばれる〟あるいは〝伝えられし我らの言葉は、祝福の風〟
・後者は前者の再構成。語義と旋律が、村の祭祀歌に引き継がれていた。
紙を伏せると、窓の外には静かな夜が広がっていた。遠く、帝都のどこかで、汽笛が一度だけ鳴り、夜の帳に吸い込まれていった。
休暇は、まもなく終わる。
だが、言葉の真理を探す旅は、ようやく始まったばかりだった。