第9話 湯気と余白
第三試験棟の一角にある、技官たちの休憩室。
昼の喧騒がひと段落し、カップから立ちのぼる湯気が、ゆるやかに空気を揺らしていた。
「──スィリナティアさん、帰ったんだってな」
レイン・ミルズ准尉が手元の紙包みを破りながら、ぽつりと言った。そして、手に持ったチョコレートの菓子を口に放り込む。
カイは答えず、手にしたマグを少し傾ける。苦みの残る茶葉の香りが、どこか遠くに感じられた。
「人事局からの連絡票にあった。自治領から連絡があって、急遽、派遣期間を短縮したってさ。なんか、こう……お役目終了、みたいな扱いだとか」
「……そうか」
カイは、ただ静かに頷いた──が、胸の奥では何かが沈んでいく音がした。
記録も、資料も、すべて整理されていた。あの部屋には、彼女がいた痕跡すら、もう残っていないのだ。
しばし沈黙が続いたのち、レインが顔を上げる。
「そういやカイ、お前今年、休暇どうするんだ?」
「……休暇?」
「おいおい、去年は第3世代の開発にかかりっきりだったろ。さすがに今年は、ちょっとくらい取れよ。何だかんだで上も認めてくれるさ、リファレンスがいったん保留になったとはいえ、あれでもまあ、一応の成果なんだから」
冗談めかした言葉に、カイはようやく少し口元を緩めた。
「……考えとくよ」
第3世代宝珠は、起動時安定モードから常時安定モードへの遷移が、あれ以来マナ暴走こそ発生しなくなったものの、依然として不安定だった。
リファレンス実験で推測されたマナ濃度の問題だけでなく、他にも原因が潜んでいるようで、開発はここにきて行き詰まり気味だった。
そう答えたその日の午後、カイは休暇申請の書式に静かに筆を入れた。希望期間は、十五日間。──少なくとも、帝都を離れるには十分な長さだった。
「……休暇、か」
報告を受けたウルバイン少佐は、珍しく窓辺に立ち、沈黙のあとで口を開いた。
背を向けたまま、少佐は淡々と続ける。
「休暇そのものは構わん。だが、何か追いかけようとしているなら、あくまで私的な範囲で収めておけ。軍属技官が余計なことに深入りしたとなれば、あとで火の粉が降ってくるぞ」
「はっ、心得ております」
「……まあ、貴官は律儀だからな。あまり肩に力を入れすぎるなよ、中尉」
「ありがとうございます、課長。少し、気持ちの整理をしたいだけです」
背中越しに交わされる、淡くも確かなやり取り。そうして、休暇願は正式に受理された。
◇ ◇ ◇
帝都の南部──住宅街の一角にある、二階建ての家屋。
門を開けると、庭で遊んでいた姉弟がカイに気づき、駆け寄ってくる。
「おじちゃーん!」
弾けるような声とともに、姉のミーナが飛びついてきた──その後ろには、弟のマルクが少し照れくさそうに顔をのぞかせていた。
「ただいま。ミーナ、大きくなったな。マルクも、元気そうだ」
しゃがみ込んで二人を迎えるカイの頬に、久しぶりのやわらかな笑みが浮かぶ。
玄関の扉が開く。
「あら、いらっしゃい。カイ。珍しいわね? さあ、中に入って」
カイの姉、サラ・マグロールが変わらぬ声で迎えてくれた。エプロン姿のまま、相変わらずせわしない手つきで、ちょうど食卓の準備をしている。
その奥では、義兄のアウラスが新聞をたたみ、軽く手を上げた。
「よう、カイ。久しぶりだな。もうちょっとマメに顔出せよ。ニュースはロクでもない話ばっかりだが、子どもらと遊ぶにはいい季節だ」
「すみません。ええ、しばらく……時間を取れそうです。……たまには、こういう時間も悪くないと思いまして」
カイは微笑みながら、頭を下げた。
「で、最近どうなんだ、仕事の方は?」
「……ええ、なんとか順調ですよ」
サラが淹れてくれたばかりのコーヒーの湯気が、ふたりの間を漂う。
「それにしても、わが国の技術開放路線は本当にありがたい。おかげで王国への宝珠輸出事業も順調だよ」
アウラスは帝都に本社を置く商社に勤めている。
「そうなんですか?」
「ああ、王国でも宝珠は開発されているが、帝国のものが安定性も良いしな」
「ただ、王国にしてみたら、外貨流出が心配だろうな。ま、これは政治の話だが──あちらも静かじゃないらしい」
アウラスがコーヒーを啜る。
「あらあら、せっかくの休日なのに、仕事の話? 夕飯できたわよ」
サラがダイニングの戸口から顔を出した。
出来たばかりのスープの香りが部屋いっぱいに満ち、空気がほんのりと熱を帯びていた。
夜。湯上がりのミーナが、ベッドの上で駆け回る。
「おじちゃん! 戦争のお話して!」
「こらこら、戦争じゃなくて、魔導技術の話、でしょ」
「ちがうもーん。おじちゃんのマホウ、ぶわーって爆発するやつ!」
ミーナの声に、マルクが布団の端から小さく覗く。
「……こわくないの?」
「こわくないよー! だって、おじちゃんがいるもん」
ふたりの無邪気なやりとりに、カイは少しだけ視線を伏せた。
あたたかい時間。確かな生活。穏やかな未来。
だが、心の奥底で、別の何かが静かに脈打っている。
──あの言葉は、本当に偶然だったのか。
──あの詠唱の〝意味〟は、何なのか。
そして、なぜ──誰もそれを語らないのか。
その夜、カイは手元の革張りの小さな手帳を開いた。
ペン先が紙に触れかけ──止まった。
わずかにため息をついて、ペン先を紙から離す。
静かに窓を開ける。
遠くの街灯が、夜気にぼやけている。
彼の背後で、小さな寝息が重なっていた。
──この世界の真実は、まだ眠っている。
カイは、そっと手帳を伏せた。