プロローグ
大陸中央部に位置する帝国。その帝都の東郊、黒煙と機械音が交じり合う魔導工区の外れに、それは建っていた。帝国陸軍工廠第三魔導技術試験棟──煉瓦造りの重厚な外観は、年月の煤けをその身に刻みながらも、内部では外観からは想像もつかない最新の術式と機構がうごめいている。
煉瓦の壁の内側には、複数の実験区画が金属の柵で仕切られ、それぞれに異なる魔導炉が設置されている。天井は高く、配管と導線が網の目のように張り巡らされ、壁面にはマナ制御装置のパネルがずらりと並んでいた。
区画の中央には制御卓が設置され、正面の実験槽へ幾重にも束ねられた配線が接続されており、ここが技術の最先端の場であることを感じさせた。
鋼鉄と術式が交錯する空間。空気にはわずかなオゾン臭と、金属が焦げるような匂いが漂っていた。振動の止まぬ床の下では、魔導炉が低く唸り続けている。
伝承によれば、かつてこの地には〝魔導師〟たちの秘密ギルドが存在していたという。だが、今やその面影を残すものはどこにもない。今ここにあるのは、帝国が築き上げた技術と規律、そして実験の場である。
「応力値、安定。詠唱トリガーに移行」
オペレーターの報告に、彼は短くうなずいた。
彼は制御卓の正面へ歩を進める。歩幅は正確で、無駄がない。その動作は、幾度も繰り返された手順が体に染みついていることを物語っていた。
制御卓に手をかけた彼は、一度だけ深く息を吸う。そして、張り詰めた空気の中に明確な声を投げた。
「式図固定、遷移状態記録開始。──起動」
その言葉と同時に、実験槽内の魔法陣が淡い光を帯び始める。初期起動式が自動的に展開され、浮遊する術式パターンが幾何学的な構造を描いた。
床面の魔法陣には、制御系統を示す細かい術線が走り、その上に薄く蒼白い光が滲んだ。起動直後特有の共鳴振動が、空気中の微粒子をわずかに揺らす。
目視では捉えきれないが、地下の魔導炉からマナが流れ出し、宝珠の中核へと流れ込んでいく感触があった。耳に聞こえるのは微かな振動音と、術式が空間に馴染んでいく低い共鳴のうねり。
彼はその挙動を、ただの数値ではなく〝感覚〟で捉えていた。装置がわずかでも反発すれば、術式の層が揺れる。その兆しを逃すまいと、彼の視線は制御卓の計器と術式の光跡を往復していた。
そして、その瞬間が訪れた。
淡く震えていた術式が、ふと静まり返り、宝珠がひときわ澄んだ輝きを放つ。
第3世代試作宝珠が、予定通りに安定状態へと移行したのだ。
背景の音も、振動も、徐々に静けさを取り戻していく。いくつかの制御ランプが再び緑に灯り、制御卓の『安定確立』『遷移記録保存完了』のランプが淡く光った。
数名の研究官が、小さく拍手を送る。その中で、彼は変わらず淡々と声を発した。
「遷移記録は解析班へ。結果をもとに微調整の上、明日は予定通り、生産部向けリファレンス実験を実施する。術式コードはF7の下に統合してくれ」
その指示には、誇張も高揚もなかった。
だが、彼の瞳の奥には、冷静さの奥に確かな熱が宿っていた。
彼──カイ・ヴェルティア──はただのエンジニアではない。
──魔導中尉。
それは今や古めかしい呼称だ。
革新性や効率性を追求する帝国において、軍制での呼称に伝統の香りが残るのは可笑しな話かもしれない。実験主任という肩書のほうが現代的かもしれないが、カイはこの呼び名を嫌っていなかった。
魔法陣技術が科学化された現代においても、どこかに残る言葉の力と、そこにあるべきロマンを信じていたのだ。
帝国西部地方の片田舎から、魔導技術系大学への進学を機に帝都へ出てきたカイは、卒業後そのまま軍属となった。
技術を重んじる帝国において、技術系将校は士官学校出身ではなく、こうした専門課程を経た者が就任するのが通例である。
整った顔立ちではあるが、夜を削って積み上げてきた無数の式図が、その眼差しの奥に色濃く滲んでいた。
宝珠兵装の設計と試作、実験主任としての責任、さらには量産体制の調整に至るまで――彼は多忙な技術者だった。
「一応、記録紙の出力も頼む」
「はいよ、中尉殿」
肩越しに声を返すのは、同期のレイン・ミルズ。彼もまた軍属の技術者で、口は軽いが手は確かだった。魔導工科高等専門学校出身で年齢も階級もカイより下の彼だが、軍の基礎教育課程からの腐れ縁である。
この部署には、現場の中隊にはない――まるで大学の研究室のような空気がある。それは軍属でありながら、ここが純然たるエンジニア集団であることの証でもあった。
カイはこの雰囲気を、どこか気に入っていた。
「それにしてもさ、明日のオブザーバー……あれ、エルフだよな? しかも若そうな」
レインが肩越しにぼそりと呟く。
カイは返事をせず、目の前の宝珠配線に視線を落としたままだった。
「……なんかさ、エルフって、今でも詠唱のイメージあるよな。昔は魔法語の本家、みたいな扱いだったろ? でも最近は魔法陣ばっかって話だし」
彼の言葉に、カイはほんのわずかに眉をひそめる。
「……スィリナティアさんは、ただの交流研究員。明日の実験にも観察官としての参加だ。ただそれだけのことだよ」
「でもさ、こんな時期に着任って、なんか妙じゃね? 理由もよく分かんないしさ」
カイは操作盤に指を滑らせながら、無言を続ける。
「……ま、俺たちの宝珠がちゃんと動けば、誰が見てようが関係ないけどさ」
レインはおどけたように肩をすくめ、ひとりで納得したように笑った。
リィエン・スィリナティア。帝国と提携関係にあるエルフ自治領から、〝交流研究員〟として派遣されたという話だった。腰までかかる銀灰の髪に、エルフの特徴である長く繊細な耳、翡翠色の瞳を持つ彼女は、外見だけを見れば人間の25〜6歳といったところか。だが、エルフの寿命は千年にも達するという。見かけの若さは、彼女の真の年齢をまったく映していないのかもしれない。
その存在は、どこか浮世離れしていた。先日の着任の挨拶の際も、彼女は最小限の言葉と丁寧な礼節だけで場を通り過ぎた。誰とも視線を交わさず、感情を表に出すことなく、まるで自分の居場所がそこにないことを知っているかのようだった。
カイもその場にいたが、彼女の声がどんな響きだったか、後になって思い出そうとしても朧げだった。ただ、あの翡翠の瞳だけが強く印象に残っている。
その瞳は、現実よりも遠くを見ていた。目の前の人や物ではなく、記憶か、あるいは彼女だけの内なる風景を映しているようだった。強い意志を宿しているというより、むしろ静けさの中に底知れぬ深さがある。無関心ではない。だが、何かを拒むように、人と距離を置いている。
おそらく、それは彼女自身の意思ではなく、エルフという種族が纏っている空気そのものなのだろう。人間とは異なる時間を生き、異なる感覚で世界を見ている存在。その片鱗が、あの無言の立ち居振る舞いに滲んでいた。
──それは確かに、現代の趨勢だった。
帝国でも隣国の王国でも、いまや主流は〝制御式〟を用いた魔法陣の設計だ。詠唱はもはや形式的なトリガーに過ぎない。「ファイア」と叫べば、誰でもマナ火球を放つ魔導銃が使える時代。言葉の〝意味〟など、誰も気にしていなかった。
ただ、軍属の間では、王国軍が魔法語による制御を一部兵器に組み込んでいるという未確認情報が出回っていた。
魔導技術の進歩は軍事分野だけではない。
魔導技術──魔術はすでに生活の隅々にまで浸透し、民間では詠唱を省略しスイッチで術式を起動できないか、という研究すら始まっていた。
──もはや、〝言葉〟さえ必要とされない未来が、そこまで来ていた。