タイムリープでやり直しバトル!~二度目の高校生活、社畜スキルであの子を倒す~
目が覚め、鏡を見るといつもの私じゃなかった。あの頃の私がそこにいた。
見渡してみれば部屋もあの頃のもの。くたびれたペン立て、埃っぽいクローゼット、ハンガーにつられたブレザーの制服。全て高校生の頃の部屋に合ったものだ。
夢じゃないかと疑ったけれど、いつまで経っても覚める様子がない。ついでに頬もちゃんと痛かった。
「……これはもう、タイムリープってやつとしか思えないわ」
独り言を呟いて、喉の調子がやたらと良いことを確認する。間違いなく昔に戻っている。25歳、冬川月乃。今は17歳のようだった。
どんなオカルトか神様かわからないけれど、きっとこれは思し召しだ。
私の未来を取り戻すための、人生唯一のチャンスなんだ。
あの子を倒して、私の人生を取り戻すんだ。
私はその日のうちに美容院に行った。
昔は目立つことが嫌いで、ただ伸ばしっぱなしにしていた髪。人生を取り戻すなら、あの頃の私のままじゃダメだから、見た目から変えていく。
ショートのウルフカット。髪色は黒のまま。派手な色使いは、あの子でもなければ許されない。
スカートもちょっとだけ切った。膝の少し上ぐらいまで。前の私なら卒倒する露出の高さ。
今の私なら、こんなことはなんでもない。社会人になってから3年、私の度胸は鋼鉄の如く鍛え上げられていた。鍛えるしかなかった。
そうして翌日、人気のない田舎道を抜けて学校へ。
太陽がやけに眩しい。ぎらぎらと、皆を追い立てるかのように強い熱を放っていた。
そうして教室へとたどり着く。2年B組。そこまでの道を歩いているだけで、ノスタルジーに心を絞殺されそうになっていた。
「えっと、確かこの辺のはず……」
廊下側、前から3番目。そこが私の座席だったはずだと、あやふやな記憶を元に進んでいく。
そうして辿り着いたそこには、先客がいた。
「まあそういうわけで、なんかこう、強引なぐらいがかっこいいと思うんだよね、あたし」
「あんたの趣味、ほんとよくわかんないわ……」
声量を気にすることもなく、甲高い声でけらけらと笑いあう女性が二人。私の机の上に一人、座席の上に一人、座り込んで楽しいおしゃべりと洒落込んでいるようだった。
彼女たちのことはよく覚えている。私によくちょっかいをかけていた二人組だ。
いじめられている、というわけではなかったけれど、こんな風によく居場所をないがしろにされていた。座席しかり、誰かとの会話しかり。派手な彼女たちの目には、私がよく映っていなかったらしい。あの頃の私は陰気で、あの子以外との関わりはほぼなかったから。
だけど、あの頃の私はもういない。今ここに居るのは、ブラックな働き方であの頃よりずっと強くなるしかなかった冬川月乃だ。
私の度胸は鋼鉄の如く鍛え上げられている。
私は二人の間に割り込むと、強引な方が好き、と話していた方の子に笑いかける。
「おはよう、木口さん」
「……は?あんた誰?」
ぽかんと口を開ける木口。突然のイメージチェンジに着いてこれていないらしい。私は構わず話し続ける。
「悪いんだけど、そこどいてくれないかしら。私の席だから。秋葉さんもね?」
振り返り、後ろの秋葉にも笑いかける。木口と同じように口を開けているのがどこか可笑しかった。
数秒の後、木口は徐々に笑みを浮かべ、私を指さした。
「え、冬川!?急に変わりすぎて笑うんだけ──」
「ねえ」
話を聞かず、またおしゃべりを始めそうになった彼女の右手首を掴む。
「いった、え?何?」
笑みを浮かべていたその顔が、不快そうに歪む。
空気が冷える。背筋がぴんと張り詰める。
彼女の怒りがふつふつと湧いてきているのは明らかだった。
しかし、もう気にならない。私は手首に力を籠める。
「いった、痛いんだけど!」
「今更もう怖くないのよ、ねえ。散々怖い目にあったんだから、私。本当に怖い人はね、もっとずっと深く抉ってくるの。だから今更、あなた達を怖がったりしないの」
私はそのまま彼女を引っ張り上げる。跳ねるように机から飛び上がり、私の元へ倒れこんでくる木口を抱き留めて、私は笑いかける。
「強引な方が好きなんでしょ?いくらでも強くしてあげる。だから、どいて?」
「ひっ……」
彼女は怯えた目をしてこちらに向け、飛びのいて私から離れた。いつの間にか席を立っていた秋葉の所へ駆け込むと、二人で連れだって、こちらを見ながら廊下へと出て行った。こそこそと縮こまっているその様子は、あの頃の私に対するそれとはまるで違っていた。
自らの変化を改めて実感する。あの頃よりも今の私はずっと強く、逞しくなっている。
これならきっとあの子に勝てる。あの子を上から見下して、胸を張って人生を歩んでいける。生まれ変われる最後のチャンスだ。
私はカバンを机にひっかけて、踵を返し歩いていく。
彼女の居場所は覚えている。
校庭側、前から二番目。
けれど、そんな記憶がなくたって関係ない。その場所は、人の流れを見れば一目瞭然だから。
「春山さん、外見て何してるのかな」
「練ってるんじゃない?アイデアとか。凄いよねー……」
その座席の周囲には人がいない。森の中でふいに出来た木々の隙間のように、陽光が差し込み、不自然な間が開いている。
けれどそちらへ無数の視線が向いている。毎日誰かが、彼女のことを見つめている。
私のことなんて、誰も見ていない。少し髪型が変わったぐらいでは、彼女の足元にも及ばない。きっと今ここで何をしたって、私は誰にも映らない。
皆の世界に私はいない。どれだけ私が努力しても。
少しの人込みをかき分け、彼女が見えてくる。
陽の光を浴びながら、金の髪が美しく煌めいていた。
頬杖をつき、窓の外をぼんやりと眺めるその横顔。瞳は大きく、宇宙を内包しているかのような、どこまでも澄んだ茶色。一点の汚れもなく、陶器を思わせる白い肌。赤く、瑞々しい唇。
彼女を構成する全ての要素が美しい。端正なその顔立ちに、思わず見惚れそうになる。
あの頃の彼女がそこにいた。
ほんの少しの間、ぼうっと彼女を眺めた後、私は首を振り、彼女の前に足を置いた。
「……おはよう、春山さん」
「……あぇ、月乃ちゃん?おはよぉ……」
眠たそうにしていた目を擦りながら、春山は私を見上げた。
「あれ、髪型変わった?かわいいねぇ、かっこよくもあるね」
「……え、ええ。ちょっと気分転換にね」
鈴の鳴るような柔らかい声で親しげに褒めてくるその言葉に、思わず顔が熱くなる。
ずっと恨んでいたはずの彼女は、なんだか拍子抜けするほど平和的だ。ここまで親しい関係だっただろうか。思い描いていた関係とは違っている気がする。
だからと言って恨みが消えるわけじゃない、寧ろこういうところも大嫌いだったはずだ。私は高校三年間、彼女を憎しみ続けていたのだから。
綺麗な顔も、優しい声も、全部大嫌いだ。
私は咳払いをすると、彼女に右の人差し指を突きつける。
「春山さん。春山陽子さん」
「陽子ちゃんじゃないの?いつもみたいに」
「……は、春山さん。私と勝負よ。貴女に決闘を申し込むわ!」
指した指を自らの胸に向け、私は宣言する。
「あらゆる場面で貴女に勝って、私は私を取り戻す。私の自信を取り戻して、自分の人生を取り戻す!覚悟しなさい、大っ嫌いな貴女に吠え面かかせて、私の下だって思い知らせてあげる!」
「……?」
春山は首を傾げた。
どういう話なのかわかっていないらしい。別に構わない、すぐに嫌でもわかるようになる。
こうして私の人生をかけた勝負の日々が始まった。どうしようもない絶望の社会人生活を回避するため、今の私の力で全部めちゃくちゃに、春山の頭を地につけさせてやるための、一世一代の大勝負が。
高校生の頃。私は春山に大敗を決していた。
私は生まれてこの方ずっと勉強ばかりを繰り返していた。それしか能がないから。だからと言って学年主席になることはなく、いつも2位どまりの凡才だったけれど。
それなりにプライドを持っていた。高校でこそは芽を出して、誰もが認めるトップクラスの勉学者になろうと闘志を燃やしていた。
けれどすぐにその夢は打ち砕かれることになる。春山陽子の存在を知った瞬間から。
彼女は美しく、頭がよくて、体が強かった。
学年ではいつもトップの成績を誇り、50m走では記録を出し、シャトルランでは一人で延々と走り続けていた。しかも彼女は必死になっている様子がなかった。本人に聞いた話と合わせても、裏で努力を重ねている、という風でもない。とにかく要領がよかった。いつも眠たそうな顔をしながら異次元の結果を残している。
しかも、詩を書く。彼女をほめたたえる表彰状が他の様々な競技の受賞者のモノと同じように、誇らしく飾り立てられているのを見つけたのが、私の覚えている中で一番最初に、春山の存在を認知した瞬間だった。
彼女は圧倒的だった。全てを持っているように思えた。凡才の私とは違って。
そんな彼女をどうしても無視することが出来ず、私は春山に何度か話しかけていた。きっと私の顔は嫉妬で歪んでいたに違いない。
何を話したか、は覚えていない。他愛ない話だったと思う。
多少、仲良くなりもした。
けれどどうしても、彼女と白黒はっきりつけたい気持ちを抑えきれなかった。彼女は本当に何でもないような顔であらゆる難題をやり遂げる。私がなりたい姿が、涼しげな顔で目の前に立っている。どうしても我慢が出来なかった。
そうして私は高校二年、夏休みに入る前の期末テストで勝負を挑んだ。お互いに本気で対策をして白黒つけようと。彼女も了承した。
結果は惨敗だった。
私なりのベストが彼女の足元にも及ばないとわかった時、私はどうしようもなくなってしまった。それ以降、私は彼女と話すことはなくなった。だけど、敗北の記憶だけはいつまでも脳裏にこびりついていた。
そのまま疎遠になり、卒業して、大学に行き、就職した。就職してからでさえ彼女のことは忘れられなかった。
敗北の記憶のせいで、私は自信を完全に失っていた。やることなすこと不安で仕方がない。大学もワンランク下の所を選び、就職先もそうした。
結果、地獄の社会人生活に突入し、私は朝も夜もなく薄給のために働くことになっていた。
全部自分のせいだ、わかっている。わかった上で、この記憶を消し去りたいと思っている。
だからこそ、このチャンスに全てを懸ける。私は無能だけれど、社会人生活で培ったスキルは必ず彼女を打倒するのに役立つはずだ。
いくつかの勝負の始まりとして、私はまず、とある勝負を提案した。
「小テスト?」
「そう、次の授業の終わり際に行われる小テストで勝負しましょう!」
1限目は数学だった。担当の相模先生は毎回授業の終わり際に小テストを課してくる。その日の理解度を確かめるためのものだ。そんなことをしているせいで、とても人当たりの良い先生なのに生徒から蛇蝎の如く嫌われていた。
私は要領が悪く、家に帰って復習をしないと授業の内容が根付かないタイプであるため、小テストの結果はいつもあまり良くなかった。赤く書かれた『70点』の文字に、いつも心の柔らかい部分を小さく傷つけられていた記憶がある。
春山は当然の如く、毎度100点に近い点数を叩きだしていた。授業中、窓の外を眺めてうたた寝をしていたとしても、点数は変わらなかった。私が彼女に点数で勝利したことは一度もない。
一番日常的な敗北の記憶だった。小さなことではあるけれど、重要なことだ。まずはこういった記憶から上書きしていきたい。新しい人生の第一歩を歩み始めるには手ごろに思われた。
「授業合間の休憩時間に点数を見せ合うの。すぐに結果が出るし、勝敗がわかりやすいでしょう?ほんの小さな勝負ではあるけれど、付き合ってもらうわよ?」
「別にいいけど、うーん……」
春山はそう言うと、首を傾げ、じっと私の顔を見つめてきた。
「……な、何かしら。難しいことは言っていないでしょう?」
「いや、まあ、知ってると思うんだけど。わたしってあんまり人に興味ないタイプでさ。月乃ちゃんが髪型変えてきたのも、イメチェンなんだ、かわいいなぁ、ぐらいのことしか思ってないんだけど……」
春山は頬に手を当てながら、不思議そうな声を上げる。
「なんかこう、性格まで変わってる気がする。月乃ちゃん、先週までもっとおどおどしてたから。急に強くなっちゃって、どうしたのかなぁって」
「……べ、別に、そんなことはないわよ?」
上ずった声を上げながら、心の中で汗をかいた。
流石にほぼ10年の年月が経った自分と過去の自分では、大きな違いがあるのはわかっていた。それが唯一の強みでもある。
何かしらの変化を悟られるかもしれない、ということは当然考えていた。
だけど、本当のことをそのまま言えるわけがない。私の中身は未来の私です、タイムリープしてきました、なんて、誰が信じるのだろうか。人が遠ざかるのは目に見えていた。余計なことは何も言わないでおこう、というのが当面の方針だった。
それも、別に春山以外の人に変化を悟られたとしても、特に気にする必要はなかった。元々関わりが薄い人たちしかクラスには居ないので、噂話が立ったとしても実害はないはずだ。
しかし、春山に悟られるのは正直予想外だった。そこまで私に興味を持っているとも思えなかったから。
私は焦った心を表に出さないようにしながら、作った笑顔で春山に話し続ける。
「髪を切って、気分が浮かれているのかもね。ほら、学年が変わってすぐ、だし。春だし」
「ふうん……そんなものなのかな」
暫く春山は私を見つめていた後、一人納得したように頷いた。
「まあ、いいや。きっと根っこは変わってないだろうし。どっちの月乃ちゃんも、私にとっては大事だもんね」
「……あ、あら、そう。ありがとう……」
照れのないまっすぐな言葉に面喰い、口元をもごつかせながら返事を返す。
改めて、目の前の女と記憶の中の悪女にギャップを感じてしまう。こんなに友好的だっただろうか。
頭を振って余計な考えを振り払う。多少仲は良かったかもしれない。けれど、それだけだ。彼女が私のような凡人にそこまで目をかけるはずがない。友好的に思える態度は表向きのモノで、本当は私を見下しているに違いない。
流されてはいけない。彼女のペースに飲まれてはいけない。気を強く持てるように、拳を握りしめた。
「と、とにかく。授業の後に会いましょう。結果を楽しみにしていることね!」
「はーい。また後でね」
ひらひらと力なく手を振る春山に鼻を鳴らしながら、私は自席へと歩を進める。
今は余裕そうな態度を取っているけれど、すぐに春山も驚くことになるはずだ。
私が社会人生活において経験した出来事を思い出す。あの頃を想えば、こんなテストは赤子の手を捻るようなものだ。
私は席に座ると、カバンからとあるものを取り出した。
そしてそれを数秒眺めた後、ポケットにしまった。
「どうよ、春山さん!私の勝ちね!」
「おおー」
私は日光を反射し燦然と輝くテスト用紙を春山に見せつけた。
『100点』の文字が書いてある、煌めくテスト用紙を。
「あいつあんな成績よかったっけ……?」
「し、知らんわ……どうでもいいよ」
秋葉と木口もこちらを見てこそこそと話している。テストの点数で揶揄われた記憶を思い起こす。あの二人からしても、予想外の上り幅だったのだろう。私は聞こえてないふりをして、春山に微笑みかけた。
「春山さんは95点。完璧な勝利よ!」
「すごい。いつももっと点数低かったもんね。予習してた?」
「予習はそもそもいつもしていたけれど……まあ、そうね。コツをつかんだってだけよ」
言いながら、私はポケットに入っているモノを握りしめた。
それは、私が新卒の頃から使っている手帳だった。タイムリープした日の晩、何故か床に落ちていたのだ。
手帳は擦り切れ、表紙が所々はげていた。ここには、私が経験したあらゆる出来事が記載されている。私の血がにじんでいる手帳だ。
会社に入ってすぐ、私は仕事を先輩方に教わった。たった一度だけ。
先輩方は質問を許さない。二度聞くことを許さない。一度教えたら最後、即座に実践へと投入された。
ミスをすれば怒鳴られ、脅された。お前は無能だ、社会のお荷物だ、という言葉を何度聞いたことか。
そんなことを繰り返していたせいで、私は一度聞いただけで話の概要が頭にインプットされるようになっていた。要領の悪いあの頃から考えれば、大きな成長と言えるだろう。
苦い、絶望の記憶でしかない。だからこそ、能力を活躍せて昇華させることが出来るのは、素直に喜ばしいことであるはずだ。
この手帳はあの時の自分の結晶のようなもので、私に勇気を与えてくれた。
私は鼻を鳴らし、彼女を見下ろして笑った。
「これでまずは一勝ね。たった一勝とは言えど、とても嬉しいわ。最高の気分よ」
「……」
春山はまた私を見つめ、首を傾げている。
「……な、なに?」
「ううん、なんでも。初勝利おめでと」
彼女は首を振ると、小さくぱちぱちと手を叩く。他人事のような態度が相変わらず癪に障るが、気にしないように努めた。勝ったのだから、それでいいはずだ。
「ええ、ありがとう。こういった勝負を今後も挑んでいくから、覚悟しておくことね。震えなさい、春山陽子!地面に頭を擦りつけてあげる!」
「ん、わかった。それでさ、今日のお昼ってどこで食べる?屋上?」
「……別に、どこでもいいわ」
「わかった、じゃ、屋上ね。わーい、あかるいとこだ」
るんるん、と効果音が聞こえてきそうな喜びように、肩を落とす。
温度差がありすぎるし、平和すぎる。私の勝利が、彼女には全く響いていないようだった。
けれど、そんなことを言っても居られなくなるはずだ。今後、ありとあらゆる場面で私が彼女の上を行くのだから。
そうすればきっと彼女も焦って、私に対抗心を燃やすはずだ。
散々恨んでいるのだから、そうなってもらわなくては甲斐がない。
私の気分だって、どうにも上がり切らないのだから。
「さて……次の勝負は、もう言わなくてもわかるわね?」
「50m走かー」
陽が真上に昇り、真夏の熱をたっぷりと浴びせてくる時間。
私達は校庭で、駆ける少年少女たちを眺めていた。
木陰でクラスの生徒たちが集い、思い思いに時間を過ごしている。そうして順番が来たものから、面倒だというオーラを全身から立ち上らせて、ひとり、またひとりとスタートラインの白線に向かっていった。
私は横にいる春山の言葉にゆっくりと頷いた。
「これもまた、分かりやすい勝負よね。私たちは一緒に走ることになるから、その場で結果が出るわ。敗者は勝者の背中を見るしかないってワケ」
「確かに。まあ、今時珍しい気もするけどねぇ。走って勝負だーって、ちょっと小学生っぽい」
「わ、悪い!?嫌なら断ってもいいのよ!」
鋭い指摘に顔が赤くなる。内心思っていたことをそのまま言い当てられてしまうとどうしようもなかった。
そもそも勝負で白黒つける、という発想が子どもっぽいと言えばそうだが。
けれどそこは譲れない。どれだけ笑われようと、私にはそれが必要だ。
春山はにいっと、意地の悪い笑みを浮かべた。
「ううん、別に。楽しいよ、月乃ちゃんとするなら」
「……な、ならいいけど」
その笑みが見ていられなくて、思わず顔を逸らす。
なまじ顔が良いので、不適な表情が様になる。ぼんやりとしている彼女が不意に見せたそれは、私にとって劇薬のような効能があった。
こういうところも嫌いだ。何もかも美しくて、まるで物語の主人公のようで、自らがモブに思えてくる。
笑う春山がこちらの表情を見ようとするのをなんとか避けていると、突如上から低い声が降ってきた。
「あのー……春山さん、だよね」
「ん?」
彼女と一緒に声のする方を振り向くと、そこには同じクラスの男子がにやけた顔で立っていた。
名前は憶えていない。恐らく個別に話したこともないだろう。
そのにやけ面は私が見えていないかのように、一心に春山を見つめている。
その様子を見て、彼の目的を察した。
「あのさ、俺、菅原。前話したことあるんだけど、覚えてる?」
「んー?覚えてないなぁ」
「あー、そっか。まあいいや。今日さ、クラスの仲いいやつらで放課後遊びにいかない?行先とか決めてないんだけど、ぱーっとさ」
どことなくきざったらしい仕草で彼は春山を誘った。
わかりやすいナンパだった。この時代でも少し珍しいぐらいには。
春山がこの手の輩に声をかけられている姿は何度か見たことがある。彼女の見た目に惹かれるものがいる、という事実は至極当然だし、彼女のぼんやりとした、悪く言えば隙がありそうな態度も、声のかけられやすさに紐づいているのだろう。
しかし、もう結果は見えていた。
「ごめんけど無理。一生行かないと思う。どっか行って?」
「……は?」
男子生徒は口をあけ、呆然としていた。一方の春山は、表情一つ変わっていない。何も起きていないかのように。
結果が見えていたとはいえど、あまりにも無常な様子に、私も同情を禁じえなかった。
春山は基本的に、他人に対して心を開かない。
塩対応、と言ってもいいだろう。見た目から受ける柔らかな印象とは真逆の、取りつく島もない対応を誰に対しても取っていた。男女問わず。
特に彼のような下心がわかりやすい相手には、見ている者全員の心が冷え込むような、恐怖すら感じる対応で当たるのだった。
彼は少しの間口をぱくぱくとさせた後、険しい表情でどこかへと去っていった。もう話すことはないだろう。
春山はこちらに向き直ると、立ち上がり、私に手を差し出した。
「順番、そろそろだよね。行こ?月乃ちゃん」
「ええ、そうね。そうしましょうか」
私は彼女の手を取り、体を引き上げた。
彼女が厳しい態度を取る相手は男女年齢区別がなかったが、唯一、例外的に私だけは最初から柔らかな物腰で接されていた。
理由はわからない。聞いたこともない。何かの琴線に触れていたのかもしれないし、ただの気まぐれなのかもしれない。
けれど、そうして関わることが出来たからこそ、私は彼女の本当の人となりを知ることが出来た。
そして知ってしまったから、私の人生は壊れてしまった。
この出会いに感謝すべきなのか、恨むべきなのかは、今も結論が出ていない。
私達はスタートラインに立つと、走り出す態勢を取る。
「位置について、よーい……」
「あっはっは、これで二度目!昨日に続いて!完膚なきまでの勝利よ!」
「うっそぉ……」
私はたかだかと腕を上げ、勝利を宣言した。
春山に、0.5秒の差をつけて勝利。
「うっそ、あいつ早すぎん!?」
「な、なんかあいつ変わり過ぎじゃない……?ちょ、ちょっとかっこよく見えてきたのやばいわ……」
いつもの女子二人も感嘆の声を上げている。どちらのセリフも心地よかったが、聞こえないふりをした。
「いやー、負けちゃったぁ。びっくりしたよ、こんなに早いんだ?」
「ふふ、そうでしょう?驚いたでしょう?」
「うん、だってさ。月乃ちゃん、めっちゃ足遅かったもんねぇ」
心から不思議そうに、彼女は首を傾げた。
彼女の言っていることは間違いではない。私はこの頃、足が遅かった。というより、運動全般が苦手だったのだ。
生まれてこのかた勉強しかせず、少しスポーツを齧っても全く芽が出なかった。
わかりやすく言うと私は運動音痴だ。
だが、それも学生の頃の話にすぎない。
社会人になってからの走行距離は納車して二週間程度の新車ほどはあっただろう。営業は足でするものだ、と先輩から指示を受けた私は、只管走って先方の場所へと向かっていた。
それに加えて社内でも雑用係としてこきつかわれ、走り回った。
その結果、適応した。足が速くなり、体力がつき、何より体の動かし方が身に付いた。
この頃の私の体は勿論未熟だ。だが、体の動かし方は頭に入っている。それを活用すれば、この体でも早く走る程度のことは造作もなかった。
あの頃の苦労がまた一つ、実っているのだ。
「もう足が遅いのも、頭が悪いのも過去の話よ。私は生まれ変わったんだから!最高の気分ね!崇め奉るといいわ!」
ふんぞり返りながら、私は春山に視線をやった。
すると彼女は、
「……」
「……な、なによ」
昨日と同様に、なぜか私の顔を見つめている。
そうして数秒経った後、口を開いた。
「月乃ちゃんさ。自分じゃ気づいてないと思うんだけど、喜んでるときって目がキラキラーってしてるの」
「……え、そうなの?」
自分は仏頂面だと思っていたので、彼女の指摘に目を丸くする。
彼女は頷くと、続けてまた口を開いた。
「うん。そこが可愛いなーっていつも思ってるんだけど、なんていうか……昨日も今日も、あんまり嬉しそうじゃないね?勝ってるのに」
「……は?」
「目がさ、死んでるよ?」
彼女の言葉の意味がわからず、数秒の間、口を動かすことが出来なかった。
一体何を言っているんだろう。嬉しいに決まっているじゃないか。
過去のトラウマで人生を破壊された私が、そのトラウマを徐々に払拭し始めている。憎き敵である春山を見下すことが出来ている。
自分の人生を、ゆっくりと取り戻しつつある。
こんなに嬉しいことはないはずだ。
というよりも、もし仮に。
この勝利が私の喜びでないのなら、私は一体、人生をどうやって取り戻せば──。
「月乃ちゃん?」
「……な、なんでもないわ。変なことを言わないで頂戴、凄く喜んでいるんだから!」
私は春山に背を向け、木陰へと足を進めた。
先ほどの彼女の言葉の意味を考えないようにして。
頭に過る、恐ろしい可能性が発芽してしまったなら、私は私のことを、どうしようもなくなってしまうから。
自室の息苦しさを不意に思い出す。今日もまた、あの部屋に帰らなければいけないのかと、身を震わせた。
「月乃ちゃーん、今日一緒に帰らん?」
「え、ええと……ごめんなさい、ちょっと帰りがけに用事が……」
「じゃあ今週の日曜空いてる?イオン行かない?」
「あーっと……日曜はいつも、家で勉強漬けだから……」
「うえーえらすぎ、っていうか強すぎ!」
「ある意味イメージ通りだわ、マジかっけぇ……」
両サイドから聞こえてくる高い声に、どういう顔をすればいいかわからず、曖昧な笑みが思わず浮かび上がってきていた。
あの頃の私がこの光景を見れば驚くだろう。あの木口と秋葉が、こうまで私の近くに居るだなんて。
春山と勝負の日々が始まり、一か月程が経った。
始まってから暫く、私は毎日のように春山に勝負を挑んでいた。どれもこれも、すぐに結果が分かる大変小さな小競り合いだったけれど。
どの勝負でも、基本的には私が勝利を収めていた。社会人としての経験を活かしつつ、必要なところでは努力を重ねた。経験の差だけで上を行ける程、春山は甘くはなかった。
何度も戦い、何度も勝った。ただ陰鬱なだけであったはずの高校生活が、日常的な成功を積むことで、どこか爽やかなものへと変わっていく空気を感じ取っていた。
次第に周囲の人間もそれに気づき始めていた。私が髪型だけではなく、その内面も大きく変わっていることに。
一人、また一人と私の存在に気づいていったクラスメイトの輪の中に、私が中心として鎮座することも増えていっている。
ありていに言えば、人気者になっていた、ということになる。高校という小さな、けれど輝かしい一瞬の中で。つい先月までは全くもって灰色の日々であったはずなのに。どこか他人事のような感覚に包まれていた。
あの頃と比べれば、とても喜ばしいことだ。そのはずだった。
けれど結局の所、私は自分でも知覚することの出来ない、一番欲しいものは手に入れられていないように思えていた。
環境が改善し、日常的に春山の上にも立っている。にも拘わらず、私の心の内は何も変わらなかった。
空虚なままだ。喜びがない。今でも私は、自分のことを信用できない。春山よりも上等な人間だなんて、とても思えない。いつまで経っても私はこの世で最も情けない人間であると、そんな考えばかりが頭の中を飛び交っていた。
当初の目的は達成しつつあるはずなのに。
私は考え、一つの結論を出した。
やはり、結局の所、根本的な原因を取り除かなければどうしようもない。
大勝負に出るしかない。
私は周囲の人間にらしくない気遣いに満ちた笑みを浮かべ、席を立った。向かう先は、いつもの窓際だ。
向ってくる私を見て、春山が軽く手を振った。
「月乃ちゃん、大人気じゃん」
「ええ、そうかもね……本当、人生何があるかわからないものだわ」
春山の表情は、客席にいるそれだった。だらしなく緩んだ頬が恨めしい。
こんな意地の悪い顔でも絵になるのが、春山足る所以なんだろう。本当にどこまでも特別で、私とは住んでいる世界が違う女だ。
だが、だからこそ、私は彼女を打倒し、乗り越えなければいけない。
私は彼女に指を向ける。ここ最近で定着した、開戦の合図。今日の分は、とりわけ気合を入れている。
「春山さん、勝負をしましょう。今度の期末テストで勝負よ!」
「ん、いつものやつね、いいよぉ?なんだかすっかり慣れちゃった」
「たるんでいるところ申し訳ないけど、今回はただの勝負じゃないわ。大勝負。これが最後の勝負なんだから」
私は彼女の机に勢いよく両手をつき、目線を合わせた。
眼前に彼女の顔がある。
どこまでも美しい顔。本当に同じ星の存在なのかと疑いたくなるような、圧倒的な美の化身。
そんな彼女に、真正面から相対しながら、私は声を低くする。
「次の期末テストで最後にしましょう。いい加減おままごとみたいな勝負はうんざりなの。はっきりと白黒つけたくなったのよ。これに勝って、私は私を証明する。貴女も本気でやって頂戴」
「……うん、別にいいけど……」
春山は目をぱち、と瞬かせる。いつもとは少し違う、私の余裕のない雰囲気に驚いているのだろうか。
「本気って、別にいままでもずっと本気だったよ?特に変わることはないんじゃ──」
「それは嘘ね。だって貴女、全然努力をしていないもの」
彼女の話を遮り、私は早口でまくし立てる。
「全部わかっているのよ、貴女が本気を出していないことぐらい。いえ、勿論手を抜いているわけじゃないのはわかっているわ。けれど、貴女、詩以外に何も必死になっていないでしょう。そこを必死になって、と言っているの」
春山陽子は天才だった。どんな物事に置いても。
そして要領がいい。大抵のことは適当にやっていても好成績。髪に選ばれているとしか思えない才能。
だからこそ、彼女は日常で必死に努力をすることはない。その習慣そのものがない。
唯一、彼女が全力を向けている詩以外に、彼女がその手を動かすことはなかった。
だからこそ、私は未だ全力の春山を倒したとは言えなかった。
「必死に勉強して、必死に私と向き合って。そして私と貴女、どちらが優れているのか、どちらが上なのか、はっきりさせて。だからこその大勝負、よ」
「……うん、なるほど。月乃ちゃんは流石だねぇ、わたしのことをよく見てる」
その顔に浮かんだものは、普段の彼女には似つかわしくないような、どこか困ったような笑顔。
そして少しだけ目を閉じた後、彼女はまた似つかわしくない、まっすぐで真剣な視線をこちらに向けた。
「わかった。今回はわたしも、本気で努力するね。今までにないぐらい必死に、なりふり構わず努力してみる」
「……ええ、ありがとう」
こう言ってくれることはわかっていた。あの頃と寸分たがわず、彼女は同じことを言っている。
これで開戦の火ぶたは切られた。いよいよ持って最後の勝負の準備をしなければ。
そう思って席を立ちかけた瞬間、不意に、彼女から声がかかった。
「月乃ちゃん」
「ん、なあに?」
「わたしからも提案していい?提案って言うか、お願いなんだけど」
「お願い……?」
「うん。わたしも本気で勝負に挑むから、その代わり、わたしが勝ったらあることを教えてほしいんだ」
彼女の言葉に少々面喰った。
こんなことを言ってきたのは初めてだ。タイムリープしてからは勿論、あの頃も、期末テストで勝負を挑んだ時も。
だが、よく考えれば当然のことではあった。今まで散々一方的に勝負を挑んできているのにも関わらず、彼女は嫌な顔一つしなかった。何か報酬があってしかるべきだ。
私は向き直り、彼女を見下ろした。
「いいわよ、寧ろそうして当たり前、って感じ。これだけ勝負してほしいっていうお願いを聞いてもらっているんだもの。私に出来ることならなんでも教えるわよ。貴女に教えられることなんて、ろくにないけれどね」
「ううん、月乃ちゃんにしかわからないことだから。前からずっと気になってたことなんだけど」
そう言うと、彼女は立ち上がり、そっと私の耳元に口を寄せ、囁く。
「月乃ちゃん、本当は今何歳?何があって未来から来ているの?」
「……え」
顔から血が引いていくのがわかる。一瞬、思考が真っ白に塗りつぶされる。
彼女の言葉がようやく理解できた時、私はじっとりと汗をかき始めた。
「な、なんの話?」
「わたし、わかってるからね。ここにいる月乃ちゃんが、1か月前までの月乃ちゃんとじゃ別人だってこと。寧ろ他の人はなんでわかんないのかな」
可笑しそうに笑うその姿が、どこか彫像めいた美しさを伴っている。
「あ、他の人には言ってないよ、どうせ信じないし。言うつもりもないし。でも、勝ったら教えてほしい。わたしの知らないことを」
そう言うと、春山は私の眼前に顔を寄せる。
額と額がゆっくりと合わさる。彼女しか、最早見えない。
そのまま、彼女は呟くように言った。
「君の秘密を、全部教えて?」
「……わ、わかった……」
頷くしかなかった。
特別な人間だ、ということはわかっていた。だが、その範疇は私の想像を超えるものだったらしい。
ここまで確信を持って他者に超常現象が発生していると断言できるその意志力、洞察力に、私は圧されてしまった。
不安が過る。こんな存在に、たかだか数年の社会人経験と努力で勝てるものなのだろうか。
しかし、やるしかない。火ぶたは切られている。あとはもう走るだけなのだ。
嫌な予感を振り払う様に頭を振り、私は平穏を装いながら、再び声を出す。
「私が負けたらなんでも教えてあげるし、なんでも言うことだって聞いてあげる。だから、本気になって頂戴ね!」
「勿論。ひっさびさに頑張るなーってぐらい、頑張るよぉ」
気合十分、といった様子だった。好都合だ。
私は頷き、息を吐いた。いよいよ、私の人生を取り戻すときだ。
不安も、後悔も、全てこの時のためであるはずだ。
この勝負に勝てばきっと、何かが変わるはずだ。だから、嫌な予感なんて、一つも感じる必要はないんだ。
決意を籠め、踵を返そうとすると、再び彼女に呼び止められる。
「あ、月乃ちゃん」
「何?もう全部話したでしょう」
「今日のご飯、どこで食べる?」
「……お互い本気で争うんだから、勝負の日までは仲良くするのはやめましょう。貴女は敵なんだから」
「ええ!?そんな、寂しい……」
彼女のしょぼくれた声に、思わず私も反応してしまったが、無視して歩き出す。
ただの同情だ。間違いない。
どうにも私は勝負づけておかしくなっているようだ。そうに違いない。
でなければこんなことは思わないはずだ。私も寂しい、なんて。
嫌っていて、自分の人生を壊されていて。
そんな相手に抱く感情など、恨み以外の何があるものか。私はなんども自分にそう言い聞かせた。
2Bの鉛筆を紙の上で走らせる。
シャーペンは苦手だ。いつもすぐに芯を折ってしまう。テストを受ける度に、受けることを想像する度に、余計な力がうんと手に籠ってしまうから。
放課後、私は自室でテスト勉強に励んでいた。いつものごとく、寄り道はしない。決して油断はできないから。
この一か月で気付いたことがある。単純だがそれ故に重大な情報。
世界が変化し始めている。酷く明確な形で。
数学の担当教師が別の人物になった。前任者は転勤という形でどこかの高校にいったらしい。
小テストの内容が変わっている気がする。うろ覚えではあるが。
クラスでカップルが成立していた。意外な人物同士で。
これら全て、私には覚えがない。というより確実に、あの頃には起きていない出来事だ。
私が介入したことでこうなっているのならば、期末テストの内容が変わっていてもおかしくはない。覚えている範囲でヤマを張ることの危険性が一気に増している。
そうでなくともそもそも今回の勝負は厳しいものになるはずだ。
あの頃、私が春山に勝負を挑み、お互いに努力して臨んだこの期末テスト。
彼女は数学以外、全て100点を取っていた。数学のみが唯一98点。
つまり私が彼女を打倒するためには、全教科満点を取らなければならない。
知識に関しても当然限界まで詰め込んだうえで、ケアレスミスの一つも許されない。多少テストの問題が変われど、彼女はどの範囲でも似たような点数を取ってくるだろう。
今の私が全力で挑んで、ようやく勝ち目がある、という程度なのだ。
故に油断はできない。できうる限りのことをするしかない。
夕陽が窓から差し込んでいる。私の部屋は日当たりが悪く、微かに照らされるばかりだ。
電灯はちかちかと瞬いている。寿命だろう。母親に言えば変えてはくれるだろうが、腰が重い。
彼女の目が苦手だった。街を行く人に対して向けるものと同質の視線。
私の姉に向けているそれとは全く違う、余所行きの視線。あの目を、なるべく避けたかった。
電灯を気にしながら、黙々と鉛筆を走らせる。一問、二問と答えていく。
息が苦しい。この部屋にいるといつもそうだ。他人の家にいるようで、酷く居心地が悪い。
どれだけ他人からもてはやされようと、結局こういうところは変わらないらしい。乾いた笑いを向ける相手も、誰も居なかった。
鉛筆を走らせる。
春山に勝つために。私はこの行為をやめるわけにはいかない。
あの頃の春山を打倒しなければならない。私の人生の主導権を取り戻さなくてはならない。
昔からずっとやり続けてきたこの単調な作業に意味はあるのだと知らしめなければならない。
この因縁を払うことで、それが叶うはずだった。
だが、時折余計な思考が挟まる。
そもそもこの自信のなさは、彼女に出会う前からうっすらと抱え込んでいたものではないか、と。
そうであるのならば、彼女はただのきっかけに過ぎないのではないか、と。
であるのならば、今必死になっているこの行為で彼女を打倒したとして、何の意味が──。
「……だめだ、だめだだめだ……」
頭を振る。余計な思考だ。どこかに飛ばさなければ。
考えるまでもない。大嫌いな相手、しかも格上の相手に勝利することは、単に心地がいい。他人の上に立つのは楽しいことだ。
人は自分の価値を自ら測ることは出来ない。他人と比べ、他人を下に見ることでしか自らを保てない。だからこそ、私は彼女の下を抜けたいだけだ。彼女の上を行き、自らの価値を取り戻したいだけだ。
そこに疑問を挟む余地はない。人は勝利の快楽に酔いしれることが出来る。そこに最早自分以外の意志は関係がない。
他人からどう接されようが、どんな言葉をかけられようが、どうでもいい。立ち位置だけが私を楽にしてくれる。競争がこの世の全てだ。人は上と下にしかいないのだ。
私のようなやつは、こういうことでしか幸福を味わうことが出来ないのだ。
きっと、幸福の絶頂へと、このテストで導かれるはずなのだ。
鉛筆を走らせる。かりかりとした小さな音が、虚しく壁に消えていった。
「……」
目の前には、未回答の真っ白なテスト。
まずは国語から。1限ごとに順々に、回答を記載していく。
期末テスト、当日。
「……ふう……」
胸に大きく息を入れ、吐き出す。
握った鉛筆に力を籠める。固まっていた体を静かに揺らし、ほぐす。
目の前の用紙に、全神経を集中させる。
「……よし」
握った鉛筆の先を、回答用紙に置いた。
ゆっくりと私は、回答を進めていく。
「んー……っ」
大きく伸びをする。ついで、口からかぽ、と息が漏れた。
全身から力が一気に抜ける。瞬きの回数が減った瞳が抗議するように乾き、微かにその中が潤っている。
全行程完了。夏休み前、最後のテストはただいまを持って終わりを告げた。
現状の私が持つ全能力を注ぎ切り、後は結果を待つのみ、という形になった。
私は立ち上がり、周囲の人間からテストの出来栄えについて次々と声をかけられるのを躱しながら、彼女の元へと歩いていく。
「お疲れ様、春山さん」
私が声をかけると、彼女はこちらを振り返る。その顔には汗が浮かんでいる。
「おつかれさまー。いやー、疲れた……」
「……貴女でも疲れたりするのね」
思わず率直な感想が漏れる。彼女に疲れという概念があったことそのものに、新鮮な驚きがあった。
「当たり前でしょ?人間だよわたし、オイルで動いてないもん」
「今日日中々聞かないロボット観ね……」
子どものようなセリフに、小さく笑みが零れる。超人の微かな人間らしさに、親近感と可笑しさを感じた。
「まあ、これで完全終了ね。その様子を見ると、約束はちゃんと守ってくれたみたいだし。あとはお互い結果を待ちましょう」
「んう、そうだねぇ……」
机の上に顎を乗せ、大きく口を開ける春山。猫のような仕草が、いつも通りの彼女を感じさせた。
改めて実感する。これで出来ることはもうなくなってしまった。一週間経てば、因縁に決着がつく。
結果が出るまで緊張が解けることはない。だが、出来ることもない。心を静め、粛々と待つのみだ。
私は息を吐き、彼女に向き直った。
「……改めて、勝負に付き合ってくれてありがとう。毎日、張り合いがあったわ」
「いやぁ、別にわたしも楽しんでたし。突然どうしたんだろうと思ったけど、わるくなかったよ」
「ふh、そう。貴女らしいわね。……じゃあ、また来週、会いましょう」
視線を外し、私が座席へと戻ろうとすると、彼女に呼び止められた。
「……何?」
「今日さ、わたし詩のアイデア練りに綺麗なところにいくんだけど、一緒に行かない?」
いつも通りの調子で軽く、彼女は言った。
瞬間、私の脳裏は様々な感情で埋められる。
誘われたこと自体に対する喜び。天才たる彼女の創作風景に対する興味。
そして何より、あの廊下を通った時からずっと胸に抱え続けている、彼女に対する憧れ。
強く、強く行きたいと思った。
けれど、私の中の私はそれを許さない。
お前が行っていい場所ではないという声が脳裏に木霊している。
「……やめておきましょう。結果が出るまでは、仲良しこよしというわけにはいかないわ」
「ええー……そっかぁ」
しょぼくれたその声にどこか罪悪感を覚えながら、私は座席へと足を運ぶ。
彼女と仲良しになるなんて、そんなことは求めていないのだ。
ただ私は彼女に勝って、自分の存在価値を証明したいだけなのだ。
そう、何度も言い聞かせた。
いよいよこんな益体のない問いにも終わりが来る。
この勝負の結果次第で、全てが変わるはずだ。
春山陽子、期末テスト結果。
国語、満点。
数学、98点。
社会、満点。
理科、満点。
英語、満点。
冬川月乃、期末テスト結果。
国語、満点。
数学、満点。
社会、満点。
理科、満点。
英語、満点。
「凄すぎない陽子ちゃん!?」
「テレビ出れるんじゃん!こんなん見たことないし!」
「……ええ、ありがとう」
うちの高校の教師には悪癖がある。成績上位者にテストを返すとき、大きな声でその結果を喧伝するのだ。
特に、私は先生に自慢げに結果を伝えられた。全教科満点であると。
どの教師もきっと親切心でやっているのだろう。実際の所、大抵の成績上位者も喜んでいると考えられる。基本的には、双方が幸せになる伝統なのだろう。
拍手の音が反響し、称賛の高い声が周囲を包む。
高貴な音に囲まれているはずなのに、やけに静かに感じた。
こんなものは、努力すれば当たり前に出来ることなのだ。学生の頃の私は努力に徹しきれなかっただけで。
私如きに出来るはずのことが、他人に出来ないわけがない。
だから誰でも出来ることなのだ。
私は曖昧に笑った。
人込みで遮られ、彼女に視線を向けることは叶わない。
拍手が続く。
他人からの称賛とテストの回答の振り返りでその日は終わった。
放課後も少しの間人に囲まれ、会話した後、一人、また一人と人が捌けてゆく。
そうして、教室には二人だけが残された。
夕陽が赤く染める教室の中、私は彼女の元へとゆっくりと歩いた。
17時のチャイムが校舎内に響き渡る。そうして辿り着いた彼女は、陽を背後にしていて。まるで後光を放っているようだった。
「お疲れ様、月乃ちゃん」
「……ええ」
彼女は椅子を動かし、こちらを向いた。私も彼女の右隣の座席の椅子を動かし、座る。
彼女とまっすぐに向かい合った。
春山はさして悔しそうな顔もせず、切なげに笑った。
「やー、負けちゃった。月乃ちゃん凄いねぇ、正直負けると思ってなかったな。成績とかで誰かにきっちり負けたの、めちゃくちゃ久しぶりかも。もしかして初めて?どっちでもいいけど、完敗だなぁ……」
「……そう」
「もう、わたしじゃ月乃ちゃんの相手にもならないかもね。雲の上の人になっちゃったかも、そんな感覚があるよ」
言いながら、彼女は椅子の背に大きく体重を預ける。肩の力を抜きながら、私に向かって一言、問いを投げつけた。
「……嬉しい?」
「……」
私はすぐに返事を返そうとして、けれど言葉が出てこず、喉がきゅっとしまった。
何を言えばいいのか、声にならない声を吐き出し、咀嚼し、結局何も上手い言い回しで出てこない。
言える言葉は一つだけだった。
「……全く」
「へえ?そうなの」
不思議そうな表情に、私は耐えきれず、視線を下に向ける。
「全く嬉しくない。何故か。自分でもわからないの、こんなに感情が動かない理由が」
「わたしに勝ったのに?」
「貴女に勝ったのに、嬉しくない。というか、何も思わない。今までの勝負だってそうよ。私は一度も喜んでなんかいない。自分から仕掛けているくせに、後に残るのは気持ちの悪い僅かな優越感だけ」
私は何も見えないように、頭を抱え込む。今の私には、ただの教室の風景でさえ情報量の嵐だ。頭の中は既に困惑と疲労と恐怖で埋め尽くされている。
「何もないのよ、何も。こんなものが欲しかったわけじゃないの、本当に欲しいものは別にあるはずなの。けれどそれがわからない。何が欲しいのかわからない。天才だ、なんて何度この一月で言われたことか。それも全然嬉しくない。どうしてなのか、わからなくて……っ」
呼吸がしづらい。脳の中に巣食う恐怖がじわじわと侵食を始めている。奪い取られてしまいそうだ。
「な、何より本当に怖いのは、わからないことそのものなの。嬉しくないことも嫌だけど、嬉しくない理由がわからないのが、怖いの。だって、だって」
決定的な言葉を口にしようとすると、上手く動かない。けれど止まらず、唾液のように言葉が漏れ出ていた。
「わ、わからないなら、私はどうすればいいの?私の人生、めちゃくちゃなのに。もう取り返しがつかないのに。あんなに辛いのに。私の心がどうしようもないなら、どうしたってどうしようもないなら、わ、私ってもう」
歯ががちがちと鳴り、隙間から悲鳴のような息がはみ出す。
この現実を認めてしまったのなら、私は自らが欠陥品であるということを認めなくてはならないから。
けれど最早止まらなかった。
「……わ、私って、もう……終わってて、この先も、ずっと辛いままなんじゃないか、って……だ、大嫌いな貴女に、勝っても、何も、ないなら」
「前から思ってたんだけどさぁ」
静かに私の話を聞いていた春山が、突如声を上げる。歪んだ視界でそちらを見ると、彼女はどこか、困ったように笑っていた。
「月乃ちゃんのそれ、よくわかんないんだよね」
「それ、って……」
「わたしのこと、ずっと大嫌いって言ってるけどさ」
彼女は椅子を離れ、しゃがみこみ、私の目の前で座り込む。
視線がかち合う。
そして、その一言を私に投げた。
「わたしのこと、本当は大好きだよね?」
空気が固まり、冷え、私の顔にぶち当たったような感覚があった。
物心がついてから、ただの一度も親に褒められた記憶がなかった。
父親はいつもどこかで仕事をしている。顔も覚えていない。
母親はいつも姉を見ていた。姉は優秀で、私より賢く、私より体の使い方がうまかった。
私は誰の視界にも映っていなかったように思う。
母親を振り向かせようと努力をした。けれど私は恐ろしく鈍臭く、何をやっても目が出なかった。
勉強だけは多少、見られても問題ないような結果を残すことは出来ていたかもしれない。勉強にかけた時間を考えれば馬鹿らしくなるような結果だったけれど。
それでも母は、姉を見ていた。
友達も出来なかった。誰かと話す時間を学習に捧げて、ようやく人より少し出来る程度だったから。
高校生になっても変わらず机に向かってばかりいたある日。その日はよく晴れていて、校舎の中が夢のようにきらめいていた記憶がある。
春山陽子の作品を見た。
生徒がとった数々のトロフィーや賞状が飾られている廊下で、詩が掲載されているその風景が少し異質だった。けれど、そんなことは気にならなかった。それを目にした瞬間、他のものは全く目に入らなくなったから。
技巧はわからない。何を持って賞を取っているのかもわからない。けれど、その短い文字の集まりに、強く強く惹きつけられた。
目で見ているはずなのに、体全体が囚われたような気がした。
圧倒的な才能が伝わってきていた。それは、私には一生かかってもたどり着けない領域であると、一目でわかった。
それがどうしようもなく嬉しかった。お前には出来ないと突きつけられることが、こんなにも心を楽にしてくれるものなのかと、私はその時初めて知った。
努力じゃどうしようもないのだという現実が、私を安心させた。
それを見てから彼女のことが気になって仕方がなくなり、調べ、姿を見た。
おとぎ話の姫のように美しい姿。
彼女のことを調べた。
何もかもが優秀な超天才。
どこまでも手の届かない存在だった。それが嬉しかった。
けれどただの一点だけは、どうしても許せなかった。
彼女は私より、頭もよかった。
それだけは許せなかった。どうしても諦められない領域だった。
そうして我慢が出来なくなって、彼女に近づいた。彼女は私を受け入れた。
話した。一緒に過ごすことが増えた。仲が良くなった。
何より彼女が持つ圧倒的なカリスマに、心が奪われた。
格好良かった。憧れだった。好きになった。一目見たときからそうだったのかもしれない。
けれど私は私が彼女の隣にいることを許せなかった。私のような価値のない存在がここにいることを憎んでいた。
その価値を証明するために戦って、負けて、彼女から離れて。
気付けば忘れられないまま大人になって、圧倒的な劣等感だけが手元に残って。
私のような存在が生きていく意味は何なのだろう、と、考えるようになっていた。
「……全部ばれていたのね」
「まあ、そりゃあねぇ。月乃ちゃん、わかりやすいもん」
自嘲する私を見て、彼女は屈託なく笑った。
「ずっとわかってたよ、言ってることが嘘だって。嫌いな相手にとる態度じゃないって。だからなんでそんなことを言うのかなって、ずーっと不思議だったよ」
「……あのね」
ぽろぽろと零れる涙を抑えきれず、私は呟くように声を出す。
「……よ、陽子ちゃんのこと、嫌いなのも本当なの。私が一番なりたい姿なのに、貴女にはなれなくて……嫉妬ばかりしているの。私はなんにも持っていないのに、貴女はなんでも持っているから。こんな私が生きてることが許せないの」
こんなことを言っても何もならないはずなのに、止められなかった。抑えていた気持ちがあふれ出す。
「何もなれないし、誰にも見てもらえないの。生きていて苦しいの。だ、だから、貴女に勝てば、私は胸を張れるようになるはずなのに、嬉しくないの。何度貴女の上に立っても、何もしていないみたいに虚しいの。一番欲しいものが手に入っていない気がして、それがなんなのか、わからなくて……だからもう、どうすればいいか、わからないの……」
顔を抑え、嗚咽に喘いだ。
情けない。我ながら情けない。一生分の恥と情けなさで、頭はいっぱいになっていた。
そんな私に、彼女は静かに声をかける。
「……あのね、月乃ちゃん」
そして私の頬を触り、柔らかに視線を合わせた。
「わたし、月乃ちゃんに感謝してるんだ。わたしってさ、基本的に人が嫌いなんだ。下心丸見えな人とか多いし、遠回しに嫌がらせされたりするし……皆、わたしの表面的な部分しか見てないのに、そんなことを言ってくるから大嫌いだった」
けどね、と彼女は続ける。
「月乃ちゃんは、本当に誠実に私と向き合ってくれたよね。純粋に、私に憧れてくれてた。話しててすぐにわかったよ、月乃ちゃんはわかりやすいから。詩を書くこともさ、変わったこと、みたいな目で見ずに、まっすぐに凄いって言ってくれたよね。嬉しかったなぁ……」
彼女の言葉に、私は目を丸くするばかりだった。
私の知らない私がそこにはいた。彼女の目には、そんな風に映っていたのか。
こんな私を、彼女は好意的に見てくれていたのか。
「わたしはさ、月乃ちゃんのいいところ、いっぱい知ってるんだぁ。だから、なんていうか……わたしの立ち場でこんなことを言うのは、偉そうなのかもしれないけど」
そう言うと、彼女は立ち上がった。見上げる私を見て、少しためらった後。
私の頭は、温かなものに包まれた。
彼女の腕に、私は抱かれた。
そして、慈愛に満ちた声で、陽子ちゃんは囁く。
「……いっぱい頑張ったんだね。凄いよ。よく頑張ったね……」
「……っ」
その言葉を聞いた瞬間に、私の体を覆っていた痛みが、全てはがれるような感覚があった。
痛みが、重りが、焦りが、不安が、纏めて投げ捨てられるような。
光の中にいるような、そんな認識の膜に、再び覆われたようだった。
そして気づいた。私はこの瞬間のために努力していたのだと。
ずっとこれを求めていたのだと、ようやくわかった。
「私、頑張ってる……?」
「うん、頑張ってるよ」
「誰より努力してる?他の人と同じになれてる?」
「誰より努力してるよ。他の人と同じどころか、もっと凄いよ」
「……貴女の隣にいても、見劣りしない……?」
「見劣りどころか、わたしの方が遠慮しちゃうぐらいだよ。こんなに頑張ってる、凄い月乃ちゃんの隣に立つんだもん」
それでも、と、陽子ちゃんは続け、腕に緩く力を込めた。
「これからも傍に居てほしいな。いい?」
「……あのね」
私は、彼女からそっと離れた。
陽子ちゃんの驚いたような顔を見ながら、これまでの勝負を振り返る。
今となっては無駄なあがきのようにも思えた。けれど確かに意味はあったはずだ。ここに至ることが出来たのも、あの日々があったからこそのはずだ。あの日々があったからこそ、陽子ちゃんが私のことをわかってくれたはずだから。
下から見るわけでもなく、上から見下ろすわけでもなく、対等な高さで彼女を見る。
彼女が私のことを、凄いと言ってくれるから。この一言だって、畏れることなく伝えられるのだ。
長く長く、彼女の隣に居たいから。認め続けてほしいから。
一呼吸置いた後、私は口を開く。
「陽子ちゃん、あのね、私──」
「あのねぇ、偶には外に出たらどう?ここ一週間家に居っぱなしじゃないの」
「えへへ、まだ外寒くって……」
春になる頃。仕事を終え、帰宅した私を出迎えたのは、こたつに入り、猫のように丸まっている陽子だった。
ここしばらく、家に帰ればこの調子だった。流石にどうなんだと文句をつけたくもなる。
彼女を見ているとこちらまで怠惰に毒されそうだった。着替えるのも面倒になり、仕事着のまま彼女の横に腰を下ろした。
「面倒くさがりなのは知っていたけど、こんなになるとは思わなかったわ。出会った頃も、よく眠ってはいたけれどね」
「幻滅した?」
「……いいえ」
困ったことに。こういう一面を知れて嬉しいと思ってしまう自分がいる。敵と言って差し支えないだろう。
学生の頃は見れなかった一面。見ることが出来るのは、同居している私の特権だろう。
彼女の人間らしい面に、少しがっかりすることもある。けれどそれ以上に嬉しさが勝る。
この一面に、どこか救われるのだ。
「今日もお仕事お疲れ様、月乃」
「はあ……ありがとう、陽子」
結局私はタイムリープする前と同じような企業に就職しなおした。元の時代に戻ることはなかったため、成長しなおした形になる。見た目も大人、心は更に大人だ。
以前の会社より、少しだけ楽になってはいるけれど。その『少し』のおかげで、こうして彼女とゆっくり話す時間も取れている。
タイムリープによる経験チートも使い切り、今の私はただの年齢相応な社会人だ。
けれど、これでいい。同じような人生でも、見えている景色が全く違うから。
幸せそうに寝転ぶ彼女を見る。彼女は不思議そうに見返した後、私の髪を緩く触った。
「髪、伸びたねぇ」
「元に戻しただけよ、別にかっこつける必要もないんだし」
「あれ、かっこつけてたんだ?なんで?」
「……貴女に、見せるため……」
「かわいすぎじゃない?」
「うるさい」
陽子はおかしそうに笑った。それを見て、私も思わず笑ってしまう。
「あ、そういえばさ、明日出かけるつもりなんだけど」
「あら、ついに巣穴から出る気になったの?」
「詩のアイデアを探しにいくんだー。月乃に養ってもらってばっかもあれだし」
冗談めかして笑った後、彼女は首を傾げた。
「一緒に来る?」
「……ええ、勿論」
私は彼女の手を握る。
「貴女の隣なら、どこへだって」
明日は快晴の予報だった。
温かな陽の光に照らされて、ゆっくりと、陽子を景色を眺めるというのは、きっと素敵な時間になるだろう。
夢のような現実が、明日も待っている。
その事実だけで、私は今日を生きられる。
冬から春へと移り行く季節の中、温かな風が、明日も吹いていますようにと静かに祈った。
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