「こっち見てる」
暑い日だった。部屋でごろごろしている夏休み某日。特にすることはないから、スマホ片手にベッドに横たわる。
こうも暑いと、何かに手をつける気力もわかない。脇に置いた冷水の入ったグラスコップは、冷たい汗を掻いていた。
「外、出るか」
蝉の鳴き声がより大きくなって、太陽とじめじめした感じが襲ってくる。ふと風が吹いて、むわっとした熱気を吹き飛ばす。白いTシャツに黒い短パン。誰も居ない家に、いってきますと声をかけ、ドアを閉めた。
少し歩く。夏の感覚なんて半年は忘れていたのに、今度は逆に寒い冬が思い出せなくなっている。アスファルトの近くの空気が揺らめき、既に額に汗が滲む。帽子を持ってくれば良かった。髪の毛を触ると、熱い。
家の近くには公園がある。小学生くらいか、グラウンドからは威勢のいい声が聞こえてくる。スポーツに興味はないが、元気な声を聞いていると夏という感じがする。
スマホを見る。画面は暗かった。チャットアプリの、『1時待ち合わせで』の文字。時刻を確認すれば少し遅れ気味か。
小走りで目的地へ行く。家と騒がしさから離れた閑静な場所だ。蝉の鳴き声がする。
「遅かったね」
俺はスマホを見る。時間は、ちょうど一時。
「待った?」
「かなりね」
「そう」
誰もいないコンビニの脇のガードレールに、彼女は腰掛けていた。見るのは一週間振り。
「まんま部屋着じゃん」
「そっちこそ?」
「私は考えてるし」
突然、呼び出されたから服を選ぼうなんて思っていなかった。別にいいとは思いつつ、彼女の格好を見つめる。ワンピースのような、白い丈の長い服を着ている。長い髪をポニーテールに結っている。青いヘアピンが似合っている。
「いる?」
呆然としている俺に彼女はそう言って、折るタイプのあのアイスを、半分に折って渡した。
「ありがと、ってちょっと溶けてるな」
「ちょっと前に買ったからね」
そう言って、彼女は上を向いて、冷たい汁を飲む。俺も同じようにする。まだ凍っている箇所もあった。
「今日はどうしたの?」
俺は聞く。15分前にコンビニで待ち合わせをすると突然言ってきたのは、彼女の方だった。
「別に、暇だったからさ」
「そう」
特に話題があったりするわけでもない。俺たちは、アイスを食べながら黙っていた。
プラスチックの容器を捨てると、彼女は手招きをする。
「ちょっと歩こ?」
田舎でもないけど、閑静な街。右手に広がるのは果樹園で、左手もフェンスが立てられただけの空き地だ。積乱雲か入道雲か、白い大きな雲が、青空を染めていく。その景色に、指をさして言う。
「綺麗じゃない?」
「……なんかキザ」
「そうかよ」
黙っていても、気まずさは感じない。ふと隣を見る。微妙な距離感だ。彼女と俺の距離は一メートルくらい。恋人同士には少し遠いかもしれないが、心地いい距離。何を考えてるのか、彼女はずっと前を向いて、淡々と歩いている。歩幅は合わせているのか、合わせてくれているのか、ずっと同じだ。ふと彼女がこちらを向く。
「こっち見てる」
「そうだよ」
ふと涼しい風が吹いた。舞う彼女の服。煩かった蝉の鳴き声はもうしない。
「宿題は終わった?」
「手つけてもいないよ」
「そっか、私も」
微笑みを向ける。
「暑い日って、何もしなくても時間が過ぎるよな」
「わかるよ」
ぽつりぽつりと、言葉を継いでいく。
ゆっくりだが、会話には心地いいリズムがあった。
ふとアスファルトが黒く滲んだ。
「雨?」
ぽつぽつと、頭に水が落ちるのを感じる。
「たしかにな」
次第に激しくなる雨に、俺たちの足も早まる。屋根があるバス停までたどり着いたときには、彼女の息は切れていた。俺も少し息は上がっている。
「濡れちゃったよ」
「俺もだ」
ベンチに座りながら、バス停の屋根にぶつかる雨音を聞く。こういう雨はいつもこう、だんだんと雨足が強くなる。横の彼女の服は透けていた。
「降られちゃったね」
「止むまで待つ?」
「そうだね」
彼女はゆっくりと、息を吐く。
「ていうか」
そして彼女は、ちょっぴりと顔を赤らめてこう言う。
「こっち見てる」
「そうだよ」
また同じ返答をする。
バスは20分間隔で停まるが、後ろに雑木林、前には住宅街なバス停で利用者は少ない。
彼女がこちらに寄りかかってきた。
無言のまま、夕立を見る。なんとなく、幸せかもしれなかった。
「私と付き合わない?」
彼女がそう言ったのは、一学期の終業式が終わったあとの閑散とした教室だった。彼女との関係を思い返す。委員会が同じで、ちょっと話すくらい。ふわっと風が、長い髪とカーテンを膨らませた。
「別に」
恋愛感情以前かもしれなかった。でも俺はこれを受けて損なんてない。彼女の整った顔を見ながら、そう思った。
「それは、いいってこと?」
「あぁ」
高校生になれば恋愛もできるだろう、そう思ってはいたがこうもあっけないとは考えていなかった。彼女の顔は逆光でよく見えなかったが、俺の嬉しいのかなんなのかわからない表情は、きっと彼女からくっきり見えたのだろう。
「じゃあ、よろしくね」
恋人と呼ばれる関係でも、ちょくちょく話す友達であることに変わりはない。そう思っていたが、恋人っぽいことはしたかった。
「一緒に帰る?」
__
彼女の家の前に来るのは2度目だった。そして彼女の家に入るのは初めてだった。
「おじゃまします……」
他人の家に入ったことなんて数えるほどしかない。実家じゃない部屋や階段の配置を、新鮮な心持ちできょろきょろ見回す。玄関に置いてある鏡に映る自分の姿を見て、デートじゃない服装をしていたと初めて自覚する。「うちに来る?」なんて、彼女が言うとは思わなかったが。
「じゃあ私は、軽くシャワー浴びてくるから」
待っててと、2階の彼女の部屋に通される。ベッドと勉強机、本棚があって、ベッドの下はカーペットが敷かれている。多分気の所為だが、いい匂いがする。居づらかったが、まぁ待つ。スマホをいじろうとも思ったが、することもないし、すぐに飽きる。
本棚に何が入っているのだろうか。目線の位置には高校の教科書や参考書、ノート類が収められているが、下段には小説、上段には漫画が置いてあった。
こんなの、読むんだな。結局他人ではあるから、こうしていると思考を覗き見しているみたいで、なんだか楽しいかもしれない。
ふと、ベッドの脇に置いてあった手帳を手に取った。
「ごめんね、出たよ……ってあ!それはだめ!」
いつも冷静な彼女が、俺に飛んでくる。
「ごめん、見られたくなかったか」
「まぁ……日記だし……」
へぇ、そんなのつけるのか、と思いつつどんな恥ずかしい内容が書いてあるかは、少し気になってしまうのだった。
無言。さっきはそれでも良かったが、流石に女性の部屋に二人きりで無言は、やはり気まずい。
「あんま関係ないんだけどさ」
「なに?」
「俺と付き合ったのって、なんで?」
気になっていたことを、告げる。すると彼女は一週間前の自分達を思い出したのか、頬を赤らめるのだった。
「そんなの、好きだったから……」
「そうか」
「それに、誰かと付き合ってみたかったし」
「それは、俺もかも」
でも彼女は少し積極的かもしれない。家に連れ込むなんて、本当に好きで信頼している相手にしかできないだろうに。それを意識した瞬間、ベッドに座ってあぐら座りの自分を見下ろしている彼女に対して、少しドキッとした。
「私のこと、好き?」
「なんでそんなこと聞くんだ」
「気になったから」
そんなの__
俺は立ち上がって、彼女の肩をぽんと押す。
華奢な彼女は、ふっと倒れた。
「好きになるよ、そりゃ」
小声で、彼女にだけ聞かせる。
「……そ、っか」
上目遣いで、彼女は俺を見る。
「こっち見てる」
あぁ、ずっと。