第七歩目 現世では問題児
現世では問題児、じゃあ、今は?
諸田の助言どおり、木島は柔剣道場で稽古に励んでいた。柔道着に着替え、ちゃっかりと黒帯を締めている。
木島は柱に括りつけた縄を担ぐように肩に乗せ、前のめりになって引っ張っている。素人でも知っている、背負い投げの動作だ。
木島が縄を引っ張ると、柱がみしみしと不穏な軋み音を立て、縄がぎちぎちと悲鳴を上げる。それでも木島は容赦せず、額に大粒の汗を浮かべながら、何度も縄を引っ張った。
誰が指導するわけでもなく、誰が練習相手になるわけでもなく、ただ一人で黙々と汗を流している。
「偉いですね、きちんと鍛錬をするというのは。やっぱり、一日サボるだけで、筋肉が落ちたりするのでしょうか」
会話の出だしとしては、上々な投げかけだったように思う。
自画自賛をしつつ近寄ると、木島は額から吹き出る汗を、柔道着の襟を引っ張ってガサツに拭う。
「マドカのこと、慰めに来たんなら、意味ねぇからな。入学するときに、説明は受けてんだよ。かなりの確率で、死ぬんだろ。クラスメイトと顔を合わす度に、俺もこいつらも死ぬんかな、て思ってたよ。それだけ」
「まあ、慰めにはちょっと自信がないですが。心配なので、見に来ました。そのぐらいだったら、いいですかね?」
縄に戻ろうとしていた木島は僕へ無表情を向けたかと思うと、すぐに視線を逸らした。
「俺は、死んだほうが、良い、たぶん」
朴訥とした言い方だった。
背けた顔がどんな表情になっているかは、わからない。
木島は僕の存在を無視するかのように、縄を引っ張る練習へと戻る。縄の軋みのしなりが悪く、萎れたような音に聞こえる。
木島の経歴を、脳内に再生させる。薬とアルコールで鈍りがちの僕の脳みそは、老人が文学作品のページ捲るぐらいのスローペースで、ゆっくりと回転をした。
木島リュウタロウ。
小学生の頃は柔道の天才少年として、テレビに取り上げられた経歴も有る。怪我のために第一線からは遠ざかるものの、柔道は今でも続けている。言動の荒さは、父親譲りだという。父親は強い奴が偉い、という考えの持ち主で、木島にもしっかりと血が受け継がれている。
言動は、荒くて威圧的。同じ学年の中では体格も大きくて言葉も荒く、苛立ったらクラスメイトを小突くことは度々あったために、教師も扱いには苦慮していたようだ。
ある日、同級生により、包丁で胸を刺される。木島が日ごろから『面倒を見ていた』同級生で、『木島からいじめられていた。復讐したかった』と証言をしている。
関わるうえで、僕は木島の不器用な優しさを理解している。ただ、それは教師として木島を理解しようと歩み寄ったからだ。
中学生なのに高校生のような体格をした粗暴な同級生からちょっと大きめの声で呼ばれたら、怯えてしまう子は多いだろう。十和田も、最初はかなり怖がっていた。
木島にとっては親しみや善意の類であっても、相手からすれば包丁に頼るぐらいに身の危険を感じる怖さだったわけで、互いにとって不幸であるとしかいいようがない。
「マドカみたいな良い子が死んでしまったんなら、俺も死んだほうが良いよ」
木島は他人事のように呟き、縄を括りつけた柱をぺちぺちと叩いた。
僕には校長先生のような包容力もないし、他の先生みたいな機転も効かない。
木島は絶対に心の底から自分の死を望んでいるわけではないとわかっているのに、何もできず立ち尽くしている。
「先生、先生、先生―! 大変、だから!」
長谷川のヒステリックとも取れる甲高い声に、僕と木島は同時に眼をひん剥いた。柔剣道場の扉をぶち破る勢いで開いた長谷川の背後には、戸惑いの表情を浮かべる諸田もいる。
しんみりと濡れた空気が、緊張感に一変する。
「シュウが、マドカの後を追うって言い始めて、走って逃げた!」
ペットが逃げたわけでもあるまいし、とツッコミかけて、今はそんな場合ではないと切り替える。
「落ち着いてください、長谷川さん。逃げたって、どこにですか」
長谷川の切羽詰まった目には、誰宛てでもない苛立ちが浮かんでいる。
「知らねぇし、私が聞きたいし! 先生、理解してないっしょ? シュウは、マドカの後を追って死ぬって、言って、どっかに駆けだして行っちゃったの!」
叫んだ長谷川は、顔を大きく歪め、泣きそうに唇を食いしばっていた。
ああ、と自分が情けなくて膝から崩れ落ちそうだ。
僕が校長先生にケアしてもらっている間に、生徒たちはもっと苦しみながら悩みぬいていた。胃液なんか吐いている暇があったら、僕こそが生徒たちを励ますべきだった。
いつも僕は、選択肢を間違ってしまう。
また吐き気を催し、僕は吐瀉物を警戒して掌を口元に宛てた。
いつの間にか俯き加減になっていた僕の前に、小ぶりな掌が差し出された。
「先生、ゲロを吐く暇なんて、無いよ。追いかけよう!」
泣き続けたせいで瞼は真っ赤に膨れ上がってしまっていたが、強い意志をもった諸田の瞳が、僕を迎えに来てくれている。
中学生のまだ発達できていない手が、無様に立ち尽くしている僕に伸ばされる。
強く伸ばされたその指が、微かに震えていた。
喉を絞り、諸田に負けないぐらいの強さを携え、頷いた。
「皆で行きましょう。長谷川さん、追いかけながら、何があったのか、教えてください」
僕は諸田の手を取り、長谷川へとお願いをする。背後で木島が動く気配を感じた。十和田のことを、不器用ながらも接してきた木島だから、絶対に追いかけてくれる。
居場所を知らないだろうに、大きな歩幅で動き始めた諸田の手を、僕はしっかりと握った。
どたどたと、木島以外の三人分の足音が不格好に学校の廊下を渡る。すぐに学生服に着替え終わった木島が合流し、いっそう、足音は忙しなさを加速させた。
玄関を抜け、校庭を走りながら、長谷川は経緯を語り始めた。
中根を見送った後、長谷川も十和田も校内にいたらしい。
先に屋上にいた十和田に、長谷川が鉢合わせた形だったようだ。
「ずっと、シュウが泣いてた。それから、うじうじ泣き言ばっかり言うから、ムカッ、と来てさ。『誰だって辛いじゃん。テメェだけが辛いって顔をすんな。そんなに不満なら、追いかけるぐらいしろよ、弱虫』て怒鳴ったら『じゃあ、追いかける。死んでやる!』て逆ギレしやがった。大人しい奴って、キレると怖いんだよね」
毒を吐きながらも、長谷川はたまに目尻を拭う仕草をした。
自分が酷い言葉を浴びせたことも、大人しい十和田を怒らせてしまったことも、長谷川の心には刺さっているのだろう。
「追いかけるとしたら、駅になるのか。マドカを追うなら、駅しかない」
木島は冷静に推理を働かせ、走る。
僕たちみたいに走る基礎体力ができていない人間と違い、木島は熊みたいな体格をしているのに、軽やかに走るし息も上がらない。
「死んでやる、と言ったんですよね。そうしたら、単純な追いかけではなさそうです」
中根を追って死ぬと宣言したのであれば、それは自殺という意味ではないか。明言はしなかったのに、僕たちの背中にうすら寒さが走る。
「ねえ、先生。この世界で自殺をした時って、どうなるの?」
勘付いた諸田が僕の手を引きながら、これまた冷静な質問を飛ばしてくる。
僕は自分の知識にはないため、静かに首を横に振った。
「この世界で自殺をした場合どうなるかは、わかりません。前例はあるはずですが。すみませんが、僕たちも説明は受けていないんです」
「シュウの奴、ムカつく! 一人だけ辛いみたいな顔、しやがって。死んだら、ぶっ殺してやるんだから!」
めちゃくちゃなことを叫びながら、長谷川は目尻から大粒の涙をボロボロと流し、走っている。言葉の荒々しさとは対照的に、十和田を心配している涙であると僕は感じる。
長谷川アコ――、と頭に浮かべると自然と経歴が紐解かれる。
母子家庭の一人娘で、母親は男がいないと生きていけないタイプの人間だ。逆に子供には無関心で、長谷川は母から愛情を注がれずに育った。祖母だけは優しく接してくれたようで、長谷川も懐いていたが死去。長谷川は大きく荒れ、特に、男関係で女子と揉めるのも日常茶飯事だったようだ。無断で早退した日に、死んだ祖母に似ている老婆が横断歩道で倒れている場面に遭遇し、助けに向かった先で、車に跳ねられる。
この中学校で、長谷川は言動の粗暴さは目立つものの、わざわざ喧嘩をふっかけることはしない。また、中根に対しては親切でもあったし、諸田とも良好な関係を築いている。
でも、現実に戻ったら、木島も長谷川も困った生徒の一人としてしか、扱われない。生き返って喜ぶ人間がどれぐらい、いるのだろうか。
生きて欲しい、生き返って欲しい、今度こそ自分の人生を明るく歩んで欲しい。
少なくとも、僕みたいに心も身体もどうしようもない方面に落ち込んでいるわけでないのだから、自分で人生は変えられる。
やり直しはいくらでも、できる。
辛いだろうけれど、苦しいだろうけれど、理解されないかもしれないけれど、それでも、食らいついて生きていけば、どうにかなるかもしれない。
ただ、それは、長谷川たちが生き返った後に責任を持っていない僕の、勝手な願いだ。
悩むせいか、足取りが重く感じる。
走るのも辛いし、考えるのも、辛い。
何もかも、手放してしまいたい。僕はいつも、大事な場面で役に立たない。自分の不甲斐なさを自覚するたびに、自分の足取りが淀む。
「この世界、自殺できる場所は限られているよね。屋上から逃げ出したなら、飛び降りはなさそう。それに、マドカちゃんの後を追いたいんだったら、やっぱり、駅の近くだと思う。木島君の意見に、賛成」
諸田のハキハキした声に、深海に落ち込んでいた僕の意識が浮上する。
「駅というより、海じゃね? 駅は電車が来ないと、飛び降りできねぇ。海が、手っ取り早いよな」
諸田の発言を受けた木島の案に、誰も言葉は発さなかったものの、自然と足がそちらへと向く。
校庭を抜ける前に、花壇に水やりをしている校長先生が視界に入った。
「あ……」
僕が事情を言おうと口を開きかけようとしたところで、校長先生はじょうろを持っていないほうの手を穏やかに振る。
いってらっしゃい、お願いします。
校長先生の笑顔と、クリームパンみたいなふくよかな手が、僕の背中を後押しするようだ。
「すみません、行ってきます!」
久しぶりに大きな声を出した僕は、諸田をむしろ引っ張るぐらいの勢いで駆けだした。