第三歩目 ラジオ越しの青春
胸の内に秘めていた好きなことが、一つ、花開く。
諸田はパンツでも見られたかのように、顔を真っ赤にさせて紙で自分の顔を隠している。
「ラジオが、好きなんですか? というか、ラジオをしたいのかな」
訓練と書いているぐらいだったら、聞く側ではないだろう。
「祖父が、ハンディラジオを持っていて、それで、はい、そう、ですね、好き、です」
水辺で遊ぶ四人の声のほうが大きいと思うぐらいに、諸田の声はか細い。ただ、声の可愛らしさとか活舌の良さのおかげで、何とか会話ができそうだ。
「ふむ、つまり、おじいさんがハンディラジオを聞いていて、それを一緒に聞いていた諸田さんはラジオの世界が好きになった。ということで、ラジオをしてみたい、と」
顎に指を宛てて、少しだけ恰好を付けた仕草で撫でる。
僕の名推理に、諸田は首を何度も縦に振る。大きな肯定というよりは、恥ずかしいところを見られてしまったからヤケクソになっているようでもある。
ラジオとは縁がなかった人生だけれど、子供と関わるうえでそれなりに知識は取り入れてきたつもりだ。
諸田に投げかける次の一手が、脳内に鮮烈な閃きとして浮かぶ。
薬が、じわじわと効いてきているおかげだ。今の僕は無敵状態かもしれない。
「じゃあ、諸田さん。スマフォを出してご覧なさい」
胡散臭い笑顔を浮かべながら誘うと、諸田は訝しげな瞳を浮かべつつも素直にスマフォを出す。中学生らしい、兎の可愛らしいカバーだ。
僕は、自分のスマフォを久しぶりに起動させた。すぐに怒涛のライン通知が表示されたが、無視をする。
休職をしてからも、仕事の進捗状況の確認が随時入っていた。それはそれで仕方ないと返事をしていたら、『返事ができるんだから、大丈夫そうですね!』『こっちは大変なんですよ』『休職の原因は、俺のせいだったりする? 今だから言うけれど、期待して厳しくしてたんだよ』とあらゆる感情が籠ったメッセージが飛ぶようになっていた。
溜まったラインも、おそらくは僕を憂鬱にさせる内容も多いのだろう。
せっかく無敵モードだったのに、喉に不快感がせり上がる。ぐっと歯を食いしばって耐えてから、笑顔を持ち直した。
「アプリをダウンロードして、と。このアプリ、知っていますか?」
諸田は、首を大きく左右に振った。訝しげな瞳は消えていて、今度は、伺うような色に転じている。僕の異変を感じ取ったのだろうけれど、それが憐みなのか心配なのか探りなのかは口を開いてくれないから判別できない。
一旦、胸を大きく上下させて、深呼吸をする。
ラインの通知が表示されたままだから、不安定になる。僕を苦しめるメッセージたちをネットの海に捨てるような気持ちで、指をシャッと動かしてメッセージ通知を隠した。
わだかまりも消えて、無敵モードが舞い戻る。
水辺で遊ぶ長谷川たちの声が弾んだおかげもあって、高揚感を取り戻す。
ふふん、と僕は下手な得意顔を浮かべた。
「これ、自分でラジオ配信ができるんですよ。良かったら、登録をしてみましょうか」
「本当に、できるんですか?」
ここに来て初めて、初めて諸田の目が輝きを帯びた。
まだ成熟できていない瞳が、嬉しそうにきらめいている。
僕はこのきらめきを与えたくて、教師の仕事を選んだったな、と懐かしむ。
きっと、誰かが僕にきらめきを与えてくれた。だから、僕は教師になりたかった。
なのに、僕は輝く暇もなく落ちてしまった。
少しだけ甘酸っぱい気持ちを持ちながら、僕は諸田が登録をする手続きを手伝う。
「最後に、ラジオの名前を決めましょうか」
諸田は黙々と指を動かした。
淀みない動きに反して、寂しい名が付けられる。
「その名前で、良いんですか?」
「うん、良い」
ちょっとだけ説得したかったけれど、諸田の決意は固そうだ。いや、決意というより、ちょっとやそっとでは回復できないマイナス思考が渦巻いている。
ここで問答したら、むしろ諸田の心を傷つけてしまうかもしれない。アプリはまたインストールし直せばいいから、名前はいつだって変えられる。
それに、明るい名称が良いなんていうのは僕の勝手な考えなんだから、諸田が納得していればそれで良いではないか。
僕の中でも着地点を見つけて、うん、と一つだけ頷いた。
「それでは、試しに、録音してみましょうか。何か、喋ってください」
僕にできる次の手を、進めることにした。
心電図みたいな画面を開くと、僕の投げかけに応じて線が揺れる。声を拾っている証拠だ。
諸田は僕を見つめたり、画面を凝視したりと、忙しなく目線を行き来させている。
まさか、こんなに呆気なくラジオの夢が叶うなんて思っていなかったんだろう。余計な世話を焼きすぎたかもな、と反省をしたくなった。
ああ、また、頭が重い。
自己嫌悪と比例して、僕の具合は急降下していく。
無敵モードになったり、落ち込んだりと、僕の精神はとてつもなく忙しない。僕自身が制御できない辛さに、脳みそが爆ぜそうだ。
「先生、何を、喋れば、良いの」
諸田が、僕の袖を引いて、縋るような眼を向けた。
単純なもので、急降下気味だった具合は、頼られたことでぐんぐんと上昇を始める。
教師としての輝きはなくとも、教師としては認められている。
降り注ぐ太陽の熱が、身体に染み入っているみたいに身体が弛緩していく。
唇を緩めて、諸田にできるだけ優しい視線を送った。
「そうですねぇ。ああ、そうだ。実況をすることが、ラジオ上達の極意と書いていましたよね? 例えば、今、クラスメイトが遊んでいる光景を、実況してみたら、どうですか。できたら、諸田さんの感想とかも、交えて」
ううむ、と唇を困ったように尖らせた諸田を、眼鏡の底の瞳でじっと見つめた。
彼女がこの学校に流れ着いた経緯が、自然と脳内で紐解かれる。
諸田カナコ。
小学校までは地方に通い、親の仕事の都合で中学校は都会の学校へ通うことになった。
入学早々のクラスの自己紹介で、緊張のあまり、小声で喋る。悪気はなかったのだろうが、「声が小さすぎて聞こえませーん」というクラスの女子に恐怖を抱き、震える声で「放送部に入りたいです」と喋る。
「そんなモゴモゴ喋っていたら、放送部とか無理だろー」と男子に揶揄われ、クラス全員に笑われる。ちょっとした、弄りだったのかもしれない。学校では、悪意や他意のない弄りは、よくある。ただ、長閑で仲良しな田舎の学校の空気に慣れていた諸田の心には、都会の冷たさとしてぐっさりと刺さったようだ。
次の日から、諸田は不登校になった。
しばらく経過しても、不登校は解消できなかったが、親に泣きつかれ、嫌々ながらに登校する。決死の覚悟の通学途中で、不幸にも事故に遭遇し、なんやかんやあって、今に至る。
いじめ案件ではないし、クラスメイトとしては何故諸田が不登校になったのか、理解できなかったかもしれない。ただ、田舎から出て来て寂しさと不安に押しつぶされそうだった諸田だけが、辛かった。
まだ戸惑っている諸田を眺めながら、もしかしたら、僕は無茶ぶりをしすぎたのかもしれないと思う。
ラジオをしたいけれど、諸田は喋りが極端に苦手だ。それに、トラウマも抱えている。
僕が学校生活を失敗してトラウマになっているように、諸田には荷が重い。
「あ、無理はしないでくださいね! 誰もいないところで、こっそりと、始めるのも、手で――」
「今日はスッキリとした晴天に恵まれました。白い雲の合間を縫って、鳥たちが泳ぐように羽ばたいています。私の眼の前では、クラスメイトの少年少女が、海で遊んでいます。浅い波を蹴り上げたのは、長谷川アコです。太陽の光を含んだ水しぶきが、とても綺麗です。中根マドカの制服に、水しぶきが降り注ぎます。細い身体から喜びを溢れさせたマドカは、両手で水を掬い、なんと、木島リュウタロウに掛けました。しかし、距離があり、不発。木島はニヒルに笑みを浮かべたかと思うと、十和田シュウへ、水を蹴り上げました。十和田は、逃げ腰です、水が怖いのでしょうか。水着も持っていないのに、びしょ濡れになりそうな雰囲気ですね。でも、それが青春というものかもしれません。太陽よりも輝いた同級生たちの笑顔は、私にはとても眩しく映り、素敵だと思いました。以上です」
淀みもなく、透き通るように綺麗な声だった。
諸田の可愛らしい声は、語ることで凛とした輝きを帯びている。
ちょっとした返事ですら物怖じをしていたのに、海ではしゃぐ同級生たちを、愛おしみを込めて表現できた。
「凄いです! 諸田さん、すぐにラジオ放送ができますよ! ああ、そうだ。せっかくなので、うちのクラスのラジオ番組を作りましょう」
心からの賞賛が、拍手を伴って、口から自然と競り上がる。
きっと諸田は不登校になりながらも、家で一生懸命、自分の話術を鍛えてきたに違いない。
プロからすれば拙いかもしれないけれど、僕の胸を温かくぶち抜くには十分だった。
仕切りに拍手をして褒めると、諸田は恥ずかしそうに頬を真っ赤に染めて、膝に顔を埋めてしまった。
「なーに、やってんのよ。先生、中学生に手を出したら、犯罪だからね」
長谷川の呆れた声に、視線を上げた。
気が付けば、長谷川、中根、木島、十和田が僕たちを取り囲むように見下ろしている。
四人分の瞳に囲まれ、僕は引き攣った苦笑を浮かべる。
「えっと、何をやっているのかと言いますと。うーん、内緒、ですかねぇ」
諸田のラジオ好きは、慎重に扱わなければならないと思った。諸田は、とてもデリケートな性格だ。ちょっと長谷川が揶揄っただけで、殻に籠ってしまう可能性は大いにある。
かといって、誤魔化しのための語彙力に乏しい僕は、わかりやすい愛想笑いを浮かべるしかできない。
「ら、ラジオだって、言ってたよね。さっき、諸田さんの声、き、聞こえたんだ。す、すごく、可愛かった。それに、うま、上手いよ」
十和田よ、初めてきちんと他人に向けた会話をしたのに、何故このタイミングなんだ。空気を読んでくれ、と僕の愛想笑いは不器用に固まった。
諸田は、恥ずかしそうに身体を左右にもじもじさせる。意外と好感触のようで、一安心だ。
「私も聞こえた! カナコちゃんのラジオ、聞いてみたいなぁ」
中根が輪をかけて褒めたものだから、諸田は頬を両手で仰ぎながら、小さく「ありがとう」と呟いた。
あとは、問題児二人が下手な台詞を吐かなければ良い。
僕は最悪のパターンを浮かべながら、フォローの言葉を今のうちに考えまくる。
だせぇ、だったら「そんな言い方はいけません」。きしょい、だったら「そんな言い方はいけません」。全部、同じ窘めに終わりそうだ。
うつ病の影響で頭が回らないのではなく、元々、フォローする能力が極端に低い。自分自身が情けなく、あとは心の中で「変な言動がありませんように」と拝み倒すしかできない。
「ふーん、いいじゃん。将来の夢っていうの? そういうのがさ、きっちりあるって、マジで尊敬する。私は、今が楽しければオーケーだから。ちゃんと考えてる人間、めんどくせーとか思うこともあるけど、やっぱり、すげぇ、て思う。ラジオ、してみりゃあ、いいじゃん。てかさ、やろうよ。面白そうだし」
「ラジオって、聞いたことねぇな。ドラマとかのほうが、好きだし。でも、試しに、聞いてみるのも有りかな。それさ、俺もゲスト出演できんの?」
諸田はきょとん、という表情を晒した後で、何度も首を縦に振った。
「よし、じゃあ、リスナー第一号の座は先生がいただきました」
登録を手伝ったから、諸田のラジオ番組名は覚えている。
不安が一気に解消された勢いそのままに、さっそく自分のスマフォに、諸田のラジオ番組を登録する。
諸田のスマフォから、ポロン、と可愛い音が跳ねた。
登録者がきました、の合図だろう。
僕の画面にも、登録が完了しましたのメッセージが浮かぶ。
ラジオ番組名は『独りぼっちラジオ』
中学生活を孤独に過ごしていた諸田らしい、後ろ向きこのうえない名だ。
「今まで一人だったかもしれませんが、賑やかなラジオにしていきましょう」
「じゃあ、企画を考えなきゃだ! カナコちゃん、私も一緒に考えて良い? アコちゃんも、一緒に考えよう。というか、皆でさ、考えようよ!」
中根が枯れ木のような細い両腕を大きく広げて、太陽よりも眩しい笑顔を浮かべる。
決して健康的ではない身体を存分に大きく見せて笑う中根は、どんな光よりも眩しく美しく輝いている。
薬が効いたのか、中根パワーなのか、久しぶりに嬉しい気持ちがこみ上げてくる。
「うんうん、青春ですね。先生も、ちょっと、青春をしたくなりました! 皆さんで、遊びましょう。レッツゴー、です!」
座っているままなんて、勿体ない。
僕は立ち上がって砂浜を不格好に駆ける。砂浜に自分の覚束ない足跡を刻みながら、緩やかに伸びる波へと素足を付けた。足首まで浸す水が、心地よい。今だったら。水の上を全速力で駆け抜けることができそうなぐらいに、身体が軽い。
「皆さん、早く、早く来てくださ―ー」
片手をぶんぶんと振って生徒たちを呼ぼうとして、バランスを崩した。よくよく考えれば、ついこの間までは完全な引きこもり生活をしていたのだった。
些細な波にさえ、足を平気で取られてしまう。
背中から海へと落ち、全身がくまなく塩水に濡れる。耳元では水がチャプチャプと跳ねる音が木霊し、口内にいつのまにか侵入をした塩水が辛すぎて、ペッと吐く。
無様を晒したのに、僕の脳みそは爽快だった。
視界の先の空も、海の青さをそのまま吸い取ったかのように、透き通っている。
「先生、大丈夫?」「どんくさいわね」「鍛えたほうが良い、ストレッチ教えてやろうか」「せ、先生、着替えはあるんですか?」「……先生、びしょ濡れ」
空の風景を隠すように、生徒たちが輪になって僕を見下ろしていた。
順番でも決めていたのかと突っ込みたくなるぐらいに、次々と生徒が僕を心配する。
五人に取り囲まれた僕は、眼鏡を外し、掌で視界を覆う。
「ははは、青春、て奴ですかね。間抜けな先生がいるって、ラジオで言っていいですよ」
視界を遮ったまま、胸を上下させて笑った。自分が思った以上に、大きな笑い声が出て、それがまた面白くて、さらに笑う。
作り物ではなく、心底、笑ったなんて、いつぶりなんだろう。
ずっと、仕事に追われてきた。
いや、仕事というよりは、人間に追われて、脅され、苦しめられてきた。僕の頭の中には生徒の握りこぶしや保護者からの罵声、同僚の先生たちからの指導という名の嫌がらせがずっと巣食っている。
人間がいつしか、化け物に見えていた。
生徒はエイリアンで、僕の身体を八つ裂きにしてしまう、危ない奴らだと思っていた。
掌を、そっと退ける。
今の僕の瞳には、あどけない顔をした生徒たちだけが映っている。
たまらなく、愛おしくて、可愛らしくて、尊い子たちが、視線を交わし合っている。
「いえーい、私もダイブしちゃおう!」「あ、ズルいし、マドカ! だったら、私も」「おい、着替え……て、うぉっ、てめぇ、シュウ!」「し、仕返しだから!」「気持ち良い、かも」
中根を先頭に、皆が海へとダイブする。次々に跳ねる水しぶきが、ぷかぷかと波に浮かぶ僕をさめざめと濡らす。
「あー、本当に、これが、青春だ」
生徒が退いたから、太陽が出番ですとばかりに燦燦と降り注ぐ。
鼻の奥がツンと痛んだ頃には、枯れ果てていたはずの涙が、僕の頬をゆっくりと伝った。