第二歩目 海と電車と校外学習
電車が見える、聞こえる、そこにある。
他の先生による数学を終えて、次が英語の時間で僕の登場だ。本来は社会が専門なのに教師の著しい不足のせいで、付け焼刃の英語を教える羽目になる。
専門でもない英語の担当というだけでもげんなりするのに、教室に入るなり生徒のお疲れモードが見て取れてさらに気分が落ち込んだ。
体調が抜群に悪いはずの中根だけが、生き生きとして黒板を見つめているのが唯一の救いだ。
「皆、お疲れ様ですね。唐突な質問ですが、皆さんは、勉強は好きですか?」
いきなり英語を始めたところで授業にならないからと、教科書を揃えるように机に打ち付けながら投げかける。
「きらーい」と長谷川が間髪入れずに反応をし、次に「普通」と返事をしたのは木島だ。
目線だけは忙しなく動かしているのに返事をしないのが十和田で、諸田は眼を合わせたら負けとでも思っているのか、ずっと俯いている。
「私は好きです! 色んなことを知るって、楽しい。病院生活が長かったから、何もかもが新鮮です! どの勉強も、大好き!」
枯れ木のような細い身体で、中根だけが目を輝かせた。
学力もやる気も天と地の差があるクラスで、どんな英語教育ができるというのだろうか、とまた校長に対して怒りが沸く。だいたい、僕は社会の先生であって、英語の知識だって怪しいのに、と何度目かわからない文句が身体を駆け巡る。
「そうですか。うーん、じゃあ、皆が楽しめるように、校外学習、しましょうか」
どうしたものかと腕を組んだ矢先に、自然と口から零れた。校長先生から許可が出たばかりだから、ついつい出てしまったのかもしれない。
自分で吃驚した後で、白けた顔でもされるのでは、と冷や汗を掻く。
「ラッキー、行こう、行こう。マドカ、立てる? なんだったら、リュウタロウにおんぶさせるよ。勉強なんて、やってらんなーい!」
意外にも、長谷川が最初に喜んで席を立つ。さらに、これまた意外にも、長谷川は中根の席に寄り、配慮までした。
そういえば、面倒臭そうな反応はしているものの、長谷川は授業放棄まではしていない。
問題児であることに間違いはないだろうが、頭を抱えるほどではないのかもしれない。
「大丈夫、今日は体調が良いから、ちゃんと歩けるよ。ありがとう! ねえ、カナコちゃんも、一緒に行こうよ。女の子で三人並んで、歩いてみたかったんだ」
「なにそれ、変な願望。ねえ、マドカがそう言ってるんだけど。転校生、どうする?」
「……うん」
中根に対した口調よりは素っ気ないが、長谷川は諸田にも配慮している。
諸田はたったの二文字を絞り出すように迸らせ、軽く頷いた。
女の子組はすんなりと校外学習を受け入れ、さっさと立ち上がる。
「シュウ、行くぞ、おら!」
「わ、わかったよ、行くから、触らないで、怖いから」
乱暴に手を引こうとした木島に、十和田は小動物のようにフルフルと震えて避ける。
木島の苛立たし気な舌打ちを聞いた十和田は、椅子から転げ落ちて、尻餅を搗いた。
「男子、そういうやり取り、マジでうざったいから」
長谷川の軽蔑声に、何故か、後ろに控えていた諸田のほうがビクついている。
「うっせぇ、ブス」
「殺すぞ、デブ!」
木島が吐き捨てると、人差し指を立てて長谷川が速攻で言い返す。このまま乱闘騒ぎにならないか不安ではあったけれど、互いに大きく舌打ちをして終わって安堵する。
長谷川の優しさには感心をさせられたばかりではあったが、やはり、問題児は問題児だ。
「はいはいはい、席を立つだけで、揉めないでください。じゃあ、皆さん、校外学習に行きましょう。といっても、場所を決めていないのですが、どこが良いかな」
定番としては公園かとも考えたが、中学生に公園は幼稚すぎるかもしれない。
腕を組んで、選択肢のなさに小首を傾ける。
「先生、天気も良いから、海はどうですか!」
中根が気持ちの良い挙手をして、提案をする。
僕はすかさず、指を軽快に鳴らした。
「名案です。そうしましょう。ちなみに皆さん、海は英語でなんというでしょうか?」
「シーですよね!」「海って、英語があんの?」「スペルはわかんね」
このクラスは中根の明るさで成り立っているのかもしれない。
相変わらず、諸田と十和田は自発的に、口を開かない。
本人たちはどんな気持ちで校外学習に向かおうとしているのだろうか、謎だ。
諸田のスカートのポケットから、紙が覗いていた。雑に折りたたまれた紙が、もうすぐでポケットから落ちそうになっている。
「あ、諸田さ――」
忠告しようと声を掛けると、諸田はポケットに紙を急いで押し込んでいた。
そんなに慌てるということは、もしかして、僕の悪口でも書いていたのですか、と被害妄想が湧いてくる。
「先生、スマフォも持って行って良いですか! 海を撮影したい」
この中学校の校則は、とにかく緩い。教材用のタブレットならまだしも、自分のスマフォの持参まで許して成り立っているというのは、少人数教室ならではかもしれない。
「良いですよ。自由に撮ってください。ちなみに、写真は英語でなんというでしょう」
「フォトです!」「カメラじゃないの?」「スペルがびみょー」
だんだん、売れないトリオ漫才の三段落ちのように聞こえてきた。
諸田と十和田もスマフォを持ち、ポケットに押し込んでいることを確認してから、出発を始めた。
「はい、空は英語で?」
「スカーイ!」「ブルーなんちゃら」「ブルーインパルスと混同してねぇか?」
「十和田君、諸田さんも、答えてみましょう。じゃあ、何でも良いので、動物を英語で言いましょうね」
「……キャット」「えっと、ドッグ、あ、いや、ドック?」
諸田は、発音は良いけれど声が小さく早口で、十和田はやはり、しどろもどろだ。
僕を先頭にして、五人の生徒たちを連れて海まで歩く。
青い空と白い雲、燦燦と輝く太陽の爽快さに、僕の体調はちょっとだけ回復をした。
実は、出発前に薬をもう一錠だけ服用した。薬を飲んだ安心感のおかげもあったけれど、爽快な気候で、歩くのも苦にならない。
「ねえ、先生! 泳いだりして良いんですか?」
中根は海が人生で初めてなのか、ずっとはしゃぎっぱなしだ。スカートを上下にふわふわと揺らしながら、軽快に跳ねる中根は可愛らしい。可愛らしいけれど、具合を悪くしないか、不安でもあった。
太陽の光を受けた中根の顔色は、本人がいくら明るくはしゃいでも、青白い。
「着替えがないですからね。今日は足を浸して遊ぶぐらいで、我慢してください」
「海っていえば、寒中水泳を思い出すよな。柔道の恒例行事でさ。あれ、いつも意味わかんねぇ、と思いながらやってたんだよな。寒さを我慢して心身を鍛えるとか、意味なくね?」
「私、海に行ったことが無いんだよね! わぁ、本当に青いんだね、綺麗」
水面に太陽が反射し、ゆらゆらと揺れて光り輝いている。
小さな粒が揃った砂浜に、波が柔らかく伸びては引いていく光景を、五人の生徒と眺める。
「先生、青はブルーでしょ」
長谷川が、ドヤ顔を向けてくる。
ゴリゴリのギャルの格好をしているが、得意顔で口端を緩めていると、中学生らしいあどけなさを感じる。
「ええ、そうですね。正解です、よくわかりました」
「そんぐらい、わかって当たり前だろ。幼稚園児でもわかる。おい、マドカ、写真を撮りたいんだったら、肩車とかしてやろうか。景色が、いいぞ。おいこら、シュウ! お前、水が怖ぇのかよ、さっさと来いよ」
「い、いいよ、僕は。だって、前に、プールに沈められたりしたし」
木島は中根には優しいが、十和田を部下か何かと勘違いしているのかもしれない。
トラウマを発動させた十和田はへっぴり腰で、一歩、また一歩と下がる。
「写真は先生が撮ってあげますから、君たちはじゃんじゃん、遊んでください」
どうせ僕は薬の影響で頭もぼんやりしているから、これ以上、勉強を教えることはできそうにない。
堤防から砂浜にかけて伸びる階段を、バラバラの歩調で下る。
降り立った砂浜は、靴越しでも粒子の細かさがわかるほど、さっくりと心地よい感触だ。
「さあ、楽しんでください」
僕は砂浜に体操座りをして、生徒たちを見守ることに決める。
合図を皮切りに、まずは、長谷川が素足になって駆けだした。次に、中根が追いかける。
あっという間に海に入った長谷川が水を蹴り上げると、追いかけていた中根がか細い声ながらも、はしゃいで喜んでいた。
「長閑だなぁ……うん?」
ひと際大きな音が鳴り、僕たちの意識は音の方角へと引きずられる。
「あ、電車だ。走っている姿、初めて見た。でも、車両数が、都会じゃありえないぐらい、少ない」
十和田が淀みなく喋ったのは、これが初めてだ。
「電車……あれが……」
諸田は生まれて初めて見たのではないだろうに、電車を視線で追う。
十和田が指を向けた先に、旧式で腐ったようなオンボロ電車があった。
大きな音は、電車が出発する前の合図だったらしい。
じわじわと、音の波がこちらまで余韻を届けている。この時だけは、波音が見事に掻き消された。
電車を見送る人々の姿が、目に映る。あれは、と目を眇める。
見覚えのある顔ぶれは、一年生のクラスだ。
三人の生徒と担任の先生が、手を大きく振っている。
旧式の電車が間延びしたような速度で、ゆったりと進み始める。
声まではさすがに聞こえないが、いつまでも手を振り続けている姿が、豆粒ながらも確認ができる。青春の一ページみたいな風景が、心に複雑な心境を与えながら染みる。
「そうか、電車があるのか。今度の校外学習は、電車で遠出でも――」
「やめて! うざいから、そういうの!」
楽しんでいたはずの長谷川が、ヒステリックに叫ぶ。
名案を話そうとしていただけに、僕はしょぼくれてしまった。
背中を丸めながら「え、ごめんなさい」と、とりあえず、謝ってしまう。
「うちのクラスの校外学習は、海で良いんじゃね? えーと、カナコも、そう思うだろ」
木島が最後は照れくさそうに、頬を掻く。こちらでも、ちょっとした青春が起きていた。
長谷川みたいなやんちゃな女の子の名前は簡単に呼び捨てできるのだろうが、諸田みたいな大人しくて可愛い子をどう呼ぶかは朴訥とした木島には難易度が高いだろう。
諸田がびっくりしたように俯き加減だった顔を上げ、何度も首を縦に振った。
木島は口端をもごもごと変な形に歪め、海まで猛ダッシュをする。木島が怒涛に駆けた砂浜には、巨人が遊んだような跡が点々と残る。
ちょっとだけ険悪なムードが漂いそうだったが、木島のおかげで途切れた。
長谷川と中根は仕切り直しだとばかりに水遊びを再開させ、木島が合流した。
ついでに、わざわざ戻った木島は、めちゃくちゃ嫌がっている十和田を引っ張って連れてくる。十和田は抵抗力だけは鍛えられているらしく、柔道少年の木島の引っ張りに、仰け反りながら耐えている。
「や、やだよー! 僕が泳げなかったら、どうするんだよぉ」
「溺れたら助けてやるから、騒ぐな」
ついに十和田は木島に担ぎ上げられ、水浴びを楽しむ女の子二人に強制的に合流させられる。
「諸田さんも、行ってはどうですか」
一人だけ取り残された諸田に、笑顔を向けた。
「あ……」
隣に座り込んだ諸田に笑顔で投げかけると、ポケットに乱雑に突っ込んでいた紙を取り出していた。
咄嗟に紙を掌で覆い隠していたが、見えてしまった。
紙には、『ラジオのための訓練! まず、皆の様子を実況してみる』と書いていた。