CODE36 シチリアーナ・ラプソディア(5)
歌:「Con Te Partirò(コン・テ・パルティロ)」
またの名を、「Time To Say Goodbye」
イタリアのテノール歌手アンドレア・ボチェッリの曲。
イギリスのソプラノ歌手サラ・ブライトマンとのデュエットで世界的に大ヒット。
◇ ◇ ◇
俺の背後で、長い金髪を揺らしながら、若い女性が歌っている。
歌に詳しくない俺でもわかる。
「能力」なんかに関係なく、その歌は圧倒的な声量で一帯の空気を大きく震わせる。
ときに強く、ときに繊細な動きで聴覚の彼方まで溶けていく、見事なビブラート。
空の高みにまで昇っていくような、至高のソプラノライン。
ミア・セルヴァさん。
俺たちが「能力者」と認識しているフェデリコ・クレーティさんと一緒にいた人だ。なんで、この人が。
「あなた、なんで平気なの?」
歌をやめたミアさんが、怪訝そうな顔で尋ねる。
まとう空気は赤紫色。俺のことを不審がっている。
英語なのは助かる……けど、こんな場面でペラペラ話せるほど場数を踏んでるわけじゃない。
おまけに質問の答えは「CIAの実験段階の新薬」。機密なのでさすがに話せない。
「それは、うまく話せません。フェデリコさんは今どこに?」
情報を整理するため、まずはわかりやすい質問を投げてみる。
すぐに「あなたの後ろにいる」と答えが返ってきた。
ゆっくりと振り返る。
教会の入り口から、確かに見覚えのある男性が階段を降りてくる。
両手に、ひとりの少女の体を横抱きにして。
「うひゃっ!」
ふいに、激しい音を立てておっさんのカメラが落ちた。カメラのレンズと数本のナイフが地面に飛散する。
くそっ、俺たち二人じゃフォルカーまで対処できねえ!
『映像が切れた。甲斐、「テノール」が抱えているのはロークウッドで間違いないか』
「たぶん。『色』は見えないけど」
アティースさんからの通信に小声で答えながら、「テノール」が抱えている少女を注視する。
ぐったりとフェデリコさんの腕に投げ出された頭部は、目を閉じたまま動かない。周囲の人々と同じように、歌で昏倒しちまったのか。
ミアさんとフェデリコさん。
カターニャから「オリヅル」に従って渡米するはずだったのに――いや、あのときから納得していない部分があった。確か「二人一緒に」「絶対離れない」と、二人とも強くこだわっていた。
『その二人は、エルたちを昏倒させて自力でラグーザまで駆けつけたようだ。「A」から指令を受けた可能性がある。うまく狙いを聞き出してくれ』
ひどい無茶ぶりキタ! 覚醒しろ、俺の英語能力!
「彼女を、どうするつもりなんですか?」
フェデリコさんに問うと、後ろのミアさんから返答があった。
「連れて帰るの。あなたの仲間のおかげで、これ以上戦えなくなったから」
見ると確かに、コーディの左腕の袖が破れて血がにじんでいる……って、ケガがそれだけなら、折賀に比べて全然たいしたことねーじゃんか!
「連れて帰るって、どこへ」
「あなたたちの施設でないことは確か。もういいでしょ? なんであなたに『歌』が効かないのか知らないけど、それならその子を起こして従わせるだけだから」
「…………」
何する気だ。どうすればいい。
やつらがしようとすることを止めるべきか? それとも見ておくべきか?
そうだ、おっさんがいる。横で黙って震えてるおっさん。
このおっさんが見ててくれれば、こいつらの能力の詳細を持ち帰れる。
おっさん、頼む。俺が操られたら、自慢の逃げ足で逃げてくれ!
ミアさんは、息を吸い――また、同じ歌を歌い始めた。
◇ ◇ ◇
ソプラノの短いソロパート。まだ、何も起こらない。
ゆっくりと、今度はフェデリコさんが息を吸う――その瞬間、俺の中ですべてが繋がった。
そうか、こいつら二人そろって「催眠能力者」なんだ!
二人の声が重なった瞬間、コーディの目が開いた。と同時に、
「ひゃああ! 甲斐さん、逃げてー!」
なぜかおっさんが、落としたカメラを拾って俺の頭部に振り下ろしてきた!
「うわっ! おっさん、なんで!」
「体が、勝手に! 高い、カメラ、なのに! 早く、逃げてー!」
おっさんのカメラが、俺に向かって何度もブンブン振り回される! よけるだけで何もできねー!
「中年・退散ーーッ!」
体を沈めて足払いを食らわすと、おっさんが前のめりに倒れたので、カメラを拾って代わりに殴ってやった。やっと暴走おっさんを止められた。
それを見ていたミアさんが、抗議の声を上げる。
「なぜそっちなの? こっちを操らなきゃ意味がないでしょう!」
「残念ながら、そいつは操れないんだよ……」
声を絞り出しながら、コーディはいつの間にかフェデリコさんの前に立っていた。
左腕の怪我を痛そうに押さえている。
彼女と、真正面から目が合った。
――こいつ。俺に何か、伝えようとしている。
日本で会ったときも、イギリスで会ったときも。
こいつは、おどけた風を装いながら、ずっと何かを伝えようとしていた。
言葉の裏から、一瞬の表情から。その暗い『色』から。
だからずっと、俺と話したがってたんだ。
「操れない? まさかあなたの『催眠』まで効かないの?」
今度はミアさんが俺を見た。
急に彼女の赤紫が揺れたかと思うと――細かいステップを踏んで、俺の顎にすばやく拳を繰り出してきた!
間一髪、後方にかわす。次の瞬間、視界がぐるっと回転――!
「どあッ!」
背中にデカい衝撃! 地面に叩きつけられたらしい。情けない声が出る。
次に、腹のあたりにさらにデカい衝撃――!
気が、遠くなる……男の膝落としを、食らったのか……。
格闘もできる「能力者」二人が相手じゃ、勝ち目ねーよ……
◇ ◇ ◇
「どうするの、こいつ。始末する?」
――遠くで、女性の声が聞こえる。
「え、始末って……まさか殺すの?」
こっちは、男の声。
まぶた越しに、焦げ茶色の靄がゆらめく。
これ、男の方だ。
この人、ミアさんと違って、ずっと何かを怖がっている。
そういえば、さっき投げられたとき。何か見えた。フェデリコさんの思念かな。
ナイフを、握っている。刃先が赤黒く染まったナイフ。
震えている。すぐ横に、金髪の女の子がいる。
たぶん、ミアさんだ。
まだ小さなミアさんが、ナイフを持ったまま震えるフェデリコさんを、当然のような、冷めた目で見ている。
ミアさんにとって、人殺しは当然のこと……。じゃあ、俺も、このまま……
「殺すのは、ダメ……」
か細い、女の子の声。
コーディ……? こいつ、こんなに弱かったっけ?
「あなたに、選ぶ権利はないはずよ」
足音が、する。何かを拾い上げている。
「あなたが操れないこいつは、いつか必ず私たちの邪魔になる。邪魔になるなら始末しろと、あなたのボスは言っていたはずだけど」
「だからって――ちょっと! ダメだやめてーー!」
あ、そっか……今ミアさんが拾ったの、さっきフォルカーが投げてきたナイフだ。
今まさにそれが振り下ろされてるのに、俺、ずいぶんのん気なことを――
「あゥッ!」
耳元で硬質な音がはねた。何かが落ちたんだ。
「あ、あんたなんで……」
「オリガくん……!」
……ん? オリガくんって、誰?
……って、ええぇぇー!?
「折賀ッ!?」
ガバッと飛び起きると、「生きてんならとっとと起きろ」と、聞き覚えのある声。
いつの間にか、折賀が立っていた。
ふらつきのない、堂々とした立ち姿。獲物を狙うような鋭いまなざし。高潔なダークブルー。
そのどれもが、倒れる以前とまったく変わらず、お元気そうで何より……
……じゃねえ! 口元も服も血まみれだわ! こえーよ!
「おまっ、お前こそなんで生きてんの! とっとと病院行けよ!」
「この女を捕らえるのが先だ」
折賀の睨む先で、ミアさんがまるで痙攣のように震えている。顔色が徐々に変色していく。
折賀の能力で、おそらく体を拘束されている。特に声帯を。呼吸ができるぎりぎりのところで。
ってことは今、折賀の能力はコーディとフェデリコさんには使われてない。
でも二人に戦意は見られない。
フェデリコさんはずっと何かに怯えるように固まってるし、コーディは――
「オリガくん……ボク、キミもカイくんも殺すつもりじゃ……」
こいつらしくない、弱々しい声。確かに、こいつには殺意を感じない。
日本で番犬どもが自害したときですら、こいつに残忍さのようなものは見られなかった。
でも、こいつの能力は残酷だ。
「それを信じてほしいなら、お前らのボスの正体を教えろ」
「あ、それはムリ」
ムリかよ。急に調子戻しやがって。
「どっちにしろ吐かせる。今、この地区一帯はラグーザ警察に包囲されている。今度こそ逃げ場はないぞ」
「さあ、どうだか」
不敵な笑み。コーディが完全にいつもの調子を取り戻した。
「実はこの辺の人たち、とっくに調教済みなんだよねー」
その言葉と同時に、周囲で人の形をした影がゆらゆらと立ちあがり始めた。
「テノール」の二人が昏倒させたはずの人たちだ。
折賀は、血濡れた唇を動かして、軽く舌打ちをした。
……あ、亀山のおっさん起こさないと。