LETZTE REISE 猟犬、帰還の時来たる
長椅子に座っている囚人が顔を上げた。
折賀は瞬時に記憶の中の顔写真と照合する。
髭が伸びて目元が落ちくぼみ、やつれ果てた印象だがウィンダム本人に間違いない。
奪い取ったばかりの鍵で開錠し、重い扉を開けた。
「ミスター・ハーツホーン。あなたを救出します。一緒に来てください」
この局面で自己紹介している暇はない。
簡略すぎる折賀の言葉に、ウィンダムは頷いて立ち上がった。自分がどう動くべきか弁えているようだった。
監房室の外ではいまだにサイレンが鳴り響いている。
遠くで人の動く気配を感じるが、まったく別の方向へ走り去っていく。
侵入直前、電話回線と監視カメラシステムを無力化し、現在は外部にいるマックレーが無線に侵入してでたらめな情報を流しているからだ。
時間は限られている。
折賀がウィンダムを連れて出ようとすると、ふいにウィンダムが口を開いた。
「五人来るぞ」
新たに姿を現した五人に向けて。折賀は先に倒した三人を、通路をふさぐように次々に吹っ飛ばした。
◇ ◇ ◇
すぐに移動しようとした折賀は、今度はウィンダムから逃走経路の変更を提案された。
迷った数秒の間に、再び追手が迫っていることを知らされる。すぐにそれが現実となり、折賀はまた看守たちを連続で吹っ飛ばす。
吹っ飛ばしながら、「この男に間違いはない」と直感した。計画の変更にマックレーがとまどうかもしれないが。
ウィンダムが指示した方角にある扉は、鍵の部分が他の扉よりも脆くなっていた。
折賀は力ずくで壊した。予定よりも時間が短縮できたのは確かだ。
監房棟の外へ出る。
夜間にも関わらず、強い照明で敷地一体が昼間のように白く浮き上がっている。
ウィンダムが何も言わないので、折賀は「失礼します」とウィンダムを肩の上へ抱え上げ、自分の判断で目的の地点へ向けて走り出した。
広い敷地を風のように駆ける。
塀が見えた。施設をぐるっと取り囲む高い塀は、上部のフェンスが大きく歪曲して突き出しており、人間がロープをかけて乗り越えることが困難な作りになっている。
だからこそ、兵たちは過信したのかもしれない。
肩に囚人を抱えた侵入者が、地を大きく蹴って跳躍し、鮮やかにフェンスを越えてひらりと空を飛び、向こう側へ姿を消すまでの間。
誰ひとり、発砲することができなかった。発砲を忘れたかのようだった。
予定より十数秒早まった分も計算に入れて。
ウィンダムを抱えた折賀がタイミングを計って飛び降りたのは、地面ではなく、ちょうど走り込んで来た輸送トラックが運ぶコンテナの上。
折賀の半長靴が、ドスッと音を立ててコンテナに着地。
トラックのスピードと進行方向を確認しながら、肩からウィンダムを下ろし、その場に座らせる。
トラックはコンテナ上に二人を乗せたまま、拘置所から走り去っていった。
数分後、ようやくシュタージの車がトラックに追いつき、派手な警告音を立てて停車させる。
トラックに乗っていたのは運転手ひとりだけだった。
トラックも運転手も、普段から拘置所内に食料品を運び込んでいるなじみの業者だ。
乗せたはずの侵入者と囚人は、忽然と消え失せてしまった。
◇ ◇ ◇
折賀とウィンダム、そして運転中のマックレーは、小型のごく普通のトラバントに乗っていた。
トラックからの逃走手順は以下のとおり。
コンテナの中にトラバントを隠し、その運転席でマックレーが待機。
折賀とウィンダムはコンテナ上部に小さく設置された換気口からコンテナ内部へ飛び降りて、トラバントに乗車。
タイミングを見て、三人を乗せたトラバントがコンテナ後方から外へ飛び出したというわけだ。
コンテナ内部の床は、シートと薬品でタイヤ痕などがわからないようにしておいた。
トラックの運転手は、マックレーと東ベルリン支局員との「ブラシ・パス」によって繋ぎをつけることができた、地下革命グループの構成員だ。
しばらくは拘束されるかもしれないが、支局員に何か借りがあったらしく、快く引き受けてくれたという。
トラバントの狭い車内で作業を続けながら、折賀はウィンダムに問いかけた。
「あなたは、かなり耳がいいんですね」
「ええ、まあ」
ウィンダムは、折賀の作業であまり開けない口をもごもごさせながら小さく答える。
ウィンダムが卓越した聴覚の持ち主だという情報は、折賀もマックレーも知らされていなかった。
そのことを問うと、「まあ、これは内緒のとっておきなんで」とそっけなく返された。
ウィンダムは拘置所に拘束されながらも、その聴覚で、部屋の外で展開されている音を数多く聴きとっていた。
音で施設内部の状況を把握し、逃走経路のシミュレーションも脳内に蓄積していたという。
また、他の囚人の様子、尋問・拷問の内容も記憶した。
記憶した情報を整理し、あの拘置所の非人道的な行為を暴くひとつの手段、交渉の上での強力なカードとする。
それが外交で有利に働けば、彼の身の安全は保証される。拘置所内の囚人への待遇改善にも役立つかもしれない。
「その聴覚があれば、そもそも捕らえられることもなかったのでは?」
折賀の問いに、ウィンダムはふっと軽い息を漏らした。
「私が捕まらなければ、バルテンの身が危うかったでしょう」
それは、人が好すぎではないだろうか。
バルテンは、家族のためとはいえ彼を売ったのだ。
そこで折賀の作業が完了した。
折賀の変装技術で、ウィンダムは、本人とは似ても似つかない太った小男に変身した。
事前に用意されたパスポートどおり、彼はマックレーとともに東ドイツ入りしたカメラマン仲間として、二人で「チェックポイント・チャーリー」を通過し、西ベルリンに入ったのちアメリカへ帰国する。
折賀は車を降り、ここで別れる。
偽造身分は留学生なので、一度はドレスデンの大学へ足を運ぶ必要があるのだ。
「オリちゃんも、夜間とはいえあちこちで姿見られてるだろうから、服はちゃんと変えるようにね」
運転席から後ろを振り返ったマックレーの声は心配そうだった。
「ちゃんと帰ってくるんだよ。そしたら凱旋パーティーだ。記念にシュトレンと寿司納豆買っとくよ」
「納豆巻きです」
「電話してよ、迎えに行くから」
折賀は車を降りてドアを閉め、黙礼した。
トラバントが走り去ったあとも、マックレーの人懐っこい視線が意識からずっと離れなかった。
◇ ◇ ◇
服を変える必要はないだろう。
マックレーに電話をかけることも。
ウィンダムの変装を終えたときから、自分の存在が薄くなっているような感覚があった。
体がどこかへ流れていく。東ドイツの風景が過ぎ去っていく。
おそらく、これで終わり。
自分はこの世界での役目を終えたのだ。
つまり、二人は無事に帰国し、その後の安全も保証されたということ。
「でも、一言くらい別れを言わせてくれてもよかったんじゃないか」
思わず不満が漏れる。
こんな形で別れることになるとは。
あの男は――マックレーは、納得しないんじゃないだろうか。
いつしか視界は真っ白に染まり、目の前に、小さな男がひとりぽつんと立っていた。
イルハムだ。
「そうですね。ロディを通して、きみがもとの世界に帰ったってことは伝えますけど――しばらくは、オリちゃんオリちゃん〜っ! って騒ぐでしょうねえ。きみ、ずいぶんと気に入られちゃいましたよね」
胸が痛む。あんなに世話になったのに。
自分は彼を悲しませてしまうのか。
「でもね。きみがこのままアメリカへ帰国したら、彼らはきみを離さなくなるでしょう。日本へも調査が伸びるでしょうし。それはまずいですよね。あっちの世界にもきみの両親がいて、いずれきみが生まれてくるかもしれないんだから」
今まで考えていなかった。
確かに、あの世界にも、時が来れば「あの世界の折賀美仁」が生まれてくるかもしれない。
これ以上の干渉はまずい。ここが引き際なのだ。
「大丈夫ですよ。あの人にはすぐに新しい任務が来ます。この時代、ソ連の専門家は貴重でしてね。来たる変革の時に、現地へ飛ばされてどれだけ激動の人生を送ることになるか――だから『オリちゃん』のことも、忙しくてそのうち考えられなくなりますよ」
「…………」
少し安心したような、でも、少し後味がほろ苦いような。
「イルハム。あの人は――『星』になったりはしないよな?」
CIA本部では、局員が殉職するとロビーの壁に星を刻む慣例がある。
殉職の可能性を口にすると、イルハムは黒ぶち眼鏡の奥の瞳をふっと細めて微笑んだ。
「気になるなら、帰ってから調べてみてはいかがでしょう。少なくとも、同じ世界のあの人のことならわかりますよ」
そうだ。自分の世界にも、彼はいるはずだ。
ハーツホーンや、グレンバーグのように。
「きみのおかげで、ロディのお父さんは無事に帰ることができました。お兄さんの方は、きみのお友だちが助け出してくれますからね。これで、きっとロディの心は救われたはずです」
大人のハーツホーンと、少年のロディの顔が交互に浮かぶ。
自分は、やれるだけのことをやった。
多くの人の力を借りて、救える人を救うために戦った。
それは甲斐も同じはずだ。
離れていても、それぞれが仲間を信じて自分の任務を遂行することができた。
コンビとして、少しは成長できたんだろう、と折賀は思う。
帰ろう、片水崎へ。
相棒と妹、家族と仲間たちが待つ、あの場所へ。
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外伝の登場人物と、おまけの後日談(最終話)




