REISE10 猟犬、突入フェイズ開始!
安いモーテルのベッドで寝がえりを打ちながら、折賀は自己嫌悪に陥っていた。
(度重なる命令無視、独断による身勝手な暴走――お前が今までしでかしてきた、工作員にあるまじき問題行動の数々、全部覚えているか?)
甲斐を初めて「オリヅル指令部」に連れて行ったときの、上司・アティースの言葉を思い出す。
(確かに、お前の決死の突入で救われた命もある。だが一部の一般人の安全に気を取られるあまり、私のチームを危険にさらしたのは事実だ)
多くの現場を経験してきたつもりでも、結局、自分はあのときと何も変わっていない。
一言でいえば、折賀は今回も暴走した。
警備兵に銃を向けられた三人の若者を、放っておくことができなかった。
ここのところ諜報活動で能力を使い過ぎていたため、あのタイミングで能力切れを起こした。
マックレーのおかげでなんとか無事に逃げ切れたが――つまりはマックレーをも危険にさらしたのだ。
「オリちゃんが無事でよかったよかった! で、どこが痛いの?」
当のマックレーは無邪気な笑顔で、薬局で買ってきたらしい湿布を折賀に貼ろうと布団をめくって迫ってきたので、「少し寝てれば治ります」と、ベッド上をゴロゴロ転がって逃げる羽目になった。
マックレーが行き場を失くした湿布を仕方なく自分にペタペタ貼っていると、折賀は体を起こし、真剣なまなざしで「マックレーさん」と呼んだ。
「ん? 腰に貼るの手伝ってくれる? あ、も少し下♡」
「謝って済むことじゃありませんが、謝らせてください。すみませんでした」
頭を下げると、何やらブツブツとつぶやきが聞こえてくる。
どうやら、「ダメだ、ここは甘い顔せずに、先輩らしくビシッと……」などと自分に言い聞かせているらしい。つまりは、自分に言い聞かせないとついつい甘い顔をしてしまうのがマックレーという男。
「オリちゃん、さ。ここへは何しに来たんだっけ?」
「……シュトレンを買うためです」
「シュトレン(ドイツの菓子パン)を買う」というのは、二人がこの作戦につけたコードネームだ。
「でもきみは、あのとき別の物に目移りした。あのとき、そばにいた別の客がもしきみに声をかけてたら……あれは買えなかったかもしれないよね」
折賀がアパートの屋根上にいたとき。
折賀を狙える位置に、ひとりの警備兵がいた。
折賀は身を隠すよりも若者たちを吹っ飛ばすことを優先した。
たまたま気づかれなかったものの、姿を見られるリスクと撃たれるリスクを一瞬のうちにその身に負ったことに変わりはない。
「わかってます。もう目移りしません。迷惑をかけて、すみませんでした」
「じゃあ湿布貼らせてくれる?」
「いえ、別に痛いところはないです」
「でもね、買ってもらえた方は喜んで、感謝してると思うよ」
言ってから、照れくさそうに頭をかいている。
「やっぱり甘いこと言っちゃった」と言いたそうな顔に、折賀のこわばった表情も自然に柔らかくなった。
無事に西側へ脱出できた人たちが、すべて幸せになれるわけではないことは折賀も知っている。
ドイツへ渡る前、訓練施設のカフェスペースでマックレーから聞いた話だ。
東ドイツには、多くを望まず現状に疑念を持たなければ、むしろ西より住みやすいと考える国民も大勢いる。
今まで国から保障されていた住居・職・教育など(ただし選択肢は少ない)が、西ではほとんど保障されなくなる。すべて自力で手に入れなければならないのだ。
さらに、「東ドイツ出身」というだけで、もともと西にいた人たちより冷遇されるケースも多い。
それでも、あの三人のように自力で国境を越えようとする者が後を絶たない。
理由は、シュタージに管理される恐怖だけではない。
ファッションや映画、電子機器。
そして、マックレーも聴いていたQueenや、 The Beatles、Led Zeppelin、Pink Floydなどの西側のロックバンドが放つ圧倒的なパワーが、多くの若者たちを虜にした。
これらのレコード・カセットテープは、闇市や人づてで、水面下でこっそり広まっていったという。まさに音楽は国境を越えるのだ。
じきに、この世界のベルリンの壁も取り払われるだろう。
全国民規模で、「社会主義から突然資本主義へ」わけもわからず放り込まれる、人々の苦難が始まる。
しばらくは政治・経済の大混乱が続くだろう。壁の崩壊を喜んだ者の中にも、喜んだことを後悔する者が出てくるかもしれない。
それでも、この国は変わっていく。自分のいた世界の歴史が証明している。
命をかけて壁に向かって走った若者たちの勇気を、決して無駄なものにはしてほしくない、と思う折賀だった。
◇ ◇ ◇
「さてと、シュトレン買いにいきますか」
闇に目を凝らしながら、マックレーが言う。折賀の準備運動は万全だ。
大きく深呼吸する折賀に、マックレーが言葉を続けた。
「俺たちがここへ来た理由は、シュトレン」
「わかってます」
他にも大勢、拘束されている人たちがいる。標的を誤ってはならない。
そういう意味だと思い、先に返事をした。
「――なんだけどね、俺はひとつしか買えないときが来たら、迷わず寿司納豆を買うからね」
寿司納豆?
「本部長にはオフレコで頼むけど。会ったこともない他の職員より、俺は今ここにいるきみの方がずっと大切。先に言っといたからね~」
寿司納豆というのが、自分を表すコードネームなんだとやっと気づいた。確かに寿司と納豆が好物だとは言った。
「任務の第一クリア条件をひっくり返してどうするんですか」
「だって、やっぱり自分の気持ちに嘘はつけないんだもん……」
「(女子か……)あと、寿司納豆じゃなくて、それを言うなら納豆巻きです」
「納豆巻きね。俺は日本のおいしい納豆巻きを買いたいの。頼むよ、オリちゃん」
「シュトレンと一緒に、必ず」
「納豆巻きの可愛い妹、まだ顔を拝んでないし」
「…………」
突入フェイズの直前に、何を話してるんだか。
最優先事項が土壇場でくつがえされるという、本来あってはならない事態のはずなのに。
不思議と心が軽くなって、口元に笑みがこぼれた。
◇ ◇ ◇
もとは戦時、ナチスの管理下にあった施設。戦後に東ドイツの拘置所となった。
要は、シュタージによって連行された政治犯・各国スパイを始め、少しでも思想に沿わない言動のあった市民さえも収監し、尋問・洗脳するための施設だ。
拷問方法は、身体を直接傷つけるのではなく、精神を徹底的に弱らせる方法がとられているという。
日中は体を横たえることを許さず、深夜には何度も威圧的な尋問が繰り返される。
二十四時間、決して睡眠を許さないのだ。
夜間でも常に照明が落とされることはない。
拷問に耐える訓練を受けているスパイであっても、そうとうきつい環境であることが想像できる。
内部にはリノリウム張りの通路。看守の足音が聞こえないため、囚人が絶えず緊張を強いられるという。
その通路を、ほとんど音もなく風が駆け抜けた。
各地で人が通過するたびにセンサーが作動する。けたたましいサイレン音が鳴り響く。
次から次へと高速で鳴るサイレン。もはや感知されたのが看守なのか脱走した囚人なのかもわからない。まさか外部からの侵入者だとは、誰も思っていないだろう。
夜勤の看守たちが叫んでいる。
内部の監視カメラが次々に映らなくなり、囚人たちの所在を確認するため監房へ走る。
最奥のエリアは重罪犯専用監房だ。
屈強の看守三人がエリアへと通じるゲートを開錠する。
その瞬間、風が入った。
三人とも順番に、意識を失って床上に倒れ込んだ。
突入作戦の成否は、事前にどれだけ情報を収集し、どれだけ綿密に計画を練るかでほぼ決まると言ってもいいだろう。
マックレーは「情報を命で買うなんて」と言っていたが、ここで生かされた情報はまさに、自分を信じてくれた人たちが命をかけて手に入れた情報ばかりだ。また、自分が足で稼いだ情報も含まれている。無駄にするわけにはいかない。
その情報をもとに、折賀は単身施設へ乗り込んだ。
看守たちの顔ぶれ、行動パターン、タイムスケジュール。施設の見取り図、監視システムの種類と位置、目指す監房室。すべて頭に入っている。
倒れた看守たちから鍵を奪い取り、折賀は目指すポイントへ走る。
気の毒だが、他の部屋を覗いている暇はない。
「ミスター・ハーツホーン」
ドアをノックし、小窓から中を覗く。
そこに、四十歳前後と思われる、ひとりの男性が収監されていた。
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