REISE9 猟犬、東ベルリンの空を翔ける
甲斐がいれば――
考えないようにしても、折賀の中でコンビの片割れが日ごとに存在感を増していく。
夜間だろうと、厳重に警備された極秘施設だろうと。
甲斐がいれば、標的の位置を難なく割り出せるはずだ。
あの「目」にどれだけ助けられてきたんだろうと、今さらのように反芻する。
位置さえわかれば、その先はこの手で切り拓ける自信がある。
「観測手」と「狙撃手」として。
また、ともに任務へ赴く機会を得られるだろうか。
◇ ◇ ◇
何の変哲もないアパートの一室で。
湯が沸騰したケトルのような空気が漏れ出す音、電子レンジのターンテーブルが回るような長めの低い音などが部屋の空気を振動させている。
隣室の住人には、男が家電を動かしている生活音にしか聞こえないだろう。
家電のように聞こえるのはすべて、部屋の主の「呼吸」だった。
折賀が、そう聞こえるように呼吸を調節しているのだ。
ソファに座らされている男の前に身をかがめ、顔を近づけて、折賀は小さくささやくように言葉を投げる。
「声を上げるな。こちらの質問には右手の人差し指だけで答えろ。従うなら、もう少しだけ呼吸を解放する」
部屋の主は、赤黒く変色しつつある頭部をゆっくりと縦に振った。
マックレーがアメリカ製の観光地図を目の前に広げてみせる。
「ウィンダムが拘束されている施設」
男の動きはない。
「知らないとは言わせない。お前も捕らえられていたはずだ」
呼吸音が荒くなる。指先が大きく震え、地図上を行ったり来たりしたかと思えば、ようやくある一点を指し示した。
「ウィンダムがいる棟、階はわかるか」
男はすがるように折賀を見上げる。わからない、と目が訴えている。
ソファの上に座らされている体は、かがんでいる折賀に比べてなんと小さく見えることか。新聞で見た写真では、もう少し堂々と背を伸ばしていたというのに。
部屋の主、ライムント・バルテンの部屋へ忍び込むのは容易かった。
夜間、折賀がくたびれきっているアパートの門番ひとりを眠らせ、そのまま二階のバルコニーまでひらりと跳んで着地。
マックレーがバルテンの部屋の玄関ブザーを鳴らすと同時に、折賀の拳が最小限の音で窓を突き破った。
マックレーは門番の名を騙り、平凡な挨拶の言葉と戸締りに気を付けるようドア越しに声をかける。
ドアに向かって返事をする部屋主の後頭部に、折賀は視線を定めた。
あとは、能力で男を拘束しながら窓とドアを開錠すればいい。
部屋には蓄音機が置いてある。
マックレーが、セットされているレコードに針を乗せた。
パイプオルガンの荘厳な音色が、部屋全体を静かに包み込んでいく。
ドイツが誇る偉大なる音楽家、「大バッハ」ことヨハン・ゼバスティアン・バッハ作曲、コラール『主よ、人の望みの喜びよ』。
三連符からなる高音のメロディーは、まるで天から降り注ぐ光のようだ。
バルテンを信用するなら、これで施設の場所はわかった。
この証言だけでは不十分だ。別の方法で裏を取らなければならない。
「少しずつ呼吸を戻す。大きな声は上げるな。どうせ盗聴されているんだろう。このことを誰かに話せば、今度こそ本当に呼吸を止めるぞ」
苦し気な表情でうなずく男は、折賀の言うとおり、少しずつ顔色と呼吸の間隔が正常に戻っていった。
が、苦痛がすぐに消えるわけではない。目と鼻を濡らしたまま、荒い呼吸で嗚咽を漏らし、赤くなった鼻をひくつかせて、涙声で小さな声をこぼす。
「わ、わしも、犠牲者、なんだ……わしは、ずっと、党の操り人形で……従わないと、家族、が……」
だからこそ、ウィンダムを通じて西へ脱出しようとしたのだろう。
計画に失敗すると、今度はウィンダムを東に売った。自分と家族の保身のために。
これが東ドイツの現実。
同情の余地が、ないわけではない。
だが、この男が傀儡のままとはいえこの地に生き永らえ、代わりにアメリカ人であるウィンダムが命の危険にさらされるのは、明らかに間違っている。
折賀とマックレーは、それ以上何も言わず、アパートを後にした。
コラールの崇高な響きが、夜の空にすうっと染み込んでいく。旋律と旋律が作り上げる和音が、美しく澄んだ余韻を残す。
まるで、ぽつんと取り残された哀れな男を、温かな慈悲の心で許そうとしているかのようだった。
◇ ◇ ◇
情報の裏を取るためには、現地・東ドイツでの協力者が欠かせない。
マックレーはアメリカへ電話をかけた。CIAとはまったく関係ない個人宅の番号だ。
たとえ盗聴されてもわからないよう、暗号を織り交ぜ、巧みに情報を交換する。その結果、東ベルリン支局の人間になんとか連絡をとってもらえることになった。
支局員とは、「ブラシ・パス」と呼ばれる手法で情報の受け渡しが行われた。
KGBやシュタージの監視の目をかいくぐり、一瞬のスキをついて二人の男が互いのバッグを交換する。
スパイ映画ではおなじみの手法だが、日頃からKGBの監視法を熟知していることや、局員が互いに要注意人物とはみなされていないこと、さらに地の利・タイミングと、実に多くの条件が揃ってやっと実現する。
マックレーがブラシ・パスを実行に移す間に、折賀は問題の施設周辺の調査を続けた。
目立たぬように細心の注意を払いながら。時には能力で素速く移動・跳躍し、忍者のように身を隠しながら。
こうして二人がかき集めた情報を照らし合わせ、バルテンの示した施設が間違いないことをつきとめた。
折賀の時代に比べるとかなり不鮮明ではあるが、衛星による画像を入手することもできた。
高い塀にぐるっと囲まれた、内部のわからない閉鎖的かつ広大な敷地。まさに刑務所だ。
忍者折賀はレスラー折賀にもなった。
あらかじめ資料で見知っていたシュタージ将校のうち、最も階級の低い人物に目星をつけ、ひとりでいるところを無理やりさらって人気のない林の中へ連れ込んだ。
片手で男を軽々と持ち上げ、容赦なく回転に乗せて振り回す。
派手な大道芸を繰り広げてしまったが、あっという間にグロッキーになった男から、ウィンダムが拘禁されている地下室の位置を聞き出すことに成功した。
当然、バルテンのときと同じように、口外しないよう凄みを効かせて脅しをかけることも忘れない。
「オリンピックに出られるって本当だったんだね!」
マックレーは折賀の大道芸に大喜びだ。
その夜はマックレーが二度目のブラシ・パスを行う予定で、折賀は少し離れた場所から護衛として付き従っていた。
東ドイツの国民は夜間の外出を制限されている。よって夜道に人影はあまりなく、ただでさえ黒い街並みが闇にさらに黒く沈んで、しんと静まり返っている。
突然、乾いた連続音が静寂を突き破った。
二人に緊張が走る。銃声だ!
折賀が足に重心をかけ、今にも走り出そうとする。マックレーはそれを押しとどめた。
「オリちゃん、ダメだ」
さらに銃声。カラシニコフ(自動小銃)だ。壁の方角から聞こえる。
――誰かが壁を越えようとしている!
マックレーの制止をふりきって、折賀は跳んだ。
壁沿いに連なる、古びたアパートの屋根上へ。
壁と壁の間、六十メートルほどの無人地帯に黒い人影が見える。
三人の若者たちが、トラップに何度もつまずきながら、それでもなんとか西を目指そうと走っている。
西側には西ベルリン警察が駆けつけている。東側には東ベルリン国境警備兵。
西側は、完全に国境線を越えないと若者を助けることができない。
対して東側は、無慈悲にも再び銃口を向けて――
そのとき、すべての人間が自分の目を疑った。ただひとり、折賀を除いて。
若者の体が突然浮き上がり、そのまま高く跳躍!
あっという間に、壁を越えてしまった。
あっけにとられた軍と警察の前で、またひとり、さらにひとり。
軽々と空を飛び、すべての障害物を乗り越えて、壁の向こうへ。
三人は壁を越えて姿を消すと、そのまま地面まで落下したらしく、西側は大騒ぎになった。警察が若者たちを囲んでいるのだろう。
自分の目の前で、犠牲は出さない。
その思いが、折賀を強く突き動かした。
どれだけの人間が、壁を越えようとしてこの地帯で命を奪われたことか。
その中には、甲斐と同じ十八歳の若者もいたのだ。
能力を酷使した折賀は、力が抜けて自分自身も屋根から落下してしまった。
受け止めようとしたマックレーは失敗し、二人して地面に倒れ込んでしまう。
一瞬目を回したマックレーは、警備兵に気づかれる前にと、慌てて折賀を担ぎ上げた。
「オリちゃん、重い! 鍛えてるからだってわかってるけど!」
泣き言を言いながらもふらふらよろよろと相棒を抱えて走るマックレーに、折賀は大きな借りを作ってしまったのだった。




