REISE4 猟犬、交渉の現場に挑む(2)
交渉の場まで、なんとか漕ぎ着けた。
頭のイカれた男と断じて叩き出されるか、現時点ではまだ存在しない救出作戦を立ち上げることができるか。すべては自分の折衝能力にかかっている。
失敗は許されない。自分は人の命を背負っているのだ。
ウィンダム・ハーツホーンひとりの命ではない。
この先、ロディアス・ハーツホーンに踏みにじられるかもしれない、数えきれないほどの、多くの命を。
もしも失敗に終わったら。
いざとなれば、この本部長を脅して締め上げてでも――
「そう怖い顔をするな」
折賀の思考が、その一言で止まった。
グレンバーグは、折賀から人ひとり分のスペースを開けて、ベンチの隅に腰を下ろした。
「私もロディに頼まれたんだ。助けに現れる人間を追い返すな、否定するなと」
少年が訴えるその場面は、折賀も見た。
「私にも、あの子の力になれるのならなりたいという気持ちはある。きみのようにな。きみは何か大きな使命のようなものを背負ってここまで来たんだろう。聞かせてくれ、きみの事情を、覚悟を。どんな話でも、遮らずに最後まで聞くと約束する」
こわばっていた肩の力が、ふっ……と抜けていくのを感じた。
グレンバーグの器と、少年のひたむきな心に助けられたような気がする。
自分ひとりで、すべてを背負う必要はないのだ。
「俺の話はたぶん、すぐには信じてもらえないと思います」
「きみにはもう十分驚かされているよ。何が聞けるか楽しみだ、と言ったら不謹慎かな」
折賀の目元に、小さな笑みが浮かんだ。
◇ ◇ ◇
「俺は、つい昨日、初めて十代のロディに会いました。でも、ロディアス・ハーツホーンという男の存在は一年以上前から知っていました。俺が知っている彼は、五十代で、CIAの長官職だったんです」
折賀はグレンバーグの反応をうかがった。
今はまだ、眉が怪訝そうにほんの少し動いただけだ。
言葉の真の意味を理解するまで、まだしばらくかかるだろう。
「俺は、未来から来ました。大人になったロディがいる、四十年後の世界から」
「……それは、小説の話か?」
フィクションだと思われるのも当然だ。
そういえば、日本でも有名なアメリカ映画があったのを思い出した。
「『Back to the Future』という映画、ご存知ですか」
「いや、知らんが」
「『The Terminator』は?」
「それも知らんな」
知っていれば説明が早いと思ったが、残念ながらまだ公開されていないらしい。
「『The Time Machine』は?」
「小説のか? そういえば映画にもなったな。確かあれは、タイムマシンを発明した科学者が未来へ飛ぶ話――」
「未来へ飛んだあと、現代へ帰ってくる話です。つまり、未来から過去への時間旅行が可能だということです」
グレンバーグは低く唸った。
ここでSF小説の話をすることになるとは思わなかったのだろう。
「つまり、四十年後にはタイムマシンが現実に発明されて、きみはそれに乗ってここへきた、と言うわけか?」
「いえ、発明はされてません。ただ、たまたまタイムマシンと同じ力を持つ超能力者が現れたんです」
今度は超能力者か。
グレンバーグはさぞ混乱しているだろうと思ったが、どちらかといえばこのSF談義を楽しんでいるようにも見える。話を進めるに足る想像力は、十分にあるようだ。
「聞きたいことは山ほどあるが、焦点を絞ろう。きみの話が本当だとして、きみがウィンダムを救うためにわざわざやってきた理由は? 五十代のロディに頼まれたのか?」
「いえ。このままでは、ウィンダムは捕らえられたまま亡くなります。ロディの兄も同じ死に方をします。その結果、ロディは人を憎み、組織を憎むようになります。
――俺は、ロディの凶行を止めるために戦っていた――彼の敵、だったんです」
折賀は、長官となったロディアスがいかにCIAを悪用したか、かいつまんで説明した。
「…………」
グレンバーグは片手で額を覆った。
現時点では空想でしかないその話は、それでも彼の心を深く抉るのに十分だったようだ。
「それでは……もしもきみが、ウィンダムの救出に成功したら。ロディは我々を憎むこともなく、大勢の命を奪うようなことにもならない、と?」
「そうあってほしい、と思います」
「いや……しかし、それでは辻褄が合わなくないか? きみが救出に成功すれば、未来が変わり、きみがこの時代に飛んでくる理由がなくなってしまうんだぞ」
過去へ飛べば必ず生じるタイム・パラドックスまで、すぐに言い当ててきた。話が早くて助かる。
並行世界のことも、合わせて説明する必要がありそうだ。
◇ ◇ ◇
「まだきみのSF話を信じたわけじゃない。次はこれについて説明してくれるか」
グレンバーグは持っていたファイルから数枚の書類を取り出した。
スポーツテストの前に、折賀が受けた筆記試験の答案だ。
「ソ連について、現在認識している事柄をできる限り列記せよ――今の時代の工作員なら当然知っているはずの知識を問う問題だ。きみの答案は、誰もが当然挙げるはずの内容がかなり抜け落ちているが、代わりに誰も知らない内容がいくつか見受けられた。
中でも目を引いたのが、ゴルバチョフがソ連共産党中央委員会書記長に――のちに、ソ連大統領に就任した、という記述だ」
この時代――四十年前のアメリカは、ソ連を始めとする東側諸国が相手の「東西冷戦」の真っただ中にある。当然、ソ連の動向はもっとも注意を引く情報のひとつだ。
ゴルバチョフはこの時代、共産党政治局員のひとりであり、書記長に就任するまではあと数年を要する。ここまでは、ソ連に詳しい有識者なら予測がついたかもしれない。
が、その後、最初にして最後の「ソ連大統領」に就任するところまで、予測できたかどうか――
「きみはこれを、未来ですでに知っている、と言いたいわけか」
「はい」
記述する内容には細心の注意を払った。
ほんの少し、この時代に明かされても障りがないと思われる情報だけを出す。時代が動くほどの大きすぎる情報を暴露してはいけない。
「ゴルバチョフは改革派だ。ソ連はこれから大きく変わることになるな。聞きたいんだが、四十年後、まだソ連との冷戦は続いているのか?」
「……それは、話せません」
濁した回答でヒントを与えたようなものだが、明言は避けた。
もしもグレンバーグが回答をもとに工作活動を転換することになったら、それこそ未来が大きく変わることもあり得る。
そうあってはならないという認識を、二人は暗黙のうちに交わしたのだった。
「まあいい。少なくとも、アメリカとCIAは存続しているわけだ。
もうひとつ、現時点で部外者が知るはずのない記述があった。
『フェアウェル』――このコードネームを知る者は限られている。これも四十年後には開示されているのか」
「はい」
それは、この時点で国のトップとCIAしか知り得ない、極秘中の極秘情報だ。
グレンバーグは立ち上がって折賀の答案を細かく破き、フィールドの隅にある吸い殻入れに捨て、ライターで火をつけた。
ちょうどいい大きさの炎が上がり、紙片を素早く消し去っていく。
『フェアウェル』は、この冷戦を大きく傾けるであろう、目下進行中の極秘作戦。
フランスを通して西側に接触を試みた、ソ連KGB将校による機密情報漏洩に関わる一連の作戦を指す。その将校に与えられたコードネームでもある。
のちに、ソ連崩壊の原因の一端になったとも言われている。
グレンバーグは静かに言葉を継いだ。
「きみ、今ここで捕らえられても文句は言えんぞ。ずいぶんと危ない橋を渡ったものだな」
「あなたに信用してもらうために必要だと判断しました。それに、捕らえられてもすぐにこの場を制圧するだけの能力はあります。昨日言ったとおり、俺は丸腰でも戦える。誰かが俺に攻撃すれば、すぐにでも証明できます」
そう言いきった折賀の目に、迷いはない。
グレンバーグは静かに息を吐くと、再び折賀の横に腰を下ろした。
「ウィンダムは東ベルリンにいる。身柄はシュタージ(東独国家保安省)に拘束され、町中にはKGBの監視網が張り巡らされている。さらに付け加えると、現地での案内人をつけることはできない。それでも行けるか」
「できるかぎり、情報をください。監禁場所さえわかれば、方法はあります」
ふと、相棒の顔が浮かんだ。
甲斐がいれば。現地でウィンダムを発見できる道筋ができる。
だが、今は自分だけでやるしかない。
グレンバーグは数歩移動し、壁に設置されている電話の受話器をとった。
「グレンバーグだ。東欧部のマックレーに繋いでくれ」




