クレアの決意
人生なんてガラクタの山だ。そう思っていた私の認識が、180度ひっくり返る日が来るとは。
「おい、嬢ちゃん!戻るんじゃない!」
騎士の叫び声が耳をかすめる。だが、私の足は止まらない。大切なネックレスを失くしたのだ。それは心臓の鼓動を奪われたかのような喪失感。
ドレスのスカートをたくし上げ、宿へと駆け戻る。ラウンテン子爵家の次女たる私が、こんな無謀な真似をするなんて。父上の怒声が頭をよぎる。
でも、構うものか。今の私にとっては、そのネックレスこそが世界の中心なのだから。
山から魔物の大群が押し寄せているのは知っていた。けれど、それすらどうでもいいのだ。私の世界は、そのネックレス一つに集約されていた。
宿の近くで、それを見つけた。創造神〝エルミリア〟を模したペンダントトップ。酸化して黒ずんだ純銀の輝きが、私の顔を歪んで映し出す。
安堵の吐息を漏らす間もなく、突如として視界が闇に包まれた。見上げれば、そこには悪夢のような光景が広がっている。
体長二メートルもある、四枚羽のムカデ魔物。その姿は、地獄の使者すら及ばない恐ろしさだった。
「ちょっ...ヤバ...」
思わず漏れた言葉に、自分の無力さを痛感する。ラウンテン家に代々受け継がれるクレリックの才能。でも、私はそれから逃げ続けてきた。故に、この瞬間。後悔の念が押し寄せた。
目を閉じ、最後の瞬間を待つ。しかし、予想していた衝撃は訪れない。代わりに聞こえたのは、魔物の断末魔だった。
目を開けると、オレンジ色に輝く球体が魔物に激突。魔物はバランスを崩して落下していく。誰が?どうやって?
疑問が頭をよぎるが、安堵したのもつかの間。魔物はすぐさま体勢を立て直し始めた。
「これなら潰された方が楽だったかも?」
そんな諦めの言葉が口をついてでる。
瞬間、ガシャガシャと鎧を鳴らす音が耳に飛び込んできた。屈強な体格の男が、自身をスッポリ隠せるほどの大盾を携え、駆けつけたのだ。どう見ても公国の騎士ではない。
魔物が男に襲いかかる。しかし、大盾が耳をつんざくような金属音を響かせ、完璧にその攻撃を受け止めた。その刹那、驚愕の光景が広がった。
大盾の向こうで鎌首をもたげていた魔物が、濁った緑色の体液を辺りに飛び散らせ、真っ二つになる。
いつの間にか現れた剣士の姿が、それを成したのだとわかった。逆光で顔は見えない。
どのみち、魔物の大軍は今も押し寄せている。土石流のように、街の防壁を崩しながら侵入していた。絶望的な光景。私を襲った魔物など、その中の一匹に過ぎなかった。
「結局...助からないのね」
そう呟いた瞬間、突如として空が白く染まった。まだ昼間というのに、目を開けているのも困難なほどの閃光。鼓膜を破りそうな爆発音。
咄嗟に両手で耳を覆い、細目で周囲を見渡す。魔物の大軍の中で次々と大爆発が起き、半数近くが宙を舞っていた。
息をするのも忘れて立ち尽くす私の肩を、誰かがポンッと叩いた。それは現実に引き戻されるような衝撃だった。
「ぼおっとしてないで、早く逃げなさい」
振り返ると、そこには女神のような美しさの持ち主が立っていた。金髪を結い上げ、顔のパーツ全てが完璧。私も美形だと自負していたが、彼女の前では比べ物にならない。
そんな彼女が身に纏っていたのは、金と紫の複雑な刺繍が入った漆黒のローブ。手に握るのは不気味に黒光りする杖と、首から下はまるで魔女のよう。
美貌と魔性が融合した姿は、どこか現実離れしていた。
彼女は私に声をかけた後、すぐに大盾の男と剣の男の後を追うように魔物の群れの中へと走り去った。闇に吸い込まれていくように。
「あれが、イレイザー?」
そう、数時間前に宿の酒場で耳にした噂。この街に凄腕のイレイザーが滞在しているという。
魔物討伐を専門にする者たち、それが〝討伐屋〟。
初めて耳にした言葉だったが、強く心に残っていた。
実際、彼らの姿は、まぶしいくらいだった。いつまでも見ていたいと思わせる、そんな勇姿。その背中には、希望の光が宿っているようだ。
しかし、そんな憧れも束の間。慌てて駆けつけた父に連れ戻された。イレイザーたちとは反対方向へ引っ張られながら、私は何度も振り返る。彼らの戦う姿を、目に焼き付けた。
事件の翌日。街はまだ混乱の渦中にあった。魔物の死骸や壊れた家屋の片付け。人々の動きは慌ただしい。そんな街を、私と父は後にした。
故郷へ帰る船に乗るため、隣の港街へと向かう馬車の中。父に聞かされた言葉が、私の心に深く刻まれる。
「覚えておきなさいクレア。街を魔物から救ったのは、リンケージというグループだ。彼らがいなければこの国も、そしてお前も助かっていなかったかもしれないのだからな」
「リンケージ……ですか」
彼らの話を聞いた時、胸が高鳴るのを感じた。この世界で最も有名で最強と謳われるイレイザー。たった5人で一国の危機を救ってしまうという、圧倒的な英雄たち。全員がレベル『S』という最高位階級。世界中のイレイザーの憧れの的。
しかし、彼らの顔はほとんど世間に知られていない。リーダーに至っては名前すら聞いたことがないらしい。知れば知るほど、興奮は抑えられなくなっていった。
そして、ある日突然、閃いたのだ。
「そうだ。私も〝イレイザー〟になろう!」
父や姉の反対を押し切って、私はイレイザーを目指すことを決意した。もちろん、現実はそう甘いものではない。夢と現実の狭間は、時に深淵のように思える。
だが、あの日見た彼らの姿は、今でも私の心に焼き付いていた。あの輝かしい背中を追いかけて、私は決めた。それは、新たな自分への変容の始まりだった。
人生は確かにガラクタの山かもしれない。でも、そのガラクタの中から、キラリと光る宝物を見つけ出すのも、また人生なのだ。
それを胸に刻み、その日、私は新たな冒険へと踏み出す決意をした。