プロローグ・後悔からの始まり
洞窟の壁は悪意の塊、私の肉を抉ろうと牙をむく。痛みなどない、ただ心が千切れそうだ。まるで闇の中で踊る影絵のように、不安が私を取り囲む。
「はぁ...こんな所を...」吐息が闇に溶ける。
歩むたび、イライラする。
私──【クレアドール・ラウンテン】は、今や怒りの火山、噴火寸前。元はと言えば、この村での別件。それが何故か、ゴブリン退治という茶番劇の主役に祭り上げられた。運命の悪戯とはこのことか。
「〝イレイザー〟志望なんだもの。断るわけにもいかないのよね...」自己暗示の呪文を唱える。
もちろん本音は違う。心の奥底では、この状況から逃げ出したい衝動と戦っている。
「所詮ゴブリン、楽勝よ」そんな浅はかな台詞を吐いた過去の自分に、今の私は失笑する。いや、嘲笑か。かつての自信満々な姿が、今では痛々しいほどだ。
後方には仲間のリジャ──【リジャスミン・パーラー】がいる。細身の体に不釣り合いな胸が、さらなる苦戦を強いているらしく。その姿を見るたび、妙な競争心と嫉妬が湧き上がる。
「チッ」邪魔な突起物を見て、思わず舌打ち。
自分の胸を見れば、さらなる苛立ちが湧き上がる。なんという不公平な世界だ。
ようやく、広い空洞に到達するとそこは地獄絵図だった。ゴブリンが数体?笑わせるな。二十体以上の緑の悪魔が、蟻の如くうごめいている。
そして奥には、背丈3メートル超え。頭に一本の角、大きな目玉が一つ。これはもう、ゴブリンの域を超えていた。まるで神話から飛び出してきたかのような存在感。
「冗談でしょ...」──サイクロプスだ。その姿を目の当たりにし、私の心臓は恐怖で凍りついた。
「はぁ...あのジジイ、私たちを騙したわね」
村長への怒りが沸騰する。この状況を知っていながら、私たちを送り込んだのか。その卑劣さに、胸が熱くなる。
「まぁ、今更あの地獄の迷路は御免ね。リジャ、手前の雑魚を片付けて」
「なぜ私があなたに命令されなければならないのですか?」
リジャスミンの尖った声が、耳を刺す。その冷たさに、思わず身震いする。
「あのね、あなたは〝範囲魔法〟の使い手でしょ?私が複数相手じゃ時間の無駄よ」
理屈という名の盾を掲げるも、心の中では自分の無力さを痛感していた。
リジャスミンは言う。「では、あなたは〝どれ〟を狩るつもりですか?」
「えーと...」サイクロプス?冗談じゃない。そんな化け物に挑めば、私の命は風前の灯だ。
「そうね。余ったゴブリンをやるわ!」虚勢を張る私の声が、空洞に虚しく響く。
「はぁ、全然働かないじゃないですか」
「うっさいわね。文句は後!」空虚な威勢と共に、驚愕の光景が目の前で繰り広げられる。
バシャン!一瞬で、ゴブリンの群れが氷漬けとなり、粉々に砕け散った。
冬の訪れを告げる一陣の風のように、リジャスミンの氷範囲魔法〝アブソリュードゼロ〟が放たれた。その威力は、想像を遥かに凌駕するものだ。
残ったゴブリンは、たった一体。
「ありがとう。あなた、わざと残したわね」感謝の言葉と共に、かすかな皮肉を込める。
「どういたしまして」リジャスミンの返答は、氷のように冷たく、思わず心が萎縮する。
「まあ、せっかくだし」
私は意気込んで余ったゴブリンに向かう。しかし次の瞬間。ズドン!地響きと共に、サイクロプスが崩れ落ちた。
その頭には、巨大な氷の刃が突き刺さっている。
「……はあっ!?」言葉を失う私。リジャは、サイクロプスまでも一瞬で葬り去っていた。これでは立場がない。
私は残された一体のゴブリンに向かって土を蹴る。これが私の仕事?虚しさで胸が潰れそうだ。
ゴブリンは三日月刀を振り回す。私はそれを軽々と避け、空中で一回転。遠心力を利用して右足かかとを、ゴブリンの頭に叩きつけた。
グギャッ!とゴブリンの断末魔が響く。
「ふん、これくらい朝飯前よ」ドヤ顔でリジャスミンを見る。きっと驚いているはず──そう思ったが。
「なんですか?あのオーバーで隙だらけの技、無能な魔物にしか通じませんよ」
冷たい視線と言葉。彼女は私をも凍らせたいらしい。
「くっ、あんたって本当に...」汚い言葉を飲み込む。
私も自分の力量くらい理解している。私はクレリック(聖職者)で、治癒と補助系の魔法は得意だが、それ以外は不得意。彼女のような攻撃魔法など、夢のまた夢。
「戻るわよ、リジャ。これは村を救ったってレベルよ。たっぷり報酬出してもらわないとね!」
「命令しないでください。あなた殆ど何もしてないのですから...」
「うるさいわね。適材適所って言葉知らないの?あの状況では私が活躍する場が無かっただけよ」
「本当に口だけは達者ですね」
彼女の言葉が私の心に突き刺さる。
分かっている。情けないが、私は弱い。彼女に頼るしかないのが現実。たとえ自分が楽をしているように思われても、実際そうなのだけど。その事実が、胸に重くのしかかる。
本当に強くなるまでは、プライドを捨てて彼女に頼るしかなかった。
「まぁ、あなたはそれでいいです。あなたの事は私が守りますから...」
思わぬリジャの言葉に彼女を見やると、彼女はあらぬ方向を向いていた。
まったく、このツンデレ。思わず笑みがこぼれる。
「い、言われなくても。無茶はしないわ...」
私の言葉は、弱々しく空洞に消えていった。
無茶なんてするつもりはない。もう二度と...あんな過ちは繰り返さない。その決意が心に刻まれる。
目を閉じれば、蘇る光景がある。血まみれの地面。大切な仲間の苦痛に歪む顔。全ては私の愚かさが招いた悲劇。その記憶が、今でも心を締め付けた。
以前の私は自分の無力を認めず、強がっていた。そんな愚行が大切なものを奪った。
その日を境に、私は大きく変わったのだ。プライドを捨て、自分の弱さを認め、無駄に前に出ないと決めた。
それが、足を引っ張らない唯一の方法だと悟った。今の私は、過去の過ちを取り戻す旅の途中なのだ。
「クレア、何を考え込んでいるのです?」リジャの声に、我に返る。
「別に……」と、私は自分のちっぽけなプライドを踏みつけるように歩み出した。
狭い洞窟を抜け、村へと帰る道を黙って戻る。
私は子爵家の令嬢。本来なら魔物との戦いなど縁もゆかりもない世界の人間だ。そんな私が、親の反対も聞かず冒険者の道に進んだのは、〝イレイザー(討伐屋)になりたい〟という、ただのエゴイズム。
そんな一時の感情から始まった生き方、正直いつ棄てても問題なかった。しかし、今は違う。今の私には明確な目的がある。失ったものを取り戻すという絶対的な使命。
それまでは、どんなに情けなくても、どんなに無力でも、耐えてみせる。それが私への贖罪なのだ。その決意が、私を前へと進ませている。
「ねぇ、リジャ」
「なんですか?」
「……あ、ありがとう」
私の口から漏れ出た言葉に、彼女は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐにいつもの冷たい仮面を被った。
「急に何なんです?」
「別に...」そう言って、私は前を向く。
やがて狭い洞窟を抜け、外の光が見えてきた。あのジジイからは、シッカリ追加で報酬をもらおう。
空は青く、風は心地よい。私は深呼吸して、気持ちを切り替えた。
「さあ、行きましょう、リジャ」彼女の横顔を見つめながら、私は一歩を踏み出す。この旅の先には、きっと明るい未来がある。私はそう信じている。
「そうだよね……バルト……」
私は、今も忘れられない。あの時の過ちを────