黒の魔剣
トントの町の端――――低所得者や家を持たない子供が身を寄せ合うようにして暮らす、いわゆるスラム街。
ここの住人たちは日雇いの仕事や、旅行者からの施し、それとそんな人の良い輩を狙った犯罪行為で生計を立てていた。
子供たちはみんな痩せこけ、本来体格の良いオーガですら腕は筋肉に乏しかったが、餓死を前にして狂乱した鼠のように、眼だけが異様にギラギラとしている。
皆、今日を生きるのに必死なのだ。
そんなスラムに、一人だけ場違いなほど小綺麗な子供がいた。
歳は十と少し、といったところ。
簡素だが清潔な寝間着を着た少年の頭からは渦を巻く双角が生え、魔力が漏れているのか不思議な光を纏っていた。
彼が狭いながらも落ち着く自分だけの家で目覚めにフルーツを食べていると、大きな羽音が聞こえて、窓からぬっと顔を出した者があった。
「よぉ、坊主。調子はどうだ」
毛むくじゃらの顔にギザギザの歯を剥き出して笑う蝙蝠亜人。ジャミだった。
彼の手首から脇にかけては、本物の蝙蝠のように薄くて頑丈な被膜が伸びている。
――――あんたの顔見るまでは最高だったよ。
羊亜人のポー少年は、心の中だけで返答した。もっとも、口に出そうにもプレートバナナを頬張っていたため、誰も意味を理解できない声が出ただけであろうが。
「なんの用だい?」
「俺がお前のとこに来る用なんて決まってらぁな。また人を攫うのを手伝って欲しいわけよ」
解せない依頼だ。
ポーは同年代の子供と比べても小柄だった。
スリ窃盗の類ならともかく、人を攫うという荒事は特に向いていなさそうだ。
だが、少年はその依頼内容には触れず、平時そのものの調子で言った。
「あんた一人かい?ラショウたちはどうした?」
不遜な少年にジャミは舌打ちした。
どうも、仲間から格下に見られている気がすると前々から思っているのだが、彼らはみなが恐ろしい魔術や闘技を持つ。正面切って戦う気概も実力も、ジャミにはない。
だが、こんなちっぽけな少年にまで生意気な口を利かれると、いつも押さえている感情が漏れだしそうだった。
「ラショウたちはいねぇよ。俺個人の頼みだ」
勝手に籠から蔓苺を摘みながら、ジャミは言った。
「ある女をよ、呼び出してほしいんだ」
「……その女、あんたのナニ?」
二枚目のバナナの皮を剥きながら怪訝な眼を向ける少年に、ジャミは机を拳で叩き、凄んで言った。
「細けぇこたぁいいんだよ!俺はあの女の血が吸いてぇんだ。あんないい女、次はいつ会えるかわからねぇからなぁ!」
一応は官憲であるとは思えない、チンピラ同然のヒステリーだ。
あの女とはもちろんアイリスのことである。
ジャミもラショウ一味に加わっているだけあって、他人には真似できない特技を持っていた。
その技で、トントの宿で眠りながらにしてアイリスたちの居場所を突き止めたのだが、それを仲間たちに報告せず、このような独断に走ろうとしているのだ。
「女はカーティスの町に居る。お前はこの間の餓鬼を攫った時と同じ手口で宿から誘い出せばいい。後は俺がやる」
そう言って、窓に向かおうとしたジャミは、ポーが相変わらず椅子に座って寛いでいる様を見て引っ返し、片方の角を掴んだ。
「てめぇ、誰のおかげでこんないい暮らしができてると思ってるんだ?俺たちが使ってやってるからだろうが!そうじゃなきゃ、おめぇは領主様に刻まれて、腸を検分されてるとこだぜ?」
少年の顔に、初めて恐怖らしきものが浮かんだ。
「わかったか。わかったらいますぐ行くぞ!」
仲間に対しては絶対に見せない横柄な態度でジャミは入って来た時と同じように窓を潜った。
唾を吐きかけてやりたい気分を抑え込み、ポーも急ぎドアを施錠して後を追うしかなかった。
カーティスの町を青い光が満たしている。
オアシスの人々を見守る美しい蒼月は、いまが一番高く大きく砂漠の空に浮かんでいる。
ポー少年はとある宿の壁を背にして眠っていた。
近づけば僅かに上下する肩と共に、静かで規則的な寝息が聞き取れるだろう。
完全な熟睡――――だが体と頭は眠りながらも、彼はなおもはっきりと意識を保っていた。
――――あのクソ野郎……!
誰にも知覚できない言葉で罵るのは、もちろんジャミに対してだ。
彼がスラムの中ではあるが家を持ち、誰からも搾取されずに生きていけるのは、ラショウたちの手下と見られているからだ。
いや、実際に彼らには手を貸しているし、見返りがあるならそれでいいと思っているが、ジャミだけは別だ。
どうもあの男は仲間の中で下っ端のように扱われている節があり、その捌け口を自分に向けている気がする。
今回のような極めて個人的な案件にまで、都合も聞かずに駆り出されるのだ。
これまでも、ジャミから女を誘い出せと言われたことは何度かあったが、あの醜い男が美女の首に噛みついて血を吸うところを想像すると、全身の皮膚が拒否反応で泡立ちそうだった。
自分がもし女だったらと思うと――――おそらく奴の牙が首に刺さるより先に、自ら命を絶つだろう。その前に、目玉に指を突っ込んでやるが……。
ポー少年は標的がいるというホテルの前に立ち、そして一度振り向いた。
そこには膝を抱えて眼を閉じている子供が――――体つきや服から、頭の渦を巻いた角まで完全に同一のポー少年がいた。
彼は自らの魂だけを体から分離して、他人の夢の中に入り込むことができる。
そして、夢の中の相手に一種の催眠術をかけ、完璧な操り人形といかないまでも、ある程度の命令を夢遊病者よろしく無意識に遂行させることができるのだ。
非常に特異で、隠密の任務に適した能力だが欠点もある。
まず、物体には触れることができないため、盗み等は一切行えない。
次に、肉体からあまり離れられることができない点。
最後に一番の問題は、魂が抜けている間は体が無防備になるため、安全な密室で行うか、護衛を用意する必要があるのだが……。
ポー少年は舌打ちした。
肉体を守ってくれるはずのジャミは少し離れた場所で壁にもたれていたが、その両眼は閉じていた。
――――寝てんじゃねぇよ!ちゃんと守れよな!
どうせ聞こえないので、ポー少年は遠慮なく罵倒してから玄関の扉をすり抜けた。
エントランスでは、丁度いい具合に商人らしき成金趣味の太った男がチェックインしているところだった。
ポーが覗いているとは知らず、応対した使用人は壁のキーケースを開いた。
中に掛けられた鍵の数から見て、部屋は七割ほど埋まっているようだ。
できれば宿帳も見せてほしかったが、客がいなくなると使用人は玄関の掃き掃除を始め出した。
この地域では、少しの開け閉めの間にも砂が入り込んで、すぐに床が黄色くなってしまうのだ。
仕方なく一旦外に出て、窓際をなぞるように飛んでわかったが、半分は住民が起きている様子。
そして、そのほとんどが男だった。
一組だけ男女で泊っている客がいたが、女の方はこの町の娼婦らしく、まったく特徴が合わない。
残る半分を順番に調べていく。
ジャミが言った、赤い眼の女を探すためだ。
――――赤い眼の女だって?
ポーはまた毒づいた。
――――眼を開けたまま寝る女がどこに居るんだよ!部屋番号くらい教えろよな!
半目で口から涎を垂らして寝ているデブオヤジはいたが、そいつですら瞳は裏返って白色だった。
――――ジャミの野郎、面倒なことを押し付けやがって!あいつが俺を使って女に手を出してること、ラショウたちは知ってるのか?今度さりげなくバラしてやろうか……。
そんなことを考えながら、こんどは二人部屋に入った。
若い男と女が、安らかに寝息を立てて眠っている。
ベッドは二つあったが、男女はわざわざ一つのベッドに身を寄せ合って眠っていた。
そして、瞳の色を見るまでも無く、ポー少年は確信した。
――――この女だ。間違いない。
白磁のように白い肌。長い睫毛。手を伸ばしたくなるような艶やかな髪。
そして、少女のような可愛いらしさと大人の女の色香。
普通なら相反する魅力が奇跡のように調和している。
出自はどこかの令嬢だろうか。
しかし、薄着で横たわる姿からは猫科動物のような、しなやかな力強さも感じた。
なんにせよ、ジャミでなくても心を惹かれずにはいられない一輪花だった。
相手が淫魔だと知らされていなかったポーは、その無防備な寝顔に恍惚として見入ったが、廊下をドスドスとうるさく歩く客の足音に、ようやく仕事を思い出した。
気を集中して念じると、見る間に幽体となった体が布上に変化してアイリスの顔の上に覆い被さっていき、やがて彼女の夢の中へと溶け込んでいった――――。
夢の世界というのは個人によって千差万別だったが、アイリスの夢の中は花が咲き乱れる魔界の野だった。
ほとんどの者は自室のベッドなどの安心できるような場所だったり、苦しい生活をしている者は荒れ果てた廃墟や、暗闇だったりするが、彼女はいまよほど幸せらしい。
ポーは夢の世界で、またしてもアイリスの寝顔を前に時を忘れた。
彼女を守るように包む花々が霞むほど、その姿はあまりに美しくて、ジャミなんかに渡すのが酷い罪悪に思えた。
ポーはいまよりもさらに幼い頃、ストリートチルドレンに混じって、生きるために悪事を働いていた。
ラショウたちに見込まれてからは、さらにその手を罪に濡らして来たが、そんな少年の心にも暖かなものを呼び起こさせるような何かをアイリスは持っていた。
――――でも、やらなければ、次に食い物にされるのは自分だ……。
ポーの胸に虚しいような思いが掠めた。
仕事を放棄すれば、領主の庇護が無くなるかもしれない。
そうなれば、スラムの宿なしに逆戻り……。
それどころか、数時間と生きてはいられないだろう。
いままで目につく場所で良い暮らしをしていたポーを、スラムの住人たちがどのような私刑に掛けるかわかったものではない。
もしかすると、死ぬより酷い未来があるかもしれないのだ。
少年は覚悟を決めて、夢の中でなお眠り続けるアイリスの耳元に命令を吹き込むべく、そっと近づいた。
「――――おい」
突然背後から湧いた声に、口から心臓が飛び出そうなほど驚いた。
振り向くと、現実世界でアイリスと一緒に眠っていた男が、あたりまえと言う風に立っていたのだ。
格好も寝る時の薄着ではなく、黒のパンツに外套を羽織った旅装束である。
「ここは……アイリスの夢の中か何かか?」
物珍し気に見渡すタイガに、ポー少年は混乱の最中で返事もできない。
魂が体から離れてしまう――――俗に言う幽体離脱というのは偶発的に起こってしまうこともある。現に、そういった状態の魂を見たことは何度もあったが、それらがポーの支配する夢の世界に来てしまったことは一度としてなかった。
「な、なんで……どうやってここに……」
「いや、俺もこんな体験は初めてだ。危険を感じてアイリスが呼んだのかもしれないが……」
二人のやり取りにも気付かずに寝息を立てるアイリスに優しい眼差しを送ったタイガだったが、すぐに感情を引っ込めると、手の中に例の魔剣を呼び出し、ポーに向けた。
「あるいはこいつが連れてきたのかもな」
その刀身は闇を固めたような漆黒で、ポーがいままでに見たどんな剣とも違う不思議な存在感を持っていた。
魔剣、妖刀の類だろうか。
物言わぬ刃から冷たい鬼気のようなものを感じ取り、少年は身震いした。
「……魂は斬ったりできないぞ」
ポーはそう言いながら、夢幻の花畑の中を少しずつ後退っていく。
たしかに、霊体は実体があるものに触れることすらできない。逆もまた然りだ。
だが、この男は現にその手で剣を握っている。
それはすなわち、あの武器は霊体に干渉することができる。ということではないのか?
しかも、あの剣はいま、明確にタイガに呼び出されて出現した。
自らの意思で、この世界に来たのである。
切れ味だけに留まらない、恐るべき生きた魔剣――――天魔・斬空剣。
目の前の男もそうだが、ポーの理解を超えている。
「そうなのか?だが、この剣なら斬れるかもしれない。こいつはドワーフの職人に作ってもらったんだが、俺も知らない能力がいくつも隠されているようだ」
「…………」
「お前、誰かから命令されてこんなことをやっているのか?それとも……!?」
タイガが話している途中で、ポーの輪郭がぼやけて波打ちだした。
術を解き、現実に逃げようとしているのだ。
「逃がさん!」
瞬きする間に肉薄し、斜め下から切り上げる黒刃の一閃――――。
夢の世界で断末魔のような悲鳴が尾を引き、世界は絵の具を乱雑に混ぜたかのような色彩に包まれ、崩壊していった。
長い睫毛を揺らし、アイリスが目を覚ました。
――――ああ、ここはカーティスの宿屋だっけ。
寝ぼけた頭で記憶を呼び起こしたアイリスは、ふと横を見た。
隣で寝ていたはずのタイガは、両開きの窓を片方だけ開けて正面の通りを眺めているようだ。
「どうしたの、タイガ……」
「……悪い。起こしたか?」
タイガは薄く笑みを浮かべると、窓を閉めてベッドに戻った。
「なんでもない。もう少し寝てろ」
そう言って、指でアイリスの頬にかかっていた髪を除けた。
「うん……」
アイリスは安心しきった顔に微笑まで浮かべ、すぐに眠りに落ちていく。
タイガは健やかな寝息を聞きながら愛剣を呼び出すと、決して浅くない付き合いのそれを、静かに見つめていた。