カーティスの宿
薬指にリングを付けた青年は、開け広げた窓の縁に頬杖を突き、初めて訪れた街並みを眺めていた。
東の空が青みがかってきて、赤い月は西の地平線に半分沈んでいる。
タイガたちは先の不審な男たちの眼を晦まして逃げた後、念のために次のトントの町を素通りして、さらに先にあるカーティスの町に宿を取っていた。
「アイリス、赤色の鴨がいるぞ」
タイガが見ているのは、向かい側の通りの一角。
柵に囲われた中に数十羽の鴨が押し込まれている。
鴨の群れは何処にも行けないというのに、じっとしていられないのか、常に足を動かしていた。
頭部の羽毛はツヤのある赤。羽は黄色を強く帯びた茶色だ。
「鼈甲鴨ね。この辺じゃあれが一般的な鴨らしいわ」
アイリスもタイガの傍らに立って窓から眺めた。
カーティスの町は迷路のように入り組んでおり、どの路地にも人がいた。
ここのオアシスは比較的大きいため、住人もたくさんいるようだ。
「鴨か……鴨なんて年の境に二切れくらいしか食えなかったな」
タイガは育った故郷を思い出しているのか、なにやらしみじみとした様子だ。
「どこでも高級品だからね。一生口にできない人もいるでしょうね……」
窓から見える路地の端では、ボロを纏った年寄りが壁にもたれ掛かっている。寝ているわけではないようだが、石像のように微動だにしていない。その姿からは、生きる気力というものを感じられなかった。
南部はとにかく浮浪者や物乞いが多い。
本人も理由がわからぬまま、生まれながら家が無い者も多くいるのだろう。あるいは理不尽に奪われてしまったか……。
道を行く子供たちの顔も、最初の町と比べると、どことなく陰を持っているように見える。
二人は特に話すことも無く風に当たっていると、部屋に軽いノックの音が響いた。
「ドリンクサービスです」
カートを押して来たのはラミアの少女だ。
年相応に化粧気は薄く、黒髪をさっぱりしたショートヘアにしている。
腰から下の蛇の部分はピンク色の鱗に覆われており、少女の可愛らしく健康的な雰囲気にマッチしていた。
「当ホテルオリジナルのトロピカルジュース、ヨーグルトドリンク、アイスミルクティーと用意しております」
少女の説明は淀みが無く、所作も洗練されている。
ホテルのグレードはお世辞にも高くないが、従業員のおかげで多少はリッチな気分になれそうだ。
「タイガ、何にする?」
「まかせる」
窓枠に肘をかけたままタイガは言った。
「じゃあ、トロピカルジュース二つで」
「かしこまりました」
少女は慣れた手付きでオレンジ色のジュースを氷の入ったグラスに注ぐ。
風を孕んだカーテンが、ふわりと舞い上がって揺れた。
ホテルの窓からは、町の中心で緑に囲まれたオアシスが、月に照らされて青い光を湛えているのが見える。
この眺めだけでも、過酷な砂漠を越えて来た甲斐はあるかもしれない。
少女がテーブルにグラスを置いたタイミングで、アイリスはトラベラーポーチを探った。
「はい、これチップね」
目の前に差し出されたピカピカの金貨を見て、少女は束の間、息をすることも忘れたようだった。
「こ、こんなにたくさん!?」
年齢に見合わず落ち着き払っていた声が、ひっくり返った。
百合の花と女姓の横顔がデザインされた金貨は、西方の魔王が居城を構える王都フローラリアで発行されている物で、少女が三カ月間限界まで生活を切り詰めても手が届かないほどの価値がある。
彼女も一度だけ知り合いの商人に見せて貰ったことがあるくらいで、このリーズナブルなホテルでは、まずお目にかかることはないはずだった。
「あなたは可愛いから特別ね」
「あ、ありがとうございます!」
ぺこぺこ頭を下げる少女は、アイリスの口元が悪戯っぽく形を変えたことに気がつかない。
「あなた名前は?」
「名前ですか?ミーシャと申します」
「じゃあミーシャ。少し聞きたいことがあるんだけどいいかしら?」
「はい。なんなりと……」
「さっき頭巾で顔隠した変な奴がいたんだけど、知ってる?後ろに育ちの悪そうな奴等を四、五人くっつけて、随分威張ってたわ」
ミーシャは何か思い当たる節があるのか、笑顔を引っ込めて怪訝な眼をした。そして、密やかに言った。
「それは……おそらくラショウ様かと思います。領主様の部下で、この辺りの治安維持を任されている役人たちのリーダーです」
「…………」
アイリスは一呼吸だけ言葉に詰まったが、すぐに気を取り直して言った。
「へえー。私はてっきり盗賊か何かだと思ったわ」
「は、はは……」
ミーシャは人目を憚るような、明らかな愛想笑いをした。
「あいつらさ、絶対に弱い者いじめとかしてるでしょ。そういう雰囲気出してるもの。どうなのそこのとこ?」
「そ、その……」
ミーシャは困惑して黙り込んだ。
あんまり悪く言って、もしも当人たちに知れたら困る。
この客にも注意して、早々に去るのが賢いやり方だろう。
面倒な客を幾度もいなして来たミーシャは素早く結論を出したが、不思議とアイリスから目が離せなかった。
客だから相手をしなければいけないというのもあるが、その眼を見ていると心が緩むとでも言おうか、なぜか許されたような気分になり、体の力が抜けてくる。
僅かな沈黙の間に、少女の頭にはピンク色の霞がかかり、甘い虚脱感に酔っていた。
それ故に、アイリスの紅の瞳がいつの間にか紫色に変わっていることにも疑問を持たなかった。
「あいつらの話、もっと聞かせてくれる?」
いつの間にか唇が触れそうな距離まで顔を寄せ、少女の眼を覗き込んだアイリスが言った。
「ラショウ様はわかりませんが、その部下は全員が元罪人だという噂です……」
「……それで?」
「目をつけた相手は何かしらの理由をつけて無理にでも連れて行くという話で……しかも、連れて行かれた者は二度と帰って来ないので、皆に恐れられています……なので……その……」
ミーシャは欠片ほどに擦り減った理性で、なんとか会話を切り上げようと言葉を探したが、アイリスはなおも食い下がった。
「領主っていうのは?」
「ザガン様と言います……ずっと城に籠って顔を見せないのですが、あの方が隣の領地と不戦協定を結んだおかげで、この地は長らく大きな戦争も無く、特に商人たちからは大変な支持を集めています」
「……ありがとう。もういいわ」
「あ……」
ミーシャの口から、名残惜しそうな声が無意識に漏れた。
「仕事中にごめんね」
「いえ……」
少女は恥じらうように瞳を伏せて熱い息を吐いた。
尻尾の先はのの字を描くようにくねっている。
顔は耳まで熱を持ち、心臓は鼓動の音が聞こえそうなほど高鳴っているが、不快な気分ではない。
その興奮がどういう種類のものか気付けない程度に、ミーシャは純粋であり、まだ少しだけ若かった。
「ああ、そうだ。金貨を貰ったなんて他人に喋っちゃダメよ?」
その途端、少女は居眠りが見つかったかのように背筋を伸ばした。
そうだ。この地に生きる者はいつ何時も気を緩めてはいけないのだ。
こんな大金を持っていると知れたら、強盗はもちろん、あるいはここの女将に取り上げられてしまうかもしれない。
「し、失礼します……」
少女はまだ完全に立ち直っていなかったが、それでも恭しく頭を下げて出て行った。
ドアが閉まって数秒後、相変わらず窓の外を眺めながら、タイガがのんびりと言った。
「あいつら本当に役人だったんだな……」
その役人の一人を刺し殺したわけだが、まったく気にしていないようだ。
「それでもかなり胡散臭いけどね。町の外で襲って来たのも、他人に見られたくないからかもしれないし……連れ去った人をどうしてるんだか……」
アイリスはドリンクで口を湿らせた。
傾けたグラスの中で、涼しい音を立てて氷が鳴った。
窓からは荷馬車の車輪の音が聞こえ、そして遠ざかっていく。
「どうする?宿を取ったばかりだが、念のためもう出るか?」
ここからさらに一つ隣のオアシスに行けば、そこはもう別の統治者が治める地域だ。
少なくとも、その町中ならザガンとやらの手下たちもおいそれとは手が出せまい。
しかし、アイリスは他人事のように言った。
「大丈夫でしょ。血の巡りが悪そうな奴等だったし、まだ砂漠の中を探し回ってるんじゃない?」
タイガは小さく頷いた。彼は何を考えているのか……傍目には、今回巻き込まれた騒動も、どうでもよさげに見える。
もしも、アイリスが前言を撤回して、すぐに出発すると言えば、やはりいまと同じように頷いていたのではないか。
「そうか。そうと決まれば……」
タイガは椅子から立ち上がった。
「どこ行くのよ?」
「いや、飯はあの鴨にしてもらおうと思って」