ザガンの猟犬・2
魔界の空には二つの月が交互に昇る。
神話によると、セレナとイグニスの姉弟魔神が互いに相反する性質の月を作り出したとされていて、蒼い月は生命に安らぎを与え、紅い月は闘争本能を滾らせるという。
とは言っても、赤い空の下では常に血みどろの戦争が起こっているなどと言うことはなく、逆に青い光の下でのみ活動する捕食者もいた。
種族によってどちらの時間に活動するかは概ね決まってはいるが、タイガたちは青い月の頃に眠り、赤い月が空を支配する時に旅をした。
その二人はまた馬上の人となっていたが、今日はこれまで出番のなかった外套に身を包み、マスクで鼻と口を覆っている。
吹きつける砂塵はそれほど酷くはない。
それも風が穏やかな季節を選んで旅をしているからであるが、さりとて砂漠はいつ気まぐれを起こして旅人に牙を剥くかわからない。
次のオアシス――――トントの町までは半日もかからず着くが、馬の脚は前日よりも早かった。
ところで、馬上のアイリスは遠見鏡片手に、先ほどから忙しく左右を確認している。前日のような盗賊を警戒しているのだろうか。
「アイリス。探し物はどうだ?」
妻を流し目で確認しながらタイガが言った。
今日は方位磁石を持っているのは彼の方だった。
「ダメね。見つからないわ」
アイリスは遠見鏡から目を離して言った。
「この辺りは次のオアシスに通じるルートだから、有っても拾われちゃうのかも」
彼女が探しているのは『砂漠の薔薇』と呼ばれる鉱物だ。色は様々だが鉱石が花弁のように薄く結晶化した物で、それがうまい具合に重なって成長すれば、まさしく薔薇のような姿を取る。
コレクターに高値で売れる他、砂漠の魔力が凝縮されているため、研究者や魔導の道を志す者等にとっても垂涎の的だ。
「やっぱり昨日のバザーで買っておけば良かったんじゃないのか?」
自分も左右に目を配りながら、タイガが言った。
昨日泊まったオアシスのバザーで、件の宝が売っていたのだ。
もっとも、敷物の上に置かれたそれは、かなり小さい上に、形も花と呼ぶには苦しい物であったが。
「わかってないわね。こういうのは自分で見つけ出すのが良いんじゃない」
「なるほど……」
タイガは頷いた。
要するに、彼女はロマンを探しているのだろう。
そもそも、二人の旅自体が確固たる終着点もなく、見果てぬものを求めてのことなので、たとえ手に入らなかったとしても、それはそれで何も問題はなかった。
と、黒馬の耳が忙しく動いた。
同時に背後から声がかかった。
「そこの馬!止まれ!」
振り向くと白い頭巾の男を中心に、六人の騎馬がやって来る。
「なに?また盗賊?」
緊張感の欠片もなく、むしろ呆れた様子でアイリスは言った。
「失敬な!我々は領主様の使いだ!」
その男、ラショウが手を上げると、一同は馬から降りて等間隔で半円を描くように陣形を作った。
「貴公らに不審の点がある。我々と来ていただこう」
タイガとアイリスは顔を見合わせた。
元よりただの旅行であり、この地の法――――もっとも、法などあってないような物だが――――に触れるようなことはしていない。強いて言うなら、前日にタイガが盗賊を斬ったくらいだが、あれはどの地においても正当な防衛であろう。
「どんな容疑よ?」
「間諜の疑いだ」
ラショウは簡潔に答えた。
間諜――――つまりスパイ容疑である。
境を接している大和の国とは大規模な戦争こそないが、互いに弱みを見せればすぐにでも乗り込めるように刃を研いでいる。
南部の中での覇権を巡る抗争ならば、戦火を見ない時でも常に互いが虎視眈々と隙を伺っているものだ。
故に、間諜による情報戦も絶えず行われているはずだが、二人はもちろん身に覚えがない。
「馬鹿らしい。私たち、南部に入って二日目よ?昨日も宿に泊まっただけで、大して出歩いてないわ」
「…………」
「あんたたち、昨日の盗賊の仲間なんじゃないの?やり返そうにも力じゃ勝てないから、足りない頭で雑な作戦立てて来たんでしょう」
「なんだと貴様!」
頭の横に指を立ててクルクルと回したアイリスに、流石に男たちは気色ばんだ。
が、曲刀を抜きかけたラショウの前に、歩み出た者が一人。
一同の紅一点、ダチュラだ。
「貴様ら、夫婦か」
「そうよ。兄妹には見えないでしょ」
「だがその若さなら一緒になってまだ日も浅いであろう。一つ私が男の本性というものを教えてやろう」
ダチュラはそう言って両手で印を結んだ。
何か言い返そうとしたアイリスは、目の前のラミアから立ち上り始めた妖気に薄ら寒いものを感じ、はじめて不安げに夫を見た。
そして、タイガがどこか遠い眼をしていることに気が付いた。
「……タイガ?」
アイリスが体を揺すると、タイガはポツリと言った。
「女だ……」
「は?」
「裸の女が……あちこちにいる」
アイリスはタイガの視線の先を見て、また周囲を見渡すが、もちろん裸の女など一人もいない。殺風景な熱砂の世界が広がっているだけだ。
最後に視線はダチュラに戻った。
「貴様の夫は幻の女の海を見ている。いまにお前のことなど忘れて飛び込むぞ」
そう言って口の端を吊り上げたダチュラだったが、その体が突然大きく震えた。
もはや見慣れた光景と気を緩めていた仲間たちは、一斉に驚愕の声を上げた。
ダチュラの腹から背中までを、一本の槍が貫いていたのだ。
「生憎だが、俺はもう女は女房以外受け付けないんでな」
馬から下りたタイガがダチュラの腹から無造作に槍を引き抜くところを、仲間たちは呆然として見ているだけだ。
彼がやったに違いないが、タイガがいつ槍を投げたのか誰にもわからなかったし、そもそもそんな得物をどうやって隠し持っていたのかも見当がつかない。
ダチュラは上半身を投げ出し、伸ばした手に砂を掴んだ。
最後に見たのは嘲笑を浮かべたアイリスの顔だった。
それに燃えるような憎悪の眼差しを向けたまま、蛇女は動かなくなった。
「おおおおおおっ!」
一団の端にいた男が吠えながら自分の服を捲り上げた。
体に浮かんでいるのは蛇の刺青――――マハールだ。
彼が前日に見せた奇怪な術が再び発動した。
刺青の蛇の頭が皮膚から浮かび、立体感を持って鎌首を持ち上げた。
本物と同様の、空気が抜けるような威嚇音を出しながら、群青の大蛇が恐ろしい勢いでタイガに飛びかかった。
それが青年の体を横咥えにしたと見えた刹那、響いたのは悲鳴ではなく異様な金属音だった。
男たちは、前のめりになって眼を瞬いた。
薄く透けて見える蛇の向こう側で、青年の胴体を黒い装甲のようなものが覆っている。
それが、前日に女盗賊を噛み潰すほどの威力を見せた牙と顎を受け止めていた。
青年は蛇が喰らいつく寸前までは極めて軽装だったはずだ。
その防具は彼の操る剣や槍と同じく、また一瞬で虚空から現れたのだ。
何が起きたのか理解できないのか、それとも考える頭脳を持ち合わせていないのか――――文字通り歯が立たないにもかかわらず、なおもカチカチと顎を合わせようとする蛇の姿は滑稽ですらあった。
音もなく振るわれた刃が、薄墨のような幻術を薙いだ。
本来なら物質の干渉を受けないはずの蛇の頭は当然のように砂の上に落ちると、塵が風に飛ばされるように掻き消えてしまった。
足から綺麗に着地したタイガは、槍の代わりにいつの間にか手にした剣を肩に置きながら、通い慣れた道を散歩でもするかのような足取りでマハールに近づく。
術を破られた男は処刑を待つ罪人のように固まっていた。
腰にはまだ鞘に収まった剣があったが、手をかけようともしない。
彼だけではなく、他の仲間達も……。
相手がいっそ面妖な術師であったり、あるいは傭兵家業で日々を食いつなぐような荒くれ者であったなら、このように放心することはなかっただろうが、タイガからは特に強い魔力も感じないし、首などはむしろ男にしては華奢なほどだ。
どこにでも居そうな、人畜無害な若者にしか見えないのである。
それが、どうやってマハールの技を破ったのか?
本当であれば、それ以前にダチュラの手によって正気を失っているはずなのだ。
この疑問も当然だが、ラショウたちが動けない真の理由は別にあった。
青年からは怒気や殺気といった、闘争には切っても切れぬ気配をまったく感じないのだ。
しかし、だからと言って襲い掛かろうものなら、その時は逃れられない死の刃が降りかかる――――そんな予感が彼等の足を地面に縫い付けていたのである。
「マ、マハール!なにをしている!」
刃が閃く直前にラショウが叫んだ。
それでやっと呪縛が緩んだマハールが構えたのは、暴君亀の子供の甲羅で作った盾だ。
軽量ながら鉄よりも固く、体重五トンを越える象に踏まれてもヒビすら入らない。
一刀が横に走った。
甲羅の裏のマハールは目を見張り、反撃することも忘れてしまった。
盾は両断こそされなかったが、裏にもくっきりと線が走り、その僅かな隙間から向こう側の光が漏れて見えるのだ。
タイガが二の太刀を振るった時、マハールは盾を放り出して転がるように逃げ出した。
その後ろで二つになった亀の甲が、下側は砂に落ち、上半分は紙のようにひらひらと舞いながら宙を飛んで行く。
「か、かかれ!」
焦るラショウの声と同時に、残りの男たちが一斉に剣を抜いた。
「タイガ!」
アイリスが叫びながら男たちの真ん中に何かを投げた。
見れば、手の中に収まるほどの小瓶だ。
それが赤い月光の下に青白い光を放っていた。
突然に眼前で起きた雷鳴と膨れ上がった白光に、役人たちの全ての感覚は麻痺を起こし、馬は慌てていなないた。
それぞれが顔を守るように腕を上げていたが、光が収まって眼を開くと、あの男女は姿を消していた。
足元を見ると円形の焦げ跡が残っており、まるで本物の雷でも落ちたかのようだ。
そして奇妙なことに、ラショウたちが怯んでいたのはほんの数秒というのに、見渡す限り遮る物もない砂漠を行く姿は見えず、馬の足が砂を掻き散らす音すら聞こえない。
昨日あれほど首尾よく盗賊の群れを片付けた官憲たちは、ただ茫然とその場に立ち尽くしたのだった。