妖精・ピナータ
「あれは、私が子供の時分にお婆様から聞いた話ですじゃ……最も、そのお婆様も随分な年寄りから聞かされた話だという事で、つまりはもう訳が分からないほど大昔の話です」
その時、月が雲に隠れたらしく、酒場に差し込んでいた青い光が明度を落とした。
老婆はテーブルの端のランプを引き寄せた。
中ではぽってりと太った火精が、ゴマ粒のような眼で見上げている。
老婆は意外にもしっかりとした手付きで、餌箱からウッドチップをひとつまみ取り出すと、ランプの中に撒いた。
食事が出る場所故に、香りが立たない木材を選んでいるようだが、それでも僅かに渋みがあるクルミのような匂いをアイリスは感じ取った。
「この村の西の森をずっと行った先に、かつて二つの国がありました」
餌を貰った火精の光が、皴深い顔を照らしている。
それは、赤と青の月光を除けば、魔界の人々が最も慣れ親しんだ明かりだった。
「その二国は珍しい事に、隣国でありながら仲が良かったそうです。なんでも北方から来る魔獣や西の異民族の襲撃を長い間協力して防いでいたという話で……」
ここで、老婆は黙り込んだ。
高齢故に、記憶を引き出すのに時間が掛かるのかも知れない。
アイリスは老婆の右腕の裾から、黄色い石が覗いているのを見逃さなかった。
体に埋め込まれたように生えているそれは、エルダーデーモンの特徴である。
エルダーデーモンは普通のデーモンの三倍は長生きするため、どこに住んでいてもその地の生き字引になるのだ。
「おいアンタ。あんまり婆さんを調子に乗らせないほうがいいぞ。話が始まると止まらねえからよ」
大きなジョッキを片手に持った筋肉質の男から声があがった。
老婆の眠たそうに垂れ下がっていた眦が持ち上がった。
「カール!よくそんな口が利けたねぇ!あんたが女房に似た女の子が欲しいっていうから、祈り方も知らないあんたに変わって、魔神様に祈ってやったっていうのに!それでちゃんと可愛らしい女の子が生まれたろう!」
酒場の中に笑い声が溢れた。
説教を受けた男だけが面白くなさそうに唇を尖らせていた。
「まったく、こやつらと来たら、誰がおまえらのおしめを替えてやったと思っとるんじゃ。なんならお前らの親まで背負って面倒を見てやったくらいじゃ」
老婆はブツブツと小言を漏らした。
「……それで、その二国がどうなったの?」
話がどこかに行かないように、アイリスが先を促した。
「……その二国の王子は固い友情で結ばれていた、と言います。時間があれば共に狩りに出て、戦場でも寝食を共にしたと。そして、バビロン神の前で義理の兄弟の誓いを立てたのです」
バビロンとは、創世の魔神達の王である。
魔界にはいくつかの宗教があるが、最も広く信仰されているのが創世の魔神一派である。
「その誓いを神も祝福されたのか、一匹の妖精が天から舞い降りたのです。ピナータと名付けられた、可愛らしい青い小鳥のような妖精で、それは美しい声で歌ったと言います」
老婆はひとつ息を吐いた。
そのタイミングで酒場の娘が料理を持って来た。
この辺りでよく飛んでいる、碧魚を丸ごと煮た物で、看板メニューらしい。
「解しましょうか?」
「いえ、結構よ」
アイリスは銀貨を一枚渡した。
愛想よく接客していた娘の笑顔が驚きに崩れた。いや、珍しい客を遠目に見て飲んでいた男達も、その手と口を止め、酒場の中は静寂に包まれた。
銀貨はこの村を領有している国が発行した物で、特段珍しくはなかったが、この田舎の村では大層な価値がある。チップにしては多すぎた。
「それで、おばあさん続きは?」
「え、ええ……」
アイリスの羽振りの良さに面食らっていた老婆は、またポツポツと話し始めた。
「神に見守られて兄弟にまでなった二人でしたが、その友情は永遠では無かったのです。ダリアという貴族の娘を巡って、諍いが起きました。どちらの国も王子を止めたと言いますが、恋に狂った二人は人が変わったように凶暴になって、諫めた家臣を投獄したり処刑したりと手が付けられなくなったそうです」
「それから?」
アイリスは運ばれてきた料理には手も付けず、言った。
「周りの反対を押し切り、ついには決闘が行なわれました。どちらかが勝ち、どちらかは刺し殺されてしまったと言います」
老婆は見て来たかのように暗い面持ちで、視線をランプの火精に移した。
「そして、生き残った方が勝ち名乗りを上げて、血に濡れた手でダリアを抱いた時です。その様子をじっと見ていたピナータが、突然飢えた狼のような顔になって、恐ろしい魔獣へと変わったのです。生き残った王子は、その場でピナータに喰い殺されてしまったということです」
酒場の窓が風に吹かれてガタガタと鳴った。
老婆は何かに怯えた様に、明々と輝くランプに両手を添えた。
「その後はどちらの国も、ピナータによって滅ぼされてしまったと言います。バビロン神の前で立てた誓いをそのような形で破ったのですから、当然と言えば当然かもしれませんが……」
老婆はそっと顔を上げた。
「私が知っているのはだいたいこんな話ですが、良かったでしょうか……」
「十分よ。とても興味深い話だったわ。ありがとう」
アイリスは娘に渡した物と同じ銀貨を2枚テーブルに置いた。
そして、遠慮する老婆を他所に、まだ湯気が立っている魚にフォークを刺したところで、思い出したかのように、酒場の物影に溶け込むように座っている男に言った。
「タイガも食べる?」
「ん?ああ……」
何か物思いに耽っていた青年のために、丸々と太った魚を解して小皿に取りながら、アイリスは言った。
「その魔獣……ピナータはまだいるのかしら?」
「おりますとも。月が一番赤い頃、西の森にいると恐ろしい唸り声が聞こえて来る時があると言います。逆にセレナ様の月が昇る頃は、ひどく悲し気な遠吠えが聞こえるとも……」
それまで薄笑いを浮かべて聞いていた村人達も心当たりがあるのか、空気が固着したように動きを止めて、ある者は小さく揺れる瞳を老婆に向けていた。
「その妖精も魔獣なんぞになりたくはなかったでしょうに、気の毒な事です……」
老婆は祈るように目を伏せた。
雲に隠れた月はまだ顔を出していないのか、薄暗い店内で火精の明かりが作った影が、ゆらゆらと揺れていた。
一時の休憩の後、タイガとアイリスは愛馬に揺られ、東へと向かっていた。
「話が本当だとしたら、あの魔獣は何千年も独りで彷徨っているんだな」
「近づかなくて正解だったわね」
三日前、二人は西の森に入る前に、広大な廃墟とその周囲をうろつく巨大な狼のような魔獣を見ていたのだ。
そいつは痩せ細った体をしており、背中は骨が浮き上がって丸くなっていた。
くすんだ灰色の毛皮は艶が無く、酷く老いた印象だったが、気が狂っているかのようなギラギラした金色の眼で辺りを探りながら歩き、牙を剥きだした口元から泡と涎を垂らしていた。
背中から小さく伸びていた二つの毛の塊は、翼の名残りだったのかもしれない。
「楽にしてやるべきだったかな?」
「……いえ、バビロンの下僕というのなら、私達に出来る事はないでしょう」
――――可哀そうだけどね。
と、最後にアイリスが漏らした。
それ以降二人は押し黙り、馬の足音だけが魔界の野に響いて行った。




