鉱山への道
二匹の蝶が戯れるように森の木々の間を飛んで行く。
薄い羽は翅脈に分けられた区画ごとに違った色を持っており、さながらステンドグラスのようだ。
それが、青い月光を通して地面に虹色の光を写している。
ナナイロウスバと呼ばれる蝶である。
生ける宝石の如く美しい羽を持つ虫であったが、これを追いかけて、気がついた時には樹海に迷い込んでいたり、危険な魔獣に遭遇した、という逸話がある。
この事から、死神の蝶などという二つ名を持っていた。
それが十数羽の群で、ピンク色の結晶に集っている。
塩の花である。花と言っても植物ではなく、地表に露出した岩塩だ。
赤、青、紫、ピンク……色とりどりの結晶を昔の人々は花に例えたのである。
ナナイロウスバは塩が溶け出した露を舐めに集まっているのだった。
塩の花は人々も利用するが、野生動物の貴重な塩分補給源でもある。蝶意外にも鹿など様々な生き物が、争う事なく塩を舐めている。
中でも一際大きな茶色の獣は、ノームガウルというウシの仲間である。
角は無く、尻尾は二股で、顎の弛んだ皮から生えた髭は、地面に届きそうだ。
遠目には土の塊のように見えるが、それは全身を包む茶色の体毛と、大きく盛り上がった背中の瘤のせいだった。
バイコーンやスイギュウほどではないが、人々の生活にも関わっている動物であり、肉は臭みがあって好まれないが、畑仕事や急ぎでない荷物を運ぶのに使われる。
温厚な性質で、体毛の中に小さな鳥が入り込んで勝手に一時の寝床にしても、気にせず分厚い舌でピンク色の塩の結晶を舐めている。
タイガとアイリスは手頃な岩に腰を下ろし、動物たちを眺めていた。
王国を出て、金鉱山に向かうために来た道を戻り二時間ほど。
ハヤテが山道の途中で塩の花を見つけて舐め始めたため、しばし休憩しているのだった。
青黒いバイコーンは野性動物達の中で特に邪険にされる様子も無かった。
普通、野の獣は捕食目的意外では、同族であっても家畜に近づかないものだが、もしかするとそれは、ハヤテが獣の神であるセレナ神の加護を受けた馬だからなのかもしれない。
「アイリス。俺は正直言って気が乗らない」
「私もよ」
幼な妻はそう言いつつ、手にしていたパンを一口齧り、おっ?という顔をして、半分に割った。
これはコキュートス海の島国で常食されているクルタバという揚げパンだ。
それぞれの国や地方で特色があり、チーズやシチューが入っている物やスパイスの効いたペーストが入っている物等様々だが、二人がミダス王国から出る時に屋台で買った物には、豚肉のミンチと香味野菜とキノコを炒めた物が入っていた。
加えて、スープをしっかりと吸った霞麺――――米や豆から作る裁縫針より細い極細麺――――がジューシーさを演出している。
そして、頬が痺れるような微かな苦みはククル草という薬味だろう。
恐ろしく苦いが、隠し味として少量入れる事で、味に深みが出るのだ。
魔界各地の料理を食べ歩いて来たアイリスも満足する、通好みの一品だった。
「その守護神を産む宝。魅了の魔術がかかっているんじゃないかしら」
「俺達が使うようなやつか?」
タイガの瞳が紫色の光を帯びた。
この夫婦は淫魔族なのだ。
多くの淫魔族は戦いに向かないが、相手の判断力を低下させる、催眠術の類を生来身につけている。
「それで、あんな怪しい話を信じてるのか?」
「いえ、本当にただ馬鹿なだけかも知れないけど」
「……思ったんだがな」
タイガは少し間を置いて言った。
彼はどちらかと言えば無口な性質だが、二つ下の妻に対しては普通の夫婦同様に話すのだ。
「その宝玉に本当に魅了の魔力があったとすると、だ。それを持っていた敵国の支配者達もその宝に狂わされていた、って可能性があるよな」
「…………」
「どうした?」
「いや、あんたもそんな小難しい事考えるようになったんだなぁ、って」
タイガは露骨に嫌そうな顔をした。
「茶化すなよ」
「茶化してないわよ。成長したね、って言ってるんじゃない」
アイリスは笑った。
そして、この花のような笑顔を見ていると、旅の最中で一時も緊張を解かないタイガも、心がほぐれていくような気分になるのだ。
「まあ、考えてもしょうがないわ」
アイリスはクルタバの最後の一欠けを口に入れると、立ち上がって尻を軽くはたいた。
それを見てタイガも立ち上がり、ハヤテのもとに行くと手綱を引っ張った。
二人は特段急ぐわけでもなく、馬の歩みに任せて進んで行く。
やがて、山間の細道を抜け、雑木林の間を通り、最初に兵士と虫に遭遇した場所にやって来た。
兵士の死体は仲間達が幌布に包んで持ち帰ったが、虫達の死体はまだそのまま残っていた。
流石に死肉を漁る野生動物も、金属の体には歯が立たないのだろう。エルドラ・ゴールドサッカーは、普通の鉄と同じく、死後長い年月をかけて土中の細菌によって分解されて土に還るのである。
二人はそこに残っていた馬車の轍に沿って進んで行くと、山道の途中で看板を見つけた。
その一帯が金鉱山の作業場であった。
この辺りには魔獣や悪精の類がいないのか、並べられた簡易な柵には忌避剤を入れる箱なども無ければ、護符も仕掛けられていなかった。
作業場とは言うが、労働者の生活用の家屋やバイコーンを繋ぐ馬小屋などもあり、一見すると小さな村のようにも見える。
入口付近には運送用のバイコーンに水をやる馬ぶねや、鉱石を運ぶためであろうトロッコのレールがあり、至る所に火が入っていないオイル式ランプが吊るされていたが、雨と土埃で汚れ切っていて、手入れされていないのは明白だった。
二人は手近な建物を覗いてみた。
そこは作業員の食堂だったのだろうが、虫達が出た時に人々は慌てて逃げたらしく、床にはひっくり返った椅子や、割れた皿が散乱し、テーブルには干乾びたり腐ったりした食べ物が残っていた。
ここは、この辺りでも一番大きな金鉱山だったが、虫達に襲われて以降、開けないでいるという。
ハヤテをペンダントにしまい、二人はそろそろと歩き出した。
いつ虫達が物影から襲って来てもいいように身構えての前進だったが、結局標的が見つかったのは鉱山の入口であった。
「いるわね。ざっと見て十二匹……」
鉱山から一番近い道具倉庫の影に隠れ、遠見鏡を目に当てて、アイリスは呟いた。
虫達は何をするでもなく、頭の触角や口の髭のような器官を動かしている。その場から動かずいると精巧なオブジェのようだった。
「……あっちにも、八匹だな」
別の方向を見ていたタイガが言った。
「全部で何匹いるかだな。何百といるなら流石に骨が折れるが……」
「……根絶やしにするのは無理だと思うけどね」
アイリスは風に揺れる髪を押さえながら言った。
「ファブルっていう昆虫学者が、奴らの生態を調べて記録してるんだけど……」
「ほう」
タイガは相変わらず遠見鏡を見ながら、相槌を打った。
「それによると、エルドラ・ゴールドサッカーにはおそらく性別は無く、十分な栄養……すなわち金を摂取した場合や、夏の頃に地中に卵を産んで増えるらしいわ」
「なるほど……」
タイガは感心したように頷いたが、内心では、そんなどうでもいい事までよく覚えているものだ、と考えていた。
淫魔は運命の相手を探して旅をする種族だが、それは十分成長してからの話である。
アイリスは幼い頃から大人達のいう事も聞かずに勝手に旅に出ていたため、同じ年頃の淫魔より遥かに経験が豊富だった。
そして、読んだ本の内容はだいたい覚えている、と本人が言うように、どこで役に立つかわからないような知識もスラスラと出てくるのだ。
「……つまり見えている奴等だけ倒しても、卵を潰さないとまた増えてくるわけだ」
「ええ、でも常識的に考えて無理でしょ。ここら一帯を丸ごと掘り返しでもしないと……」
「どうするんだ……もう報酬も受け取っただろう」
「まぁ、いいんじゃない?とりあえず地上にいる奴だけ倒せば。卵まで見つけて潰せなんて言われてないんだし」
やれやれ、と溜息を吐いたタイガは、手の中に槍を呼び出した。
そして、後ろから近づいていた人影に向けた。
「何者だ」
相手は一人であった。
外套で顔まで隠れているため、表情は窺えないが、足が縺れかけており明らかに動揺を見て取れた。
「……誰?」
アイリスは小首を傾げてそれだけ言った。
長く旅を続けていれば、他人の恨みを買う事もあるが、初めて踏んだこの地まで――――それも一人で追いかけてくる輩となると、心当たりがなかったのだ。
「私です……」
若い女性の声質だ。
二人はそれに覚えがなかったが、外套の下の正体を見て、流石に驚いた。
そこにいたのは、言葉こそ交わさなかったものの、城の庭で顔を合わせていた王女・アニマだったのだ。
いまはドレスではなくブラウスとズボンにブーツという、軽く乗馬でもするような服装であった。
「虫達を狩るのを止めていただけませんか」
出し抜けにアニマはそう言った。
「父が出した分と、同じだけの謝礼を支払います」
そう言って、アニマは小さな袋を差し出した。
アイリスが開くと、青い石の中に潜む蛇の瞳と眼が合った。
「なぜこんな事をする」
タイガが低い声で言った。
「…………」
王女は何か言おうとしたが、下を向いて黙ってしまった。
「とりあえず……」
アイリスは渡されたばかりの袋をアニマの手に返し、言った。
「話を聞かせてくれる?」




