ミダス王
かつて、コキュートス海に浮かぶ島に、エルドラという国があった。
黄金郷とも称されたその国では大量に金が採れた。それこそ、適当に山を掘れば金脈にぶつかるほどだったという。
その財力を背景に、強大な国家へと成長したエルドラの人々は、次第に増長していった。
そして、ついに創世の魔神達の王・バビロンへの挑戦を表明し、その怒りを買ってしまう事になる。
バビロンは自分の息子、イグニスに命じて金を喰らう虫を創らせ、エルドラに放った。
神の使い達はエルドラの金を喰い尽くし、黄金郷は滅んだ。
その後も、この地で金を掘り過ぎると、どこからともなくこの虫達が現れると言う。
アルフォンソ・アトリー著 魔界見聞録2より抜粋
魔界の黄昏時、姉弟の月が入れ替わる合間の、空が紫色に染まる頃――――。
応急処置をした馬車の後ろをのんびりとついて行き、タイガ達はミダス王国に辿り着いた。
国と呼ばれる物はどこもそうだが、高い城壁が伸びている。
その中で黄金の光が煌々と輝き、空に掛かる雲を染めているのが、かなり遠くからでもわかった。
門では大規模な検問が行われていたが、兵士達が口を利いてくれたおかげで、苦労もなく入国できた。
なんでも、ぜひ王様に会って欲しいとの事で、二人は特段に断る理由もないため、とりあえず話を聞いてみようという流れになったのだ。
ミダス王国の道は白い石を使って舗装され、街並みは整然としていた。
食べ物を出している屋台以外に露店は見当たらず、通りに面した商店は扉や看板からして洒落ている。そして、街角には常に二、三名の兵士が立っていて、治安も良さそうだった。
美しい国だ。少なくとも表向きは。
タイガとアイリスは特段顔には出さなかったが、そう思った。
多くの都市は、大通りは観光客向けに体裁を繕っていても、一歩内側に踏み込めばスラム街になっている場合も少なくないのだ。
国の中心を通る大きな道は混雑していたが、助けた兵士達に引率されてタイガ達の馬は楽に進めていた。
そして、いくらかも行かないうちに、二人はある事に気がついた。
城へ向かう人の流れのほとんどが商人達だ。種族も、おそらく出身も様々だが、それらは皆が金の延べ棒や、金製品を運んでいるのだ。
「運んでいるのは金ばかりだわ……どういう事かしら……」
怪訝な顔をするアイリスの横を、金の女神像――――美の女神・シャーラの像が通り過ぎていった。
「さあな。もしかすると、ここの支配者は枕まで金にしなければ気が済まない阿呆かもしれんぞ」
大して興味も無さそうに、タイガは言った。
流石に兵士達は嫌な顔をしたが、彼の手並みを見ているせいか、それとも他に理由があるのか、咎める者はいなかった。
「まさか、独占しようとしているのかしら」
「無謀だろう。魔界にどれだけ金があると思っているんだ」
タイガは瞼の上から眼を揉み解した。
彼にとって、黄金の輝きは心を動かす物ではないらしく、それどころかどちらを向いてもその華美な光が眼を刺すために辟易としているようだった。
そして、もう一つ気付いた事がある。
路地には多くの市民がいたが、商人や金を運ぶ兵士達を見る彼らの眼が、どこか恨めしげなのだ。
彼らは決して貧しいようには見えない。
通りは清掃が行き届いており、ボロを纏って路上で生活している者や、あるいは搾取されて骨と皮だけになって生きているような者も見当たらないのだが、人々の顔に、どこか影があるのだ。
それが、表面上の栄華と比較して、不気味な物を感じさせた。
やがて、彼らは町の中心の王城までやって来た。
そこでは城の塀を囲むように、白いテントがずらりと並び、商人達が列を成していた。
彼らは簡素なテーブルを挟み、目利きのできるらしい職員となにか交渉していたが、やがて、金の神像やら燭台やらを引き取った兵士が、商人が出した袋にルビーを入れていた。
彼らの目的はこれらしい。
それにしても、渡すルビーの量が多すぎる。
アイリスが見積もったところでは、引き取った金のニ倍近い価値のルビーを渡していた。
まさか、正しい相場がわからないわけではあるまいが、ともかく、利に目聡い商人達はここの噂を聞きつけ、持って来れるだけの金を掻き集めて、魔界中から砂糖に群がる蟻のように押し寄せたのだ。
金鉱石を運ぶ馬車と別れ、タイガ達は城門を潜った。
眼前に広がったのは、白や黒の石像が並ぶ広大な庭とその奥に聳え立つ豪奢な城――――。
だがそれよりも、庭の端で赤々と燃える炉と、その上に乗っている巨大な釜に意識が向いたのは当然であった。
「失礼。ここで少々お待ちください」
タイガ達を案内してきた兵士が、一言残して駆けて行く。
そして釜の前に立っていた背の高い男に慇懃に頭を下げ、一言二言なにか話すと、横で待機している騎士達の列に加わった。
その男は早足気味にタイガ達に近づきながら、ニッ、と歯を見せて笑うと、両手を広げて言った。
「ようこそ!我が王国へ!」
「あなたが王様?」
アイリスは怪訝な顔をした。
「いかにも、私がこの国を統べる二代目ミダス王だ!」
王はアイリスの手を両手で握り、せかせかと握手する。隣のタイガにも同じようにした。
支配者らしい傲岸さとは無縁の、良く言えば親しみやすい王、という事になるだろう。
だが、アイリスは心のどこかで、説明の難しい不自然さを感じていた。
そして、改めて観察するに、この男は王族らしい装飾をなにも着けていない――――王冠も被っていなかった。
強いて言うなら彫りの深い顔と、その下半分を覆うたっぷりとした髭が、僅かに威厳を保つのみだ。
――――まあ、王冠を嫌う支配者は他にもいる……。
そんな事を考えながら、少し離れた場所に立っている人影に眼をやった。
メイドを従えたドレス姿の女性が、王とアイリス達を――――いや、タイガを面白くなさそうに見ていた。
が、アイリスと眼が合うと会釈もせずにどこかへ行ってしまった。
「失礼した。あれは一人娘のアニマと言うのだが、どうも気難しい年頃でな……」
ミダス王は髭を撫でながらそう言ったが、声音からも表情からも、それほど苦労しているようには見えなかった。
アイリスがそこに感じたのは、どちらかと言えば他人事のような関心の薄さだ。
「これ、なにをやっているの?」
気を取り直して、アイリスは気になっていた事を聞いた。
これ、とはもちろん巨大な釜の事である。
ミダス王は、よくぞ聞いたと言わんばかりに、口元を再び笑みで歪めて言った。
「これはな、守護神を創ろうとしているのだ。この国に永劫の繁栄を齎す守護神を……」
「守護神?」
いかにも胡散臭い、といった感じでアイリスはその言葉を口にした。
「かつて……と言ってもほんの五年ほど前だが、この地にはもう一つ国があった」
ミダス王は話し始めた。
曰はく、この島にはミダス国の他にもう一つ大きな国があり、長らく敵対し、戦火を交えていたのだと言う。
しかし、先代ミダス王の半生二百年、現ミダス王がさらに百年もの時を費やして遂に戦いを終わらせた。
そして、滅ぼした国の宝物庫の中に、それはあった。
金の網細工に包まれた、人の背丈ほどもある、巨大な赤い宝珠。
これを大量の金とともに煮詰めていけば黄金の守護神が誕生し、その国に永遠の繁栄を約束する――――。
と、一緒に発見された書物に記されていたらしい。
つまり、いま行われているのはその黄金の守護神を創造するための工程なのだ。
「この地では金がいくらでも採れる。おそらく奴等は守護神を生み出すため、大量の金を得るのに我々が邪魔だったのだろう」
「なるほど……」
歴史は勝者が創る物である。
それを理解しているアイリスは、幾分か距離を置いて話を聞いていた。
タイガは聞いていたのかもわからないほど、なんの感情も顔に浮かべていなかった。
「それを!あの忌々しい虫共が邪魔をしているのだ!」
王は太い血管が浮かんだ手を握り締めた。
眼には狂的な光が浮かび、血が出んばかりに歯を喰い締めている。
先程まで嬉々として話していたのが、まるで人が変わったようだ。
なにかの病気だろうか、とアイリスは内心で密かに警戒した。
不思議な物で――――それとも、立場上目立つだけなのか、庶民よりずっと裕福で高度な医療を受けられるはずの王侯貴族が、乱心したり奇病に罹る事例は古今東西後を絶たない。
いくらかは呪いが原因だったり、精神を破綻させるような毒を盛られていたりもするのだろう。
だがそれ以外は、課せられた責務や重圧に耐えかねて、心身が摩耗した結果――――というのが通説だ。
たった一人が数千、数万の生活と命を背負うなどというのは、並大抵の事ではないのであろう。
――――こいつの場合、原因は簡単に予想がつくけどね……。
アイリスは黄金を煮詰める釜を見上げた。
釜の上では足場が組まれており、舵輪を横にしたような装置に上半身裸の屈強な男達が取りつき、絶えず取っ手を押し続けている。
地上からは見えないが、装置に繋がった攪拌棒は、釜の中で溶けた黄金をかき混ぜているはずだ。
「そなたは虫の群れを造作もなく蹴散らしたと聞いた。奴等を片づけてくれるのであれば、相応以上の見返りを与えようぞ!」
王がそう言った丁度その時、頬の皮が弛んだ男が、皮の袋と小さな金属の笛をトレイに載せて恭しく運んで来た。
善人そうな顔つきで、揺り椅子に座って孫の相手をしているのが似合いそうな老人だったが、その眼には怯えとも苦悩とも受け取れる揺らぎがあった。
まるで、これからとんでもない罪を犯そうとして、自責の念に駆られているような、そんな顔だ。
ミダス王は何も言わずに袋を掴み取ると、タイガに差し出した。
「…………」
タイガは黙って受け取ったものの、中身も見ずにアイリスに渡した。
袋越しに、硬い感触がある。
紐を解いて中を見ると、滅多に驚かないアイリスが、目を丸くした。
それは、深く青い輝きを持つ大ぶりな宝石だった。
おそらく、多くの人々が生涯手に取ることもできないであろう見事な一品だが、アイリスが驚いたのはその大きさではなかった。
「これって……もしかして、スネーク・アイ・サファイア!?」
その名の通り、蛇の眼のような模様が入ったサファイアで、大変な宝だ。
例えば、いまの状況とは逆にどこかの国の王にこれを渡せば、豪奢な屋敷とともに、一生働かずとも暮らせる金を得られるだろう。
市井にあれば、これ一つを巡って何人の命が消えるかわからない。
そんな物を、王は子供の小遣いかなにかのように差し出したのである。
宝石を持って来た老人は、王の暴挙と言ってもいい行為を前にして震えているようだった。
少し離れて成り行きを見ていた親衛隊達も、あえて眼に入れないつもりか、どこか遠くを見ているようだ。
「それと、この笛はあの虫の喉から取り出した器官を加工したものでな。吹けば仲間を呼び寄せる音が出る。上手く使ってくれ」
「…………」
自分の顔を歪めて映す笛を、タイガはコートのポケットに無言で突っ込んだ。
「これ、ほんとに貰っていいの?後で返せって言われても返さないわよ?」
サファイアを手にしたアイリスが、軽いショックを引き摺りながら聞いた。
王は鼻息を一つ鳴らした。
「金以外はどうでもよいわ!それに、この大事が成れば、永遠の富が約束されるのだ!」
そう言って、夢見るような視線を大釜に注いだ。
もう客人の事など忘れてしまったかのように。彼の頭の中には、自分と釜の中に息づいているらしい守護神しか存在していないのかもしれない。
二人はこの国の現状が全て理解できた。
城の外では、絶える事のない喧騒が聞こえて来る。
こうしている間にも、商人達は金を運んでくるし、国のどこかでは鉱石から純金が精製されているのだろう。
二人は大釜の縁から零れる黄金の光を眺めながら、かつて傲慢さゆえに神の怒りを買った黄金郷の伝説を思い出していた。




