砂漠行・2
まだほんの二百年から三百年ほどのこと。
バビロニアの北部は死霊王を倒した騎士王がまとめ上げ、西部は代替わりした魔王が善政を敷いた。
東の大和の国はそれよりもかなり昔に平定され、現在も表向きは争いが起こっていない。
バビロニアの歴史の中でも極めて稀な、平和な時代の到来。
多くの民はそれを歓迎していた。
魔界が誕生してから、幾星霜――――。
そこに住む生命は緩やかに衰退しているという。
かつて、デーモンたちは強大な魔力を操って自然の法則を捻じ曲げ、オーガは無尽蔵と錯覚するほどの生命力と膂力を誇っていた。
それらは絶えることなき戦火の中で、永遠に洗練され続けるはずであった。
だが、現在の魔界を見渡せば、碌に魔法は使えず、飛ぶ力さえも失い翼は飾りと化したデーモン。たった一日の畑仕事にも音を上げるオーガの若者――――そんな者たちばかりだ。
いつから衰退が始まったのか、何が原因なのかはわからない。
一説では、記録に残らないほどの昔に魔界の全てを巻き込む戦争が勃発し、有力な者たちが死に絶え、現在の魔界の住人たちは戦争に参加できなかった劣等種の子孫だという。
あるいは、文明が齎す利便性が彼らに本来備わっていた力を奪っているのだと主張する研究者もいる。
だが、学者たちがいかに騒ごうと、力なき者にとっては種全体の弱体化などよりも、とりあえず目先の戦火に晒されないことの方が遥かに重要であり、各地の支配者の庇護の下、バビロニア大陸では急速な法治化が進んでいた。
しかし、そんな平和を享受できない者たちもいた。
野望を胸に秘める者や、戦いを生きがいとする者。あるいは前時代に悪逆の限りを尽くした犯罪者や、権力を濫用した末に自身が断罪される身にまわった元役人等は、未だ有力な支配者が現れず、混乱の只中にある南部に流れ込んだ。
そのせいで、南部は元から悪かった治安がさらに悪化してしまった。
にもかかわらず、この地を旅しようという者は後を絶たなかった。
南部の砂漠は未知の部分が多く、研究者や冒険家が世紀の発見を夢見て危険な賭けに出るのだ。
また、バビロニアの胃袋と呼ばれる危険地帯を越えた先に建つエフリット神殿には、神託を貰おうと魔界中から人が押し寄せる。
それ以外にも、独特の文化や魔術に魅入られた者。この地方にしかない芸術品や工芸品を求める商人。もちろん、先に述べた犯罪者たちも――――そういった人々でごった返し、南部は他の地方とは違う類の活力に満ちていた。
赤い月が西の地平線に隠れ始め、反対から青い月が顔を出し始めた頃――――。
タイガたちは南部に入って初めに辿り着いたオアシスを一通り見て回った。
大和の国に一番近い町ということもあって旅人も多いが、なにより商人の姿が多い。
主な取引はこの地方でしか栽培されていない作物や、独自の文化が生んだ工芸品。中でも南部の特産品として外せないのは、巨大な絨毯だ。
それぞれの職人が時に数年かけて作り出す、文字道理に命を削り、心血を注いだ芸術品。完全に同じ作品は二つとない、掛け値なしの一点物だ。
最近では大和の国の富豪に人気があるらしく、海を渡った異国にも宝物同然の扱いで輸出されているらしい。
買い手は少しでも安く買おうと、そして売り手はいかにふっかけるかに血眼だった。
タイガたちにも何人かの商人が声をかけてきたが、アイリスは丁寧に断った。
相場もわからずにこういった輩を相手するのは危険だ。
そもそも、絨毯なんて旅の役に立たない物を持ち歩く気もない。
トラベラーポーチは無生物を縮小して運べる便利な魔道具だが、それでも容量には限りがある。
他に普通の町と違うのは、フタコブスイギュウがあちこちにいることか。
粗食や過酷な環境に耐えるうえに大量のミルクが取れるスイギュウは、南部では他の地方以上に重要な家畜なのだ。
あちらこちらで自家製のヨーグルトやチーズを売っていることからも――――これらは競い合うように安価だ――――その影響が伺える。
雑多なバザーをスリに気を付けながら見回った二人は、大通りに面した場所に手頃な宿を見つけて一息ついたのだった。
「大和の国から来られたのですか?」
水とおしぼりを運んできた女性従業員が尋ねた。
褐色肌に混じり気のないプラチナブロンドの髪――――この地で発祥したサンドオーガには、この女性のように髪が生まれつき白い者と黒髪の者がいて、それぞれ起源が違うらしい。
「ここの暑さは堪えるでしょう」
「ん……まあ、暑いわね。他所と比べれば」
アイリスは愛想良く笑った。
「あら、お二人とも汗を掻いていらっしゃいませんね」
アイリスはもちろん、蔦を編み込んで作った長椅子にどっかりと座っているタイガも、汗で髪が額に張り付いている、というようなことはなかった。
「私たち、暑さには強いのよ。火の中に飛び込んでも平気だから」
「まあ……でも熱中症にはお気を付けください。症状を自覚した時には、自分ではどうすることもできなくなっている場合も多いと言いますから」
従業員は柔和な笑みを返し、部屋から出て行った。
「さて、お風呂入ろーっと」
アイリスはタイガを置いて、足取りも軽く浴室に向かった。
石造りの大きな浴槽と、その隣に小さなため池のようなスペース。これはかけ湯を取るための場所だ。
アイリスは浴槽に入れた指先を舐めた。
真水だ。
場所によっては塩分が濃い湧き水を生活水として使っている地域もあるというが、ここは大丈夫らしい。
湯加減は温いが、この地方の暑さを考えれば、普通に焚いた湯に入ると体に負担がかかるのだろう。
風呂が好きなアイリスにとって浴室が貧相なのは許し難いが、水が貴重な南部で贅沢は言えまい。
たっぷりと使えるだけでも僥倖といったところだ。
牛乳を使った甘い香りの石鹸を泡立てて体を洗い、鼻歌を歌いながら浴室に入ると、その背中から普段は隠している翼を広げた。
レザーのように光沢を持つ、巨大な蝙蝠のような羽はデーモン系種族の特徴だ。
アイリスはデーモンの一種、淫魔なのだ。
淫魔というのは非常に非力にもかかわらず、自身の運命の相手を求めて、世界中を旅するという習わしがある。
その過程で様々な知識を身につけ、結婚後は夫を助けるのだ。
アイリスも例外ではなく、若いながらもこの娘は旅の達人であった。
ぬるま湯を暫く楽しんだ後、風呂をタイガに譲り、アイリスはバスタオル一枚を体に巻いて、夫が座っていた編み椅子に腰かけ、窓から外を眺めた。
湿った髪に手櫛をかけながら、青い月が世界を染めていくのを眺めていると、急にかん高い騒ぎ声が無数に重なって沸いた。
目の前の路地を見ると、ターバンを巻いた子供たちがじゃれあいながら走っていく。そのうちの一人が何も無い所で勢いよく転んだが、すぐに立ち上がると、また満面の笑顔で友達の背中を追いかけていった。
アイリスの口元に微笑が浮かんだ。
どれだけ気候が厳しくても、あの子供たちから無邪気さまでは奪えないらしい。
かみ合わせの悪い引き戸が身を削りながら動く音を聞き、アイリスは振り向いた。
「上がったぞ。砂漠は水不足ってイメージだったが、結構贅沢に使えるんだな」
上半身裸で出て来たタイガは、テーブルの上のピッチャーを傾けた。
欠片ほどになった氷と一緒に、水を一息で呷ると、生乾きの首元や筋肉が浮かび上がった胸を手のひらで撫でた。
不思議なことに、体にはまだずいぶん水滴が浮かんでいたというのに、どれだけ払われても床に雫が散ることはなかった。
見れば、アイリスも――――指を通していただけだというのに、もう髪の一本ずつが軽やかにそよ風に舞っている。
「何を見ているんだ?」
「別に……少しぼーっとしてただけよ」
「……あの子供、さっき絨毯編んでた奴だな」
ホテルの前の通りを、先ほどとは別の子供のグループが楽し気に歩いていく。
その中の一人は絨毯職人の見習いらしく、入口が吹きさらしになった店の奥で、図面を前に黙々と手を動かしているのを二人は目撃していた。
「町の中は案外平和なんだな」
タイガはびっしりと汗を掻いたグラスにまた水を注いで口をつけた。
「ここはまだ大和の国に近いからね。比較的治安がいいみたい。でも南部を進めば、オアシスが丸ごと犯罪組織の支配下ってところもあるって聞くわ」
アイリスは顔を曇らせた。
そういった場所では、子供は徹底的に搾取される対象であり、その地獄から逃れるためには自分が搾取する側に回らなければいけない。救いの無い悪循環だ。
バビロニアの治安が良くなってきたと言っても、南部や魔界全体で見れば、未だ血で血を洗う弱肉強食の世界――――弱い者は強い者に何をされても文句は言えないのだ。
「……戻るか?」
「…………まさか」
アイリスは軽く笑った。
「魔界中を見て回るって約束でしょ?」
タイガも無言で優しい笑みを浮かべて、朱色の眼を見つめた。
――――いつからかな。
アイリスは考えた。
出会ったばかりの頃のタイガは、脳みそまで筋肉でできているのかというほど単純で、
――――ああ、バカなんだな。
と一度ならず思ったものだ。
彼と同じ指輪に指を通して、一、二年はまだそんな調子だった気がする。
だが、旅を続けていろんなものを見るうちに、タイガはいつからか言葉少なになり、ずいぶんと冷静に物事を考えるようになった。
彼の父や、両祖父がそういうタイプなので、受け継がれた気性なのかもしれない。
そして、自分に向ける眼差しも、柔らかな慈愛に満ちたものへと変わっていった。
アイリスは気づかずに熱の籠った溜息を吐いた。
タイガに見つめられていると、腹の奥がほっこりと暖かくなり、力が抜けて来る――――。
思考は紡げなくなり、浅い微睡に漂うようだ……。
淫魔というのは恋人との繋がりによって、生涯その若さと美貌を保つという他の種族にはない特徴がある。
そのため、相手が離れて行かないように魅了する術を生来身につけているのだが、それは時として自分自身にも回る甘い毒であった。
タイガが窓を閉める音に、アイリスは僅かに気を持ち直した。
閉め切った部屋には外からの一切の光が入らなくなり、バザーの客引きの声も聞こえない。
明かりはテーブルの上のランプのみ――――その中にはゴマ粒のような可愛らしい目を持つ火の精霊が、静かで温かな光を放っている。
タイガはアイリスが体に巻いていたタオルを剥ぎ取った。
幼な妻は小さな声を上げただけで、体を隠すようなことはしなかった。
筋肉質な腕が一回り小さな体を引き寄せてキスをした。
一度唇が離れた時、アイリスの眼はトロリとした膜が張ったように潤んで、二度目の口づけは背伸びしながら自ら求めた。
暗闇の中、彼女の瞳の赤がぼんやりと薄くなったかと思うと、妖しい紫に変化した。
下腹部にはハートに蔓草が絡んだような、美しく複雑な意匠の紋様が浮かぶ。
それは彼女が淫魔である証――――。
紋様は薄桃色から青紫に周期的に変化していく。
やがて、うっとりと目を細めてキスを続けるアイリスの体から、湯気よりも濃い白色のオーラが溢れ出した。
これは、淫魔が幸せな恋をしている時に発散される、と彼女たちの間で伝えられるオーラだ。
その幻想的なベールは愛を交わしている恋人にも纏わりつき、タイガの頭にも薄靄がかかってきた。
淫魔の求愛行動に伴う魅了術は、最愛の相手を満たすのに必要な感情以外を、悉く覆い隠してしまうのだ。
気づくと、タイガの瞳も紫に光り、白いオーラに全身が包まれていた。
狭い室内に火精が浮かび上がらせた影は再び離れ、同時に熱い溜息を吐くと、気怠そうに眼を伏せた。
焼けつくような砂漠を歩いても平気だった二人は、いまや熱に浮かされ、しっとりと汗を掻き始めている。
部屋には花の一本もなく、香も焚いていないが、心を溶かすような甘い香りが漂っていた。
淫魔というのは、その体臭までが恋人の好みに合わせた香りに変化するのである。
「……ベッド……行こ?」
タイガは足を擦り合わせながら切なげに囁いたアイリスを抱き上げた。
逞しい腕に抱かれた妻は、しおらしく頭を夫の胸にくっつけ、頬を染めている。
二つの影は綺麗に整えられたベッドに重なって、そのまま沈んでいった。