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Succubus Honeymoon~魔界旅行記~  作者: 晦
砂漠の花
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復活

 ゲーチスはザガンに叱責されて走り出してから、いくらもしないうちに顎は上がり、足の筋肉は引き攣りそうになっていた。

 もともと、運動や肉体労働には向かない男である。

 それでも、命令されれば躊躇わず従う姿は、天晴あっぱれな忠臣ぶりと言えよう。

 ゲーチスは城の最深部――――研究室の前を通り過ぎた先、行き止まりにある一際大きな扉の前で崩れ落ちるように床に手を突いた。

 全身が雨でも受けたのかというほど汗に濡れて、息は一向に整わなかった。

 それでも縋るように扉に近づき、取っ手をニ度三度、押したり引いたりしたがビクともしない。

 逃げた二人はここには来ていないらしい。

 ゲーチスは白衣の裾で汗を拭い、燃え尽きたように放心していた。

 ――――そう、ここにリーバがいるのね。

 至近距離で聞こえた女の声に、小さく息を吸うような悲鳴を漏らした刹那、ゲーチスは頭を何かで殴られ、白目を剥いてあっさりと昏倒した。

「案内どうも」

 姿を現したのは髪を長く伸ばした淫魔の女だ。

 もちろん傍らには赤麗姫がついている。

 アイリスは顔も、その他の肌も透き通るように白く、元来の美貌を何も損なってはいなかった。

 ついさきほど、炎に包まれたのが嘘であったかのようだ。

 淫魔というのは恋人の精気を吸って生きるが、その時に相手の生まれつき備わった能力を、極めて限定的ではあるがコピーするのだ。

 アイリスが使う炎はタイガの血脈に受け継がれるものであり、これは使い手同士を傷つけることがないという特徴があった。

 アジールの砂地獄から救出された時、タイガの起こした爆炎の中に居ながら火傷一つ負わなかったのも、ザガンが弾き飛ばした火が、拘束具のみを焼いて彼女を解き放ったのも、この炎の特性に寄るものだったのだ。

 そして、アイリスたちは姿を消して逃げたと見せかけて、ゲーチスの後をこっそりと追って来た。

 自分たちを探すとすれば、まずはリーバの居場所を確認しに行くだろう、と読んだのだ。

「でも、鍵がかかってる……」

「そうね。それに、無理に開けようとすると罠が発動するみたいね」

 扉から少なくない魔力を感じ取ったアイリスが言った。

 罠、と聞いた赤麗姫が不安そうな顔をした。

「大丈夫、たぶん鍵はこいつが持ってるわ」

 アイリスはゲーチスの白衣のポケットを探り出した。

「こいつ、ザガンの腹心みたいだけど、どう見ても荒事に向いてなさそうだし。それにあいつと同じで薬臭いから、たぶん錬金術の助手かなんかでしょ」

 果たして、鍵は見つかり、錠と一致した。

 重い扉を開いた先には、耐震固定された棚が整然と並んでいた。

 その内の一つを覗いたアイリスは感嘆の声を漏らし、赤麗姫は何が並んでいるのかわからないようだったが、初めて見る品々に小さく口を開けたまま言葉を忘れた。

 それぞれの棚には強力な力を持つ魔道具や希少な素材が、持ち主の几帳面さを感じさせるほど整然と収められていた。

 氷の精霊の魔力が結晶化した宝石、グラキエスの涙。

 一見すると玩具の数珠玉ビーズのような物が、護符を張られた瓶の中に詰まっているが、これは強い電気に惹かれる精霊や魔獣を誘い出すための餌であり、人工的に作る技術が確立されておらず、市場ではとんでもない値段がつく。

 四角いガラスの容器の中に液体と共に封じられているのはバジリスクの毒腺か。本体が死した後も、数十年に渡って空気中に毒が放出されるため、特殊な保存液に入れて保管するのだ。

 他にも、古代生物の化石や虫が入った琥珀こはく。何かの牙や、瞳を加工した物。地盤ごと切り出された鉱物、魔術儀式に使われる香料など――――。

 一般的な金銀財宝のイメージとは違うが、見る物が見れば、それ以上の宝の山だった。

 敵の本拠地ということを一時失念し、二人は珍品を観覧しながら進んだが、部屋の奥が見えた時、赤麗姫の口から悲鳴のような叫びが漏れた。

「リーバ!」

 ガラスの瓶の中、満たされた液体の中にあるのは、主人と同じくまだ幼いと言ってもいい顔立ちをした少年の首だった。

 いっしょに並んでいる無数の瓶には、内臓や、中身を取り出されて空っぽになった身体が収められ、この宝物庫の悪趣味な装飾となっていた。

 ザガンはリーバの復活の仕組みを確認する前に、好奇心に負けて少年を解剖かいぼうしてしまったのだ。

「なんてことを……」

 アイリスも言葉を失くし、自分以上に衝撃を受けているであろう赤麗姫を気遣おうとした。

 だが、隣に居た少女はつかつかとガラス瓶に近づくと、躊躇いなく床に叩きつけて中身を床にぶちまけた。

 そして、嘔吐えずくような臭いの保存液から、リーバの首を抱き上げた。

「姫!」

 乱心したかのような赤麗姫の様子に、アイリスは小さな肩を掴んだ。

「大丈夫……きっと戻せるから!アイリスも手伝って!」

 言いながら赤麗姫は隣に並んでいる内臓が入った瓶を蹴り飛ばした。

 ささくれたガラスに腕を切られながらも、姫は内容物を拾い上げて一か所に集めていく。

 その顔はいまにも泣き出しそうなのを堪え、真剣そのものだった。

 理由を聞く時間も惜しいと判断したアイリスは、言われるがままに瓶を叩き割っては、リーバのパーツを集めていく。

 やがて、全ての瓶が割られた後、赤麗姫は厳かな様子で膝を突き、祈るように呪文を唱え始めた――――。




 僅か数分の間に、玉座の間は変わり果てた姿へと変貌していた。

 壁や床のあちこちにひび割れや何かを叩きつけた痕が刻まれ、権力の象徴たる玉座は砕かれて、背もたれが見当たらない。

 だが、この惨状を作り出した当事者たちは、どちらも四肢を欠くどころか一滴の血も流しておらず、いまも睨みあっていた。

 しかし、これはもはや不毛と言ってもいい戦いである。

 タイガの攻撃はザガンに通じず、かと言ってザガンがタイガに致命傷を与えられる様子は全くなかった。

 漆黒に紫の光を浮かべた外殻を纏う青年には疲弊した様子もなく、ザガンにはそもそも疲労という概念が存在するのかも疑問である。

 二人の間で膠着こうちゃくした時間を破ったのは、床をバタバタと叩く品のない足音だった。

「ザ、ザガン様っ!」

 ゲーチスは情けない声をあげて飛び込んでくると同時に、転んでべったりと前に突っ伏した。

 そんな這う這うの体の部下を気にも掛けずに、罵声に近い響きの言葉が飛んだ。

「ゲーチス!赤麗姫はどうした!」

「せ、赤麗姫は……!」

 震える手で指差した先に、固い規則的な靴音が鳴った。

「私はここにいるわ」

 扉の前に立った少女を、ザガンは――――そしてタイガも別人かと感じて困惑した。

 見た目は間違いなく赤麗姫だったが、背を伸ばし、前を凜と見据える姿にこれまでの幼い少女の雰囲気はなく、わずか数分の間に十年も成長したかのようだ。

 彼女が一歩、部屋に足を踏み入れるや、ゲーチスは今度こそはばかりもせずに悲鳴をあげてどこかへ逃げて行った。

「私の従者が随分世話になったようね」

 その眼の色と同じ、真紅のオーラを纏った少女の足取りは不安定さを微塵も感じさせない、むしろ畏怖すら覚える風格を持っている。

 少し遅れてアイリスと、彼女に支えられて控えめな性格を思わせる色白の美少年が、部屋に入って来た。

 彼こそ、赤麗姫が探し求めていた従者――――リーバだった。

 優し気で、男とは思えない不思議な色香を持つ青い瞳をした少年の首には、小さな朱の点が二つ付いており、まだ細く血の筋を垂らしている。

 タイガは、そしてザガンも理解した。

 蘇生したリーバから吸血し、三千年を生きる魔物は本来の力取り戻したのだ。

「タイガ、ここまでありがとう。最後くらいは自分でやるわ」

 容姿にそぐわない、しっとりとした笑みを浮かべた赤麗姫に静かな唸りを返し、タイガは変身を解いた。

 部屋の中に陰気な忍び笑いが起こり、それは徐々に哄笑へと変わった。

「そうか、復活したか!やはり不死の秘術は存在するのだな!」

 凄絶な歓喜の視線を赤麗姫と後ろにいるリーバに向けて、狂気の科学者はなお笑う。

「素晴らしいぞ!ついに私は錬金王の境地にまで辿り着く!さあ、二人ともこちらに来るがいい!」

「生憎、私はあなたに協力する気はないわ」

 赤麗姫は冷めきった態度で、一人興奮する男を呆れたように見つめた。

「ならば、腕ずくで物にするまでだ!」

 ザガンの手が裂け、紐の束のようになったと見るや、それぞれが爆発するように膨らんだ。

 十数本の触手が赤麗姫を襲ったが、しかし、全てがその身に触れる遥か手前で弾け飛んだ。

「なんだと!?」

 ザガンは先の無くなった腕を無事な方の腕で押さえ、生々しい驚愕と焦りを口にした。

 攻撃が届かなかったことに驚いたのではない。

 千切れた触手の先が、再生しないのだ。

 赤麗姫の攻撃の特徴なのか、無くなった腕の先からは姫が纏うものと同じ色のオーラが立ち上がっていた。

「ば、馬鹿な!こんなことが!?」

 よろめくように後退るザガンの身体が、膨張したり縮んだり、獣や甲殻類の物になったりと目まぐるしく変化する。

 体細胞が赤麗姫の攻撃に対応しようと変化を続けるのだが、そんなことができる生物など見つからないのだ。

「く、来るなっ!私に近寄るな!」

 なんの警戒もなく歩いて来る真紅の魔姫の姿に、ザガンの顔に初めて焦燥が浮かんだ。

 残った腕を鎌のように変形させて飛ばしたが、それは赤麗姫の眼前でピタリと停止した。

 有り余る魔力で宙に縛り付けたのだ。

 血よりも赤い瞳が僅かに細められると、その邪腕は腐って溶け落ちるように形を崩した。

「……あなたには一つだけ感謝することがあります」

 何を言い出すのか、赤麗姫は落ち着き払った声で続けた。

「あなたのおかげで、私は素晴らしい人たちに出会い、城に閉じ籠っていてはわからない大切なことをたくさん学びました」

 両腕を失くしたザガンには、その言葉が届いているのかわからない。

 男は廃人と化したかのように、虚ろな目でどこかを見つめ、意味を成さない言葉を呪文のように呟いていた。

「もしも、あなたもそんな人たちと良い出会いがあったなら、きっと世界に認められる学者になっていたでしょうね……」

 赤麗姫の嫋やかな指が持ち上がり、振り下ろされた時、触れられてもいないザガンの身体は切り口も鮮やかに、縦に真っ二つに裂けた。

 領主ザガンは遂に倒れた。

 なおも死を拒絶しようと変化し続ける体細胞が崩壊を起こし、ぶすぶすと音を立てながら茶色の煙を上げて、その肉体は赤黒い液状と化していく。

 もはやこれが生物の死骸だとわかるのは、それを見届けた四人だけだろう。

 その残滓から未だ立ち昇る赤麗姫のオーラは、蝋を溶かす火のようだった。




 タイガの後ろで男女の悲鳴が聞こえた。

 突然、足元の床に傾斜がついたのだ。

 それだけでなく、建物全体が上下左右に細かく揺れている。

「城が崩れているのか!?」

 タイガは転びかけるリーバとアイリスを一度に抱えた。

 流石に彼はこんな状況でも足元が乱れなかった。

「いえ……この感覚、砂に沈んでいるんだわ!」

 アイリスが叫んだ通り、今日まで脅されて不本意にも使役されていた精霊たちが、ザガンが死んだと悟るや、その鬱憤うっぷんを晴らそうとしているのであった。

「まずいわね。早く逃げないと!」

 出口に向かおうとするアイリスたちを制したのは赤麗姫だった。 

「いいえ、上の方が早いわ」

 言うなり、少女は屋根に手を伸ばした。

 真紅の閃光が迸るや、城全体の天井をあっさりと貫き、吹き飛ばした。

 見上げれば、瓦礫が紙のように舞う空は、少しずつ遠ざかっていた。

「リーバ。こっちへ!」

 赤麗姫はタイガから少年受け取って抱えると、翼も持たないのに音もなく宙に浮かんで上昇していく。

 タイガとアイリスも自前の翼で、四角に切り取られた空に輝く赤い月に向かって飛んだ。

 眼下では数千年の威容を構えた城が、傾きながら砂の中に沈んで行った。

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