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Succubus Honeymoon~魔界旅行記~  作者: 晦
砂漠の花
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奇跡の剣士

 頭に水をかけられて、赤麗姫は目を覚ました。

 そこは全てが白い石造りの、見たことがない場所だった。

 すぐに記憶が蘇り、起き上がろうとするも、手は後ろで縛られているらしく、ろくに身動きも取れない。

 冷たい床に腹ばいになっているせいで、息が苦しかった。

 隣には同じ体制で、後ろ手に縛られたアイリスが自分と同じように倒れている。

 床には彼女のトラベラーポーチが口を開いたまま落ちていて、いくつかの中身が散らばっていた。

 そして、玉座に座ったザガンは、青白い光を放つ薄雲が閉じ込められた小瓶を物珍し気に眺めている。

 一度は手痛い反撃を受けたこの道具に興味を持ったようだ。

 しかし、赤麗姫がなんとか起き上がろうと藻掻いていると、ようやくそちらに眼を向けた。

「お目覚めかね。赤麗姫」

 ザガンは立ち上がって、例の風変わりな抑揚をつけた口調で言った。

 声をかけられた瞬間、少女は全身の皮膚が総毛だって裏返りそうな感覚を覚えた。

 ザガンの持つ狂的、病的な空気が吹きつけてくるようで、まだ何もされていないというのに、気を緩めると口から悲鳴が出そうだ。

「早速だが、いろいろと聞きたいことがある。素直に話せば手荒な真似はしない。しもべにも会わせて差し上げよう」

 白蝋のようだった赤麗姫の顔にわずかに生気が戻った。

「話しちゃダメよ!用が済んだら本当になにをされるかわからないわ!……ぐっ!」

 床に伏せたアイリスが、自分の頭を踏みつけた相手を見た。

 そこに立っていたのは官憲のリーダー、ラショウだった。

「言葉に気を付けろ、小娘」

 頭を押さえる足に力が籠るが、それでもアイリスは怒りを含んだ声で言った。

「調子にのってんじゃないわよ!いまにタイガが来て、あんたたちの首を跳ね飛ばすわ!」

 ザガンが小馬鹿にするように鼻を鳴らした。

「知らないというのは幸せなことだな」

 肩を揺らして笑う主人の後を継いで、ラショウが言った。

「お前の男は死んだ。谷底へ真っ逆さまだ」

「…………」

 アイリスは一瞬黙り、また静かに言った。

「賭けてもいいけどね、タイガは絶対に戻って来るわ」

 頭巾の下でラショウの表情が密かに固くなった。

 アイリスは自棄やけを起こして出まかせを言ったとか、万分の一の奇跡にすがるような、そんな様子ではない。

 そういった絶望の淵にいる人間を山ほど見て来た彼だからこそわかるのだ。

 アイリスはなんらかの確信を持って、タイガの帰還を宣言している。

 得体の知れぬ不穏な感覚が背中を這い上がる中、彼の主人はあくまで上機嫌な様子だった。

「賭けるだと?既に貴様は我が手中にあるというのに、賭ける物など持ち合わせてはいまい」

 低い含み笑いが部屋に響く。

「淫魔というのは私も解剖したことがない。何か新たな発見があるやも知れぬが……」

 これにはアイリスよりも赤麗姫の方が顔色を変えた。

 その心境の変化を楽しむようにザガンは少女を見下ろして笑い、そして言った。

「だが、君が素直に協力すると言うなら、この娘は無傷で帰すと約束しよう。いかがかな?」

 ザガンは脅しのための道具として、姫と一緒にアイリスも攫って来たのだ。

「約束なんて守るわけないでしょ!姫、何も喋ってはダメ!」

 ザガンの顔に怒気が漲った。

 普段は物静かだが、怒る時は瞬間的に頂点まで達するのだ。

 太い血管が浮かぶ拳を強く握り、領主はアイリスに早足で近づいた――――。

 その時、扉が乱暴に開き、慌て顔のゲーチスが騒々しく、しかし鈍重な動きで玉座の間に飛び込んで来た。

「ザガン様!例の男と思しき輩が現れました!」

「……なんだと?」

 ザガンは射殺すような視線を息を呑んで立ち竦むラショウに向けたが、すぐに赤麗姫に向き直って言った。

「ほうっておけ!どうせ風に阻まれて近づくこともできまい」

 そうなのだ。

 ザガンがこの地に根を下ろした時、砂漠の精霊たちと脅迫同然に契約を交わして、主人の許し無き者を城に近づけないようにしたのである。

 彼が城を長く留守にできないのは、目を離していると精霊たちがいつ反旗をひるがえすかわからないからなのだが、その一点を除けばこれ以上に頼りになる衛兵はいないのだ。

 しかし――――。

「風は止んでおります」

 ゲーチスの予想外の言葉に、ザガンは一瞬全ての思考が途絶えたようだった。

「男が近づいただけでなぜか風が止んでしまいました。そのうえ、城門までひとりでに開いて閉めることができません。いまごろはもう城の中かと……」

「……ラショウ!」

 唇を震わせたザガンは、またしても失態を犯した部下を叱責するのを辛うじて堪えた。

 そんなことをしている場合ではない。

 もとより、命令される前にラショウは駆け出している。

「今度こそ確実に殺してこい!」

 その背中に向かって吠えたザガンは、足元のアイリスがせせら笑いを受かベていることにも気付かなかった。




 ザガンが住み始めてからというもの、過去に一度とて無かった侵入者の報せに、最初こそ賊の進軍を止めようと武装した使用人たちが道を塞いだが、相手がラショウたちにも劣らぬ凄腕と知るや、我先にと逃げ出した。

 その侵入者――――黒の剣を手に進むのは、紛れもなく地割れの底に命を散らしたと思われたタイガだった。

 数日前、まだ仲間たちが健在の頃に、トントの町の宿でラショウは話した。

 淫魔は女しかいない種族、と。

 だが、実は数百万分の一とも、数千万分の一とも言われる低い確率で、男性の淫魔も誕生するのである。

 ラショウたちはいま相手にしているのが、その奇跡的な確率で生まれる男性淫魔だとは思いもよらなかった。

 男を色狂いにするダチュラの術が通じなかったのも、彼の瞳や外殻に淫魔特有の紫光が浮かぶのもそれ故に――――。

 タイガは地割れから脱出した後、アイリスがザガンの手に落ちたことを本能で悟り、全ての元凶を断つため一人砂の魔城へと赴いたのだ。

 淫魔が恋人の下に向かおうとすれば、茨の垣根も自ずから道を開き、行く手の鍵はひとりでに開くという。

 これはアトリーの書にも記されている比較的知られた事実だったが、例えタイガが淫魔族と知れていても、まさか機械仕掛けの重厚な城門まで勝手に動くとは――――それどころか、百年以上ものあいだ城を守り続けた風の精までが道を譲るとは、誰もが想定の外だっただろう。

 タイガ自身もそこまで計算していたのかわからないが、ともかく、ザガンはアイリスを攫って来たことで、強大な敵を自らのふところへと呼び込んでしまったのだった。




 城の中の小さな泉を見つけたタイガは、ぐるりと周りを見渡した。

 そこは天井こそあるが床は地面であり、周囲を囲んだ壁と相まって中庭のような雰囲気だった。

 目の前に現れた三つのドア――――そのうちの一つを開いた。

 まるで、何度も往来を重ねたかのように迷いがない。

 補修を重ねた城の中は複雑に入り組んで迷路のようだったが、タイガは淫魔の本能に従い、アイリスのいる玉座の間へと、最短ルートを確実に進んでいた。

 そして、開いたドアの先。

 泉の前室だからか、そこも石の床ではなく地面――――なのだが、これまでの部屋のどことも雰囲気が違う。

 靴の裏には柔らかな黒土が踏みしめられる感触。

 やけに低い天井には、明度の高い純粋な照明石が使われているらしく、眼が痛くなるような白い光が空間に満ちている。

 そして、魔道具で調整されているであろう空気は、ひんやりと涼しい。

 青々しい匂いと湿気に満ちたその部屋は、緑の葉や蔦が生い茂り、子供の頭ほどもある果実がゴロゴロと転がっていた。

 室内栽培されているその植物は、形態こそ西瓜すいかに似ていたが、果実は蛍光色のオレンジに黒い縞が入った不気味な物だった。

 ここまでは邪魔が入っても悠然と歩いて来たタイガの足が、初めて止まった。

 向かい側のドアを背にして待ち構えていたのは、部下をすべて失った頭巾の男だった。

「よくぞ生きてここまで来たものだな……」

 それは素直な賞賛だった。

 部下たちをたった一人で全て倒し、槍に貫かれながらも地獄の谷から這いあがり、そして、いままた臆することなく敵の本拠地に乗り込んできた異国の剣士――――。

 しかし、頭巾から覗く瞳は未曽有の強敵を前にして、なお冷静だった。

「そこをどけ。用があるのはお前じゃない」

「押し通って見るがいい」

 二人は睨みあい、タイガは剣を構えたが、こうして対峙してもラショウは腰の剣を抜いていない。

 いったい、如何なる手段を持ってをタイガを倒すつもりか。

 先に使った痺れ薬の泡は使えない。

 無論、持っては来ているし使おうと思えば使えるが、この剣士に同じ手が通用するとは思えない。 

 タイガがゆっくりと近づく。

 足運びは慎重だ。

 彼から見ても、ラショウは楽に勝てる相手ではないと感じ取れたのだ。

 しかし、それでも一足で斬りかかれる距離に、少しずつ詰めていく。

 ラショウが大きく体を捻った。

 気合と共に振り上げられた脚は、相手に遥か届かない距離。

 だが――――驚くべきことに、タイガの胸元で弾けるように朱の花が咲いた。

 同時に密室であるはずの部屋に、いきなり突風が巻き起こり、二人の間に生えていた植物の蔦が千切れて吹き飛んで行く。

 タイガは傷口を押さえながら、風に押されて後退った。

 その胸板にはまるでナイフでえぐり込まれたような傷が円を描いている。

 顔には驚愕と僅かな苦悶があったが、驚き、苦々しい顔をしているのはラショウも同じだった。

 本来なら顔をかち割ったか――――あるいはもっと深く、心臓まで達する傷をつけられたはずだ。

 あのていどの怪我に留まったのは、タイガが咄嗟に身を反らしたからである。

 射程範囲に完全に入ってなお生還した者は、一度だけ――――初めて出会った時に戦ったことがあるザガンのみだ。

 別の大陸から罪を犯して逃げて来たラショウは、バビロニアの東の海を越え、偶然にザガンと出会い、戦い、そして自分では永遠に敵わないと思い知って部下となったのだ。

 タイガは生乾きの血がこびりついた手を下ろした。

 そこにあった傷はほとんど塞がり、ラショウの目の前で、仕上げとばかりに健全な肌色の皮膚へと回復した。

 これが地割れの底に落ちてなお生還した秘密であった。

 タイガは槍で突かれるどころか、胴に腕が何本も入るような風穴が開いても即座に治癒してしまう回復力を持っていたのだ。

 次々に予想外の力を見せる敵に、しかし、ラショウは怯まなかった。

 ――――ならば、次の手だ。

 ラショウはまた遠距離から脚を振るった。

 巻き起こった風が、周囲の植物を切り刻みながら、タイガへと襲い掛かる。

 徒手空拳でも敵を離れた位置から斬りつける恐るべき風の使い手――――それが、ザガンの片腕たるラショウの正体だった。

「どうした!近づかねば俺は斬れんぞ!」

 異国の体術を用いて、その場で跳ねて踊るように蹴りを連発するラショウ。

 その全てに風の刃が付き従い、相手を押し戻しながら切り刻んでいく。

 タイガの手が、虚空を薙いだ。

 炎の矢が唸りを上げて飛ぶが、それも計算済みなのだろう――――ラショウの起こす旋風つむじかぜに巻き込まれ、散り散りになってタイガに跳ね返った。

「その技は既に知っている。俺には通用しない!」

 体のあちこちで出血し、血濡れとなったタイガに宣言するラショウ。

 彼の優勢は明らかだったが、とどめを刺すために近づくようなことはしなかった。

 いや、ラショウは戦いが始まってからというもの、その場からまったく動いていなかった。

 それは、彼がこの部屋でタイガを迎え撃とうと考えた理由による。

 ひとつは天井が低いため、頭上からの強襲を防げること。

 そしてふたつめ――――こちらが本命だが、足元に生えている植物こそが、ザガンが生体を解剖する際に使用する麻酔の原料であり、その成分を濃縮した物が、先にラショウが使用した麻痺薬のシャボン玉の原液だった。

 足を振るう度、危険な果汁が風に舞い、タイガへと吹きつける。

 麻痺薬は風に乗って部屋中に霧のように浮いていたが、ラショウ自身は空気の流れを操作して、少しも吸い込んでいなかった。

 既に効果は表れているらしく、タイガは攻撃を両腕でガードするだけで最初のように躱そうとしていない。

 初めてラショウが一歩踏み出すと、相手も一歩下がったが、その足運びが乱れているのは明らかだった。

 横一文字の蹴り。

 放たれた透明の刃が、タイガの胸を大きく裂いた。

 辛うじて踏みとどまった青年は、しかし、足を突いた方向へ体を揺らしていまにも倒れ込みそうだ。

 ――――勝負決したり!

 ラショウはとどめを刺すために、確実に致命傷となる射程圏内まで、初めて自ら距離を詰める。

 だが、その時――――タイガはまだ塞がっていない胸の傷口に自ら指を突っ込んだ。

 心臓が傷ついたのか、裂けた肉からおびただしい量の鮮血が噴き出し、ラショウの頭巾にも降り注いだ。

 直後、部屋全体が眩い輝きを発したかと思うと、いくつか大小の爆発を起こし、一瞬で炎に包まれた。

 燃えているのは、果汁と一緒に風に舞って、煙のように部屋を満たしていたタイガの血だ。

 炎の剣士は体内に巡る血潮にまでその力を秘めていたのである。

 ふたつの影が紅蓮の炎の中に立っていたが、身悶えしているのは片方だけだった。

 策士自らが逃げ場のない狭い場所を戦場に選んだことが仇となったのだ。

 絶叫しながら火のついた頭巾をむしり取ったラショウが見たものは、決死の形相で真っ直ぐに胸元に飛び込んで来るタイガの姿だった。

 そして青年の手の中で黒剣が水平になったのを見るや、ラショウは体を焼かれる痛みも忘れて曲刀を抜き打ちで振るった。

 敵の背後に走り抜けたタイガは、剣を振り抜いたままの姿勢で立ち止った。

 その額から太い血の線が垂れ落ちた。

 一拍の後――――床に剣を突いたラショウの体が急なひきつけを起こしたように震えた。

 その体を炎が舐めまわしているが、もはや払おうともせず――――やがて自らの腹から流れた血溜まりの中に、顔面から倒れ込んだ。

 植物と血と肉が焼ける匂いの中で、タイガもまた膝を突いた。

 地面に両手を置いて荒い息を整えながら――――しかし、その瞳は決して力を失ってはいなかった。

 そうしている間にも、既に体中の傷は塞がり、一番新しい額の裂け目まで閉じていく――――。

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