不死の男
アイリスは容態が悪化した赤麗姫に付き添い、アリーシャの町の宿にいた。
またしても届いた挑戦状に、罠と知りつつもタイガは出向き、自分は姫を守るために残ったが、赤麗姫は砂塵性肺炎に加えて別の病気まで併発したのか、遂に熱まで出して病床に伏せていた。
町はマハールが暴れてからいままで、厳重な警戒態勢が敷かれている。
前回はそれでも追手が現れたが、無警戒の町よりはマシな筈だ。それに、今回は衛兵の詰め所に近い宿を取った。
逆に見当をつけられてしまうかとも思ったが、ラショウたちへの牽制になる筈だった。
赤麗姫の頭に濡れたタオルを置いて、アイリスは言った。
「もう少し頑張って。すぐにタイガがあいつらをとっちめて、リーバを取り返してくれるわ」
赤麗姫は虚ろな眼で天井を見ていたが、やがて呟くように言った。
「……もういい」
「え?」
聞き間違いかと思い、アイリスは首を傾げた。
「もういいの。二人を見ていてわかったんだ。恋人同士ってどういうものかって……まだ上手く説明できないけど、わかったの……」
一筋の涙が姫の横顔を伝っていく。
「きっと苦しかったでしょう。ただ殺されて食べられるために、何度も無理矢理生き返らせて……私は三千年もリーバに惨いことをしていた……」
赤麗姫は泣きながらひどく咳き込んだ。
アイリスは小さな体をゆっくりと起こすと、背中を擦り、蜂蜜入りのドリンクを勧めた。
「リーバもやっと外に出られたんだから。もう私の所に戻ってきたくないでしょう……」
赤麗姫は諦めたような声で、自分を納得させるようにそう言った。
だが――――。
「そんなこと、わからないわよ」
少女の涙を指でそっと拭い、アイリスは言った。
出まかせの慰めではなく、確信があるかのような力強い言葉だった。
「タイガなんて、初めて会った時に私のこと殺そうとしたのよ。なんにも悪いことしてないのに」
――――まあ、その頃は私の方が強かったから返り討ちにしたけどね。
そんなことを笑顔で話すアイリス。
意外な告白に、赤麗姫は一時だが涙を忘れたようだった。
「でもいまは上手くやっていけてる。だから姫も大丈夫」
アイリスはベッドの横に座り、少女を抱き寄せて頭を撫でた。
「姫、あなた成長したわね。出会ってから数日しか経ってないけど、大人になったと思う。いまのあなたなら、きっと前よりもリーバといい関係が築けるわ。だから希望を捨てちゃダメよ」
「うん……」
鼻をすすりながら頷く赤麗姫に笑いかけるアイリスだったが、視界の端に何か動く物を感じて、そちらに眼を向けて思わず小さく呻いた。
閉じた窓の隙間から、赤く濁った粘液が糸を引きながら流れ込んで来ていたのだ。
――――スライム!?こんなところに!?
アイリスは赤麗姫を抱き起して、壁際に退いた。
粘液状のその原始的な生物は、ペット用に品種改良されたもの以外では、湿気が多く光が届かない場所――――湿った洞窟や地下、ある種は海の底でヘドロに混じってひっそりと生きている。
不衛生な廃墟などにも住み着く場合があるが、人が生活している家屋に出現するなど余程の不精をしていない限りあり得ない。
「どうなってんのよ、ここの宿は……」
アイリスはフロントのやる気のなさそうな従業員の顔を思い出して、怒りが込み上げてきた。
前回とは違って安価な宿屋とはいえ、いままで何年も旅をしてきて、部屋にスライムが出たことなんて一度もなかった。
「部屋を……いえ、宿を変えましょう。姫、歩ける?」
赤麗姫に手を貸して立たせたアイリスだったが、その腕が強張った。
どこからかゾッとするような、くぐもった笑い声が聞こえたのだ。
部屋の中の灯りが、急に明滅した。
ランプの中の火精が逃げ場を探すように、せわしなく動いているせいだ。
「姫、下がって!」
部屋の中を天井まで油断なく見渡したアイリスの前で、赤黒いスライムが沸騰するような音を立てながら盛り上がっていく。
アイリスの背丈を優に越えるほど膨張した粘体の質感が変わり、形を取ったのは、がっしりとした肩を持つ長身の男だった。
男はギョロリとした眼でアイリスを正面から睨んだ。
そして、その後ろに隠れるようにしている赤麗姫を見て、ニッと笑った。
アイリスは繋いだ少女の手が震えるのを感じた。
「お初にお目にかかる。私はザガン。ここから東の一帯を治める者だ」
慇懃な挨拶に、アイリスの顔色が変わった。
「ザガン!?まさか、自ら出向いて来たの!?」
領主ともなれば顔も知られているだろうに、ましてや部下が一悶着起こしたばかりのアリーシャの町に自ら現れるとは、大胆不敵と言わざるを得ない。
不気味に笑うザガンの前で、アイリスの姿が赤麗姫共々、部屋の薄闇に溶けるように消えた。
彼女が父から受け継いだ、滅形の術である。
「無駄だよ。ハイドデーモンの技を使おうと、私は君の存在を感知する術を無数に備えている」
一見柔らかな口調で説明するザガンは、その言葉を証明するように、ジワジワと扉の方へ移動する標的の動きを正確に眼で追っていた。
意味を成さないとわかった能力を解除したアイリスは、それでも強気に言った。
「女の子の部屋に忍び込むなんて、部下と同じでとんだスケベジジイね」
ザガンは濃い眉に不快感を顕わにした。
「言葉に気を付けろ小娘。私は辺鄙な土地とは言え一地方を治める領主だ。貴様のような流浪者とは全てが違う」
妙な調子をつけた発音でザガンは言った。
アイリスは油断なく気を配りながら、傍のテーブルにあったトラベラーポーチを素早く腰に巻いた。
目の前の男からは大した魔力は感じない。
あのダチュラというラミアや、マハールという男の方がよっぽど強大な力を感じた。
そして、一見したところ武器も携えてはいないようだ。
肉弾で戦う戦士タイプなのだろうか。
こんな地で支配者になっている以上、油断ならない実力を備えているはずだが、目の前の男がどんな戦い方をするか、まったくイメージが湧かなかった。
それよりも自分たちを見据える眼にどこか狂的な物を感じて、頭がパニックを起こしそうだ。
しかし、生来勝ち気な部分があるアイリスである。
疑念を無理矢理押し退けて、わざと挑発するように鼻で笑って言った。
「その程度の身分が自慢だなんて、小さい男ね」
「なんだと?」
「案外私の方が血統がいいかもよ!」
アイリスが腕を振るうと同時に、火球が尾を引いて飛んだ。
ザガンは顔を守りながら危なく躱したが、その炎は目晦ましに過ぎなかった。
真の狙い――――本物の雷霞を封じ込めた魔法の小瓶は領主の胸の中で弾け飛び、鼓膜を震わせる大音を伴って部屋を眩く照らした。
耐え難い苦痛の声がザガンから漏れ、体がぐらりと揺らいだ。
「姫!逃げるわよ!」
最初からまともに戦うつもりもなかったアイリスは、赤麗姫の手を引いて、ザガンのダメージを確認することもなく、体当たりするような勢いで出口に走った。
だが、取っ手を捻った直後、開きかけたドアが強烈な力で引き戻され、二人は跳ね飛ばされて床に倒れ込んだ。
何が起きたのかわからず顔を上げると、鋭い棘を生やした蔦が、蛇のように蠢いて扉に絡んでいくところだった。
驚くべきことに、その茨は部屋の反対側で薄笑いを浮かべたザガンの左手から伸びているのだ。
さらにもう一つ、雷の瓶が飛んだ。
再び雷光がザガンを包んだが、今度は直立したままよろめくことすらなく、男はニヤリと笑った。
――――なんなのこいつ!?
さきほどは確かに効果があったはずの武器が、まったく通じていない。
理解を越えた現象に、アイリスの心に焦燥が芽吹き始めていた。
「素直に御足労願いたいが、どうやらそうもいかないようだ。女性に対しいささか不躾ではあるが、暫し眠ってもらおう」
ザガンの右腕がグニャリと歪んだ。
その手先からは指が無くなっている。それだけでなく、骨の存在も無視するように捩れて、途中で三本に枝分かれした。
その直後、アイリスと赤麗姫は壁に叩きつけられていた。
鞭のように飛んだのは、吸盤が並んだ頭足類のような触腕だった。
ザガン自身は棒立ちだったにもかかわらずその威力は凄まじく、二人を弾き飛ばしただけでなく、巻き込んだ調度品を叩き壊し、壁自体にも惨い傷痕を刻み、建物自体が大きく揺れた。
得意気に笑った領主が赤麗姫に近づくのを悔し気に眼に映しながら、アイリスは気を失った。
唐突な破壊音が部屋を震わせ、吹き飛んだドアと細かな木の破片がザガンに襲いかかった。
流石に驚いて反射的に顔を庇った領主に、太い声が届いた。
「よお、また会ったな」
部屋の敷居を跨ぎ、床に倒れた少女たちを守るように立塞がったのは、つばが裂けたテンガロンハットを被った小太りの男だった。
「なぜ貴公がここに居る!?」
ザガンが目を剥くのも当然で、バルはいまごろラショウと共にタイガの相手をしているはずであった。
その彼がなぜここにいるのか。
バルは前日、ラショウとの待ち合わせ場所に向かわずに、アイリスたちが宿を移る時からこっそりと後をつけていたのだ。
そして、やって来るであろう領主を迎え撃つために廊下で待っていたのだが、先の騒ぎを聞き、思わぬ手段で部屋に侵入されたことを察知して、いま駆けつけたのだった。
「お前さんたちのやり方はどうも気に入らないんでね」
「裏切るつもりか!?それだけでなく、私の邪魔をすると!」
ザガンはそんなことは受け入れられない、とでも言うような調子だった。
「裏切りなんて、この南部じゃよくある話だろ?俺やお前さんみたいな生き方をしていれば、なおさらな」
バルは鋭い眼を向けて、サーベルの先をザガンに合わせた。
「冷静になりたまえ。君に渡した薬は精神高揚をもたらす副作用がある。いま感情にまかせて行動すれば、後になって後悔するぞ……」
知らされていなかった事実に、バルは舌打ちした。
「口を閉じろよ。俺は薬でイカレタからこんなことをしているわけじゃないぜ」
「だとすれば理解し難い行動だ。永遠の若さと命より金を選ぶのか」
「……金が目当てでもない」
「ならば、なぜだ?」
その問いかけの後、ほんの数秒、世界から音が消えたような静寂があった。
バルの瞳に僅かに戸惑うような色が浮かんだが、それも瞬きするほどの間だった。
「……説明したところで、お前にはわかるまい!」
バルは剣を構えて突進した。
もとより怪我はザガン自身が生み出した秘薬により完治しているが、タイガと二度目に戦った時よりもさらに速い。
「部下の方は、あの坊やが綺麗に片づけるだろうぜ!お前は俺が始末してやる!」
サーベルはあっさりと首を捉えた。
ザガンは反応すらできていなかった。
ただ、喉の奥に空気が詰まったような声が漏れただけだ。
「他愛も無いな」
バルは刺さったままの剣を捩じりながら、魚眼を睨みつけた。
しかし次の瞬間、戦慄に体中の毛が逆立った。
正面から見据えたザガンが、口の両端を吊り上げて笑ったのだ。そして、自分から前に――――喉を刺したサーベルがさらに深々と食い込んで首の後ろから突き出たが、それでも気にも留めずにバルの眼を覗き込むように顔を近づけた。
感じたことのない類の恐怖に駆られ、バルは突き刺した剣を、縦に円を描くように振った。
ザガンの喉から顎まで、正中線を真っ直ぐに断ち割った――――しかし、その男は倒れない。
「馬鹿な!?」
バルは呻くように言って、突きを連打する。
一呼吸の内に心臓を貫き、眼孔を通し、額を割って剣は脳にまで達したはずだ。
にもかかわらず、ザガンは倒れないのだ!
ぐっ!、とこの戦いで初めて苦痛の混じった息が漏れた。
ザガンではなく、バルの口から。
見ると、いつの間にか腹に木の根っこのような物が突き刺さっている。
このような物がどこから出現したのか。
それを眼で辿ると、ザガンの左腕――――本来なら手のある部分から伸びている。
「う、おおおおおおっ!」
バルは吠えながら腰を捻った。
目の前の不可思議な現象を紐解くことも、怪我の痛みも無視し――――考えることを全て止め、腹を貫かれているのも構わずに大ぶりな動作から剣を振った。
至近距離から放たれた裂風剣はザガンの体を両断して、部屋の奥の壁をぶち破った。
バルやタイガほどの剣士だからこそ、身を躱したり、同じ技で相殺できるのであって、大抵の者は手も足も出ずに生半可な武器防具ごと真っ二つになる。
これが真髄を極めた戦士の――――裂風剣の本来の恐ろしさなのだ。
崩れた壁から青い光が差し込む中、ザガンは首を横に傾げたまま目をつぶっていた。
上半身と下半身から血が溢れ出して床を染めていく。
それから数秒――――。
部屋に動く物は荒い息を吐くバルと、怯えた様子でランプの壁に身を寄せる火精の揺らめき以外に何も無かった。
ただ、最後の一撃が穿った穴から外のざわめきが聞こえるだけだ。
「やってやったぜ……クソったれ……!」
腹に刺さっている異形の槍は三本。
いずれか一本であっても致命的だろう。
おそらく内臓もボロボロで、いまからどんな優秀な医者に診せても助かるまい。
血と一緒に生命力が流れ出ていくのを感じながら、しかしバルは満足げに笑った。
いつ以来かわからない、最高に晴れやかな気分だ。
まるで、自分の中に欠けていた物が戻って来たようだった。
だがしかし、その勝利の余韻を乾いた拍手の音が打ち砕いた。
「いや、素晴らしい腕前だ。こんな時でなければ、サンプルとして回収したいところだよ」
上半身だけのザガンが、手を叩いて笑っていたのだ。
二つになった胴体の互いの断面から、血の色をした触手のような物が伸びて絡み合い、結合した。
その光景は悪夢そのものだ。
両断された体は何の苦労もなくくっついて、死にゆくバルの目の前で、ザガンは自分の足で立ち上がった。
「これだけ派手に暴れれば、人も集まって来るころだ。名残惜しいがそろそろ失礼するよ」
そう言って、赤麗姫とアイリスを抱えたザガンは、壁に空いた穴から飛び降りた。
次の瞬間、巨大な怪鳥が現れて、気絶した二人をその足に捕らえたまま、空に消えていった。
そして、一人になった男は――――残された数秒の時間、いままでの仲間たちの顔が順番に浮かんでは消えていった。
最後に脳裏に現れたのは、黒の剣を携えた異国の青年の背中だった。




