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Succubus Honeymoon~魔界旅行記~  作者: 晦
砂漠の花
22/36

紫炎纏う黒騎士

 風が鳴り止まない砂漠の中、とある廃墟群に二頭のバイコーンが影を落とした。

 背中に乗っているのはギルとアジールである。

 アリーシャの宿で赤麗姫を取り逃した彼らだったが、それで引き下がれるわけもなく、ジャミの情報を頼りに、こうして砂漠に出向いて探し回っているのだった。

 二人の傍にラショウの姿はない。

 アリーシャの宿の一件で完全に失明してしまった彼は、城に運び込まれて主人の治療を受けている。

 ザガン曰はく、眼球に備わっているような繊細せんさいな神経を治すのは時間がかかるらしい。

 ジャミの姿もない。

 途中までは一緒だったのだが、周囲一帯を探索すると言ってどこかへ飛んで行ったきりだ。

 これに関しては、どうせ臆病風に吹かれたのだろうと、二人の仲間は思っていた。

 なにせ、小娘とあなどっていたアイリスにこっぴどくやられて敗走してから二日と経っていない。

 アジールはジャミの小心でズルい性質をよく理解していたし、自分の役目を果たせば別に文句を言うつもりはなかった。

 ギルに至っては、むしろ邪魔にならなくて良い、とさえ思っている。

「ジャミの話ではこの辺りに潜んでいるはずだが……」

 みっしりと筋肉がついた腕を組んで、ギルが言った。

 前日の戦闘で顔に傷を負ったはずだが、目を凝らそうともそれらしい痕も残っていない。

 ザガンが誇った治療薬のせいか、それとも彼自身が原始の力をいくらかでも取り戻した屈強なオーガだからであろうか。

「ともかく、探してみるか」

 二人は探索を始めたが、風が音を立てて通り過ぎる他には動く物すら見えない。

 目に入るのは折れた石柱や、煉瓦の床――――それとも屋根だろうか――――そんな物ばかりだ。

 この地もかつてはオアシスがあったらしいが、現在は完全に水源が枯れており、もはやまともに雨風を凌げる建屋すらも見当たらない寂しい場所だった。

 二人は壁や瓦礫の裏を見て回ったが、蛇一匹すらも見つからず、探索は間もなく終わってしまった。

「場所を変えたのかもな……」

「まあ、普通に考えればそうだろう……問題はどこへ向かったか、だが……」

 二人は難しい顔を見合わせた。

 なにせ、砂の上に残った自分たちの足跡すら、既に風によって消えかけている。赤麗姫たちを追跡するにしても、手掛かりがなかった。

「ジャミの連絡を待つか」

 アジールが見上げた空には、そのジャミどころか、手下の蝙蝠の姿も見えない。

 大きな綿のような雲がいくつか、風に流されて動いているだけだ。

「まったく。赤麗姫……いや、あの男たちと関わってからろくな目にあってないぜ」

 ギルは言葉ほど不機嫌そうでも疲れているようでもなかったが、紛れもない本心であろう。

 砂漠をあちこち駆け回って得るものがなく、先日は赤麗姫を前にしてわけのわからないやからに襲われ、目が見えないラショウを担いでアリーシャから逃げ出す始末だ。

「とりあえず、一旦城に戻るか?」

「馬鹿を言うな。領主様が何を思いつくか……ラショウみたいに目ん玉潰れるくらいじゃ済まないかもしれないぞ」

 アジールの言葉に、ギルも何か思い出したのか嫌な顔をした。

 ザガンは部下たちをも平気で実験材料にするような男だ。

 それに、普段は放任と言うか、一ヶ月顔を見せなくても文句の一つも出てこないが、何か目的ができると手段を選ばず他人ひとを道具のように酷使する。

 会わずに済むならそれに越したことはない。

「それじゃあ、カーティスに戻って酒でも飲むか。ジャミを待つにしても、こんなところに案山子かかしみたいに突っ立っている必要はないしな」

 ギルは廃墟の入口で足を畳んでいる馬に向かった。

 アジールも一旦は立ち去りかけて、しかし、何気なく振り返って怪訝けげんな顔をした。

 何か気になることがあるのだろうか。その足が近くの瓦礫の山に一歩踏み出した時だった。

「アジール、見ろ」

 豪胆なギルらしくない、潜めた声。

 なぜか地面に腹ばいになっている相棒が示した先には、砂の海の上にポツリと動く黒点が。

 二人は遠見鏡を覗きながら、暫し言葉を忘れた。

 それは、この廃墟に向かって真っ直ぐに走って来るバイコーンだった。

 砂避けの装備に身を包んでいるため騎手の素顔は伺えないが、乗っている薄青いような黒馬は見間違えようがない。

「ちょうどいい。奴を追っていけば赤麗姫の場所まで案内してくれるぜ」

 ギルは遠見鏡から目を離して笑った。

 アジールはすぐに頷きたいところだったが、忌々し気に言った。

「だが、隠れようにもこれではな……」

 この廃墟を離れれば、周囲一帯目印になりそうな物すらない砂だけの世界だ。

 尾行しようにも馬を使えば相手からも丸見えになる。逆に徒歩で上手く隠れて行けたとしても、相手の馬の脚について行くのは不可能だ。

「しかし、逃がしてしまえば次はいつ見つかるかわからんぞ」

 二人は沈黙し、そして言った。

「やるか」

「おうとも」

 迷っているような口ぶりで、二人ともその気だったのである。 

 実は出立前、療養中のラショウから、タイガには自分たちから手を出すな、まずは赤麗姫の居場所を探ることのみに注力しろ、と言われていた。

 彼らの第一の目的は赤麗姫の確保。

 何よりもそれが優先されるわけだが、そのための障害となるタイガに、既に仲間のうち二人がやられているのだ。

 そのうえ、南部の荒くれ者たちの中でも名を轟かすバル一味すらも、単騎で打ち破った男――――。

 警戒するのは当然だ。

 しかし、それならばなおさら戦ってみたいと思うのが、闘争者のさがである。

 ギルはもう永らく自身の全霊の力でもって戦う機会に恵まれてこなかった。

 戦いとも呼べない、退屈な狩りに倦んでいた。

 そんな中に現れた、願ってもいない強敵だ。

 アジールとて、そこまでではないにしろ、自身の力が通じないとは思っていない。

 もう一つ、二人が命令を無視して戦おうとする理由があった。

 ラショウの態度は、奴は自分が始末する、と言外に決めているように感じられたのだ。

 ――――眼も見えない癖に、なにを言うか。赤麗姫のついでに奴の首を見舞いの手土産に持って行ってやろう。

 それぞれの馬に駆け戻り、そのままの勢いで飛び乗った二人は、いきなり全速力でタイガ目掛けて突進した。

 彼等も承知の通り、身を隠す場所にも事欠く砂漠だ。

 すぐに相手も気が付いてきびすを返すと、逆走を始めた。

「逃げるか!」

 ギルとアジールは猛追したが、距離は縮むことも詰まることもなかった。 

 しかし、逃げきれないと判断したのか、暫く走った後にタイガは馬を止めた。

「よお。いいところで会ったな。ちょうど聞きたいことがあってな」

 馬から降りたギルは、親しい友人に声を掛けるような態度だったが、眼は笑っていない。

「…………」

 ショールを顔から外した青年は無言で剣を取った。

 それがこの場での答えだった。

 しかし、既に彼等の仲間――――ダチュラとマハールの力を体験しているというのに、少なくとも同格の実力を持つであろう敵二人を前に、その表情になんの感情も伺えない。

 これまでもそうであったが、平時の妻と過ごす彼を知らない者は、この青年はあらゆる感情が欠落しているのか、と思うのではないか。

「そうだ。それでいい」

 ギルは牙を剥いて笑うと、上着を脱ぎ捨てた。

 そして、腰の曲刀を抜くかと思うと、これも鞘ごと捨ててしまった。

 彼にとって、どんな武具よりも己の肉体こそが本当に信頼できる武器なのだ。

「おい、アジール。手出しは無用だぞ」

「……甘く見ない方がいいぜ。ラショウの言いようじゃないけどな」

 そう言いながらも、アジールはひとまず相棒に任せるようだった。

 ギルは多くの格闘技に見られるように足を開き、両手を前にして構えを取る。

 上背だけならタイガが軽く見上げなければならないほど大きい。

 剥き出しの腕や胸は無駄な脂肪が一切無く、強靭な筋肉で張り詰めている。

 条件が同じなら、リーチでもパワーでもタイガを圧倒しそうに見えたが、相手は剣を持った達人だ。

 そうと知りながら、仲間の手も借りずに徒手空拳で挑むとはただならぬ自信である。

 ギルの身体から湯気のような物が立ち昇りだした。

 魔力と似て非なる力の奔流、武術を極めた者が纏う闘気とうきである。

 魔法と同じく遠距離から敵を攻撃する手段にもなり、また身体能力を高めることもできる。

 アジールが言うほど、ギルはタイガを甘く見ていない。全力で叩き潰すつもりだ。

 赤麗姫の居場所を知るため、殺してはならないはずだが、それよりも闘争本能を優先したのである。

 先に仕掛けたのはギルだった。

 タイガの胸元に、残像を引き摺るほどの速度で貫手が飛んだ。

 だが、細身の影は上半身の動きだけでそれを躱した。

 続く二の突き、三の突きを躱したタイガの頭に、ハンマーのような重さの――――しかし、唸りを上げるほどの速さの回し蹴りが飛んだが、やはり表情一つ変えずに紙一重で避けた。

 足場の悪さを感じさせない、まるで宙を舞う羽のように軽やかな動きだ。

「これはどうだ!?」

 裂帛れっぱくの気合と共に、ギルの掌底から闘気の塊が飛んだ。

 俗に『遠当とおあて』と呼ばれる、魔力を直接弾丸にして放つ単純な技術がある。練習すれば子供でもできるが、大抵は人を転ばせる程度の威力に留まる初歩中の初歩の技だ。

 魔力と闘気の違いはあれど、おそらくその原理は遠当てと同じだろうが、このオーガが放った力はそんな物を遥かに超えている。

 地面の砂をえぐりながら高速で迫った闘気は、飛び退いたタイガの脇を掠め、その背後の小高い砂山を丸ごと吹き飛ばした。

 まともに受ければ即死する威力だ。

 ギルはいつでも闘気を放てるように構えながら、ジリジリとタイガに近づく。

 黒衣の裾が羽ばたいた。

 一瞬で二人の距離が詰まったが、剣が届く寸前でタイガの身体が急停止した。

 よほどの修練を積んだ者でなければ、目視も困難であろう速度で繰り出された突きを、ギルが両掌で挟んで止めたのだ。

「待っていたぜ!」

 牙を見せて笑ったギルは、そのまま剣を折ろうと力を込めるが、その前にタイガの体がふわりと浮いた。

 それは、あらかじめ予定していたかのような動きだった。

 重く鈍い音がして、二つの影は離れ、タイガは優雅に宙を飛んで着地した。

 相手に蹴りをくれた足には、煙がくゆるように陽炎が纏わりついて揺れている。

 一方、歯噛みするギルの胸板には焼きごてを押し付けたかの如く火脹ひぶくれができていた。

 ただ蹴られただけならば、体重差もあってまったく通用しなかったろうが、彼が纏う炎までは筋肉では防ぎようがなく、捕らえた剣を放さざるを得なかったのだ。

「つまらねぇ小細工しやがって……」

 ギルは火傷の疼きをねじ伏せて再び構えたが、最初のような余裕は見えなかった。

 自分から攻めることはせず、相手の出方を窺うのだが、慎重に見えながら、先の反撃と合わせ内心では苛立ちが募っていた。

 これは本来の彼のスタイルではない。

 相手がどのような抵抗をしようと、圧倒的な力で押し切るというのがギルの戦い方だ。相手のペースに呑まれていること自体が、彼にとっては我慢ならない屈辱であった。

 おまけに、タイガもかなり危険な状況にあったはずだが、まるで他人事のような顔でこちらを見ている。手に握った剣は地面を差していた。

 敵を前にして余りに余裕を見せ過ぎとも言えるが、彼はこの静の状態から一瞬で致命の剣を振るうのだ。

 二人を横殴りの突風が吹きつけた。

 それが通り過ぎた後、ギルはいままでの攻防が嘘であったかのように殺気を収めると、凄絶に笑った。

「決めたぜ。お前には俺の本当の姿を見せてやる!」

 両手を握り、全身の筋肉に力を漲らせる。

 もとから十分に逞しい上半身がさらに張り詰めた。

 いや、張り詰めたどころの話ではなく、明らかに体積が膨れ上がった。

 砂地に映るギルの影が、どんどん引き延ばされていく。

 咆哮の中で、骨まで変異する恐ろしい音が響き、赤褐色の皮膚は灰色を帯びて、身長はタイガの三、四倍はありそうだ。

 全身がそうだが、肩回りの筋肉は特に丸く大きくなり首は一体化するように埋没していく。

 数秒の間に、ギルはもはや異形いぎょうと呼んで差しさわりない見た目に変化していた。




 現在の魔界の住人の力は衰える一方だが、衰退の原因とも言われる文明の発達によって解明された事もあった。

 オーガ族特有の臓器に、金剛帯こんごうたいと呼ばれる物がある。

 場所はヘソの僅かに下。扁平状の横に長く伸びた臓器で、大多数のオーガの金剛帯は生涯眠ったままなのだが、時折これが目を覚ましている場合がある。

 そういった者はかつての先祖たちの如く、現在の常識を外れた剛力を発揮できるのだ。

 ギルの並外れた腕力や戦闘センスもこの金剛帯の力によるものだが、彼は普通のオーガではない。

 主であるザガンの手によって、他人の金剛帯を追加移植し、自分の物と合わせて計三つを繋ぎ合わせるという外科手術を受けていた。

 瞬間的に肉体を巨大化させるという、恐るべき力もザガンの施術の結果、手に入れた力だった。

 先日、ラショウ一味が城の研究室で廃人になった盗賊を見た時、仲間たちが死人のように青ざめていた中で、ギルだけが平気な顔をしていたが、それは彼自身が同じ施術を受けた被験者であり、唯一の、そしてザガンから見ても会心の成功例であったからだ。哀れな失敗作にガラクタを見るような眼を向けていられたのも、その自負かららしい。




「いくぞおぉ!」

 ギルの雄叫びに空気が震える。

 砂を蹴り散らして迫る巨体は、見た目以上に速かった。

 突き出された拳がタイガに迫った。

 これだけ体格差がある相手では受けが通用しないどころか、迂闊に反撃することもできないだろう。

 しかし、怯えの色を一切浮かべず、タイガはまたしても紙一重で避けた。と同時に眼前を通り過ぎる腕に剣を突き立てた。自分では振り抜いたりしない。相手の勢いを利用して、剣は鈍色にびいろの皮膚を長く裂いた。

 だが、顔を曇らせたのはタイガの方だった。

 刃が走った腕には真っ直ぐに線が入ったのみで、出血はしていない。皮膚が鉛のように硬化しているのだ。

 ギルは裏拳のように腕を振るうが、直前に攻撃を予知したタイガは大きく後方に飛び退っていた。

「自慢の剣も役には立たないみたいだな」

 鼻で笑った巨人の顔に向けて、青年の手から尾を引いて炎が飛ぶ。

 だがギルはそれを掌で受け止めると、熱がる素振りも見せずに握り潰してしまった。

「そんな物が通用すると思うか!」

 目を細めて満足げに笑ったギルは、握り拳を振りかぶるように引いた。

 直後、強大な闘気が轟音と共に飛んだ。

 横に飛び込むようにして回避したタイガを追撃しようと巨人が迫る。

 拳が地面を叩き、砂が舞った。

 その時、絶対的な有利を確信していたギルの口から、小さな苦悶が漏れた。

 タイガはまたしてもギリギリで攻撃を避けると同時に反撃したが、今度は両断とはいかずとも半ばまで剣の切っ先は腕に食い込んで、風の中に血煙の花を咲かせた。

 ギルの腕に残った傷は一本のみ。

 先に斬りつけた場所を、寸分違わず、なぞるように刃を走らせたのだ。

 それは、デーモン種でありながら剣士の道を選んだタイガが身につけた、力ではなく技の剣――――。

 ギルは明らかな狼狽を浮かべて、腕を押さえながら唸った。

 元の姿ならともかく、いまの姿で流血することなど、本人でなくとも誰が想像しようか。

 後退りつつ、再び闘気を練ろうとしたギルの額を、不可視の刃が打った。

 連発で放たれた裂風剣は、三発で灰色の巨人の顔を朱に染めた。

 ギルは流れて来る血に目を細めながら、腕を振り回した。

 闘気を扱うにはなにより平常な心持ちが必要だが、もはやそんな物は望めなかった。ただがむしゃらに巨体を活かしての突撃をかけたが、凡百の相手なら知らず、目の前の剣士にそんな物が通用するわけがない。

 しかし、攻撃を躱して反撃に転じようとしたタイガの体が、不自然につんのめった。

 足首を何者かが掴んだのだ。

 見れば砂の中から手が伸びている!

 いや、それは本物の手ではなく砂が集まって腕の形を模しているのだ。

 しかし、掴んだ獲物を放すまいと締め上げる力は、まるで万力のようだ。

 斬空剣が奇怪な腕を抵抗もなく断ち切ったが、その僅かな隙は敵に反撃の時間を与えるのに十分だった。

 巨大な掌が地面に押し付けられ、持ち上がった時、拳の中に黒衣の青年は捕らえられていた。

「おい!殺すなよ!まだ赤麗姫の居場所を聞いていない!」

 離れた場所で観戦していたアジールが声を張り上げた。

「手を出すなと言っただろうが!」

 ギルは忌々し気に額の血を拭いながら、吠えるように言った。

「手を貸さなきゃやられてただろうが、まったくよぉ」

 突如現れた砂の腕、それを操ったのはアジールであった。

 タイガはギルと戦いつつも、もう一人の敵を常に視界に入れていたが、このような方法で援護してくるとは予想できるわけがない。

「おい、聞いただろう。さっさとあのガキの居場所を吐け!」

 怒り狂う狼のような勢いで、ギルは言った。

 勝ったのは自分たちだが、こうして手の中のタイガを眺めていても、拭い難い敗北感が心魂に染み入って来るのだ。

 尋問する必要が無ければ、すぐにでもバラバラに引き裂いていただろう。

「早く言え!さもなければ……!?」

 その時、アジールは相棒が息を呑んだのがわかった。

「どうした、ギル!」

 その声は届いていなかった。

 代わりにギルが聞いていた音。

 タイガの喉の奥から聞こえたのは、静かな怒りを感じさせる、雷のような唸り声……獣なら知らず、この端正な顔立ちの青年から発せられるような音ではない。

 それが、遥かに巨大で凶暴な男を金縛りにしていたのだ。

 突然、ギルが眼を見開いて、その口から驚愕と苦痛の叫びが飛び出た。

 同時にタイガを捕まえていた手が開き、跳ね上がった。

 それは、火にかけられて熱を持った金属に、知らずに触ってしまった時のような反応だった。

「ギル!」

 アジールの声はかき消された。

 タイガとギルの間のごく狭い空間で、原初の炎かと思うほどの閃光と熱が炸裂したのだ。

 突如生まれた一条の火線は、灰色の巨体を貫いて空の彼方まで流星のように走っていく。

 その十秒も満たないほどの時間の後、アジールは火傷しそうな熱風の中で、なんとか眼を開いた。

 肉の焦げる嫌な臭いが鼻を突く。

 ギルの姿は見えなかったが、アジールは相棒が確実に死んだとわかった。

 砂の上に、元の大きさに戻った色黒の足が二つ、悪い冗談のように転がっていたからだ。それだけを残し、ギルの他の部分は跡形もなく蒸発してしまったのだ。

 そして、同じくあの閃光の傍にいたタイガは、超然とした様子でアジールを見据えていた。

 シャツはぼろきれと化してはいるが、肉体は火傷跡一つ無い。

 アジールは青年の胸の真ん中に、深紅の鉱物のような物が生えているのを目にしたが、それはすぐに皮膚の中に埋没して見えなくなった。

 シャツだった物を破り捨て、外套一枚を羽織ったタイガの眼に揺れたのは、それまで確かに見えなかった紫色の輝き――――。

 見入ってしまいそうな不思議な光が幻のように揺れている。

 アジールは自分の馬に駆け寄って飛び乗ると、横腹に蹴りをくれた。

 吹きつける突風の中で振り向けば、青年は黒馬を操り追って来ていた。

 馬に鞭を入れるが、差はあっと言う間に詰まっていく。

 ハヤテ号の方がはるかに速いのだ。

 それを見たアジールは何を思ったのか、突然に馬の背を蹴って飛び降りた。

 タイガは目を見張った。

 腹から地面に激突したはずのアジールが、砂の上で浮かび上がったのだ。

 と思うと、そのままの姿勢で地表を滑走して行く。

 目の錯覚ではない。アジールの下の砂が泡立つように盛り上がり、彼を持ち上げて走り出したのだ。

 一度は足を緩め始めたハヤテだったが、再び加速の体勢に入った。

 しかし、驚くことに砂の波はさらに速く、少しずつタイガとの距離が開いていく。

 アジールはその上で体を転がして仰向けの体勢になり、してやったりの笑みを浮かべていた。

 そして、急に進路を変えた。

 自分たちがもと居た、寂れた廃墟に向かって――――。




 タイガが廃墟に足を踏み入れた時、真っ先に目に飛び込んできたのは、極端に傾斜が付いた大きなすり鉢型の流砂の中心に、一つの岩が沈んで行こうとしているところだった。

「動くな。この程度の岩を砕くのはわけもねぇぜ。中からは何が出て来るかな……」

 流砂を挟んで反対側で、アジールは不敵な笑みを浮かべた。

 その言葉を証明するように、半ばまで沈んだ岩が中央からひびが入り、卵のように二つに割れた。

 中から出て来たのは、互いに引き離されないよう抱き合う、アイリスと赤麗姫だった。

 何年も風砂に晒されている景色の中で、この岩だけが比較的綺麗で、周囲から浮いていることにアジールは気づいていたのだ。

 そして、タイガの行動――――ハヤテ号がアジールたちの馬より遥かに速いにもかかわらず、付かず離れずの距離で逃げていたこと。

 いまにして思えば、まるで自分たちを廃墟から引き離すような動きだった。

 そこから彼が導き出した答え――――赤麗姫たちはまだ廃墟から離れておらず、岩に擬態して隠れていたのだ!

 砂の腕がアイリスの手から姫をあっさりと奪い取ると、流砂の外へと放り投げた。

 自分の足もとに転がった少女の背中を踏みつけ、アジールは眼光鋭くタイガを睨んで言った。

「動くんじゃないぜ!女がどうなっても……」

「アイリス!」

 アジールの声を遮って、タイガは叫んだ。

 いかなる苦境にも動じない彼が、初めて見せた剥き出しの感情だった。

 タイガは躊躇うことなく、砂地獄の中に身を投じた。そのまま二人の姿が見えなくなるまで、二秒とかかっていないだろう。

 アジールは拍子抜けしたように、自分で作った流砂を覗き込んだ。

 一旦砂に絡めとれば、二度と逃すことは無い。

 窒息を待つまでもなく、足の下で捻り殺すこともできる。

 このやり方でアジールは広大な砂漠の下に、永劫に発見されないであろう死体を無数に作って来たのだ。 

 勝負は着いた。

 恐るべき手練れと認めていた仲間たちを、独りで三人も屠った男の、あまりにもあっけない最期だった。

「タイガ……アイリス……」

 風と、砂がこすれあう音の中でぽつりと生まれた声に、半ば放心状態だったアジールは気を取り直した。

「……さあ、俺と来るんだ」

 赤麗姫は流砂のふちに座り込んだまま、顔を上げなかった。

 アジールの声が聞こえていないかのように。

 いまの彼女は親の帰りを待ちわびる子供のようだった。

「手をかけさせるな!」

 金色の髪を引っ掴み、無理矢理立たせようとした、その時だった。

 大気を揺らす爆音が耳を麻痺させ、眩い光が目を刺した。

 アジールと赤麗姫が見たのは、砂地獄の中から間欠泉のように吹きあがった炎の柱。

 それも、普通の炎ではない。

 妖しくも美しい青紫の炎だ。

 その中から翼を広げて飛び出したのは、全身を黒の鎧で隙無く包んだ騎士――――片手にはタイガが握っていた剣が、もう片方の腕に抱えられているのは、長い髪を垂らした美女だった。

 飛翔した黒騎士の姿を眼で追ったアジールの頭や肩に細かな礫が降り注いだ。

 石ではない。

 濁ってはいるものの光を透過し、黄色とも緑とも表現し難い色をしている。

 それは細かなガラスの粒だった。

 吹きあがった炎は、砂が一瞬にしてガラスになってしまうほどの高熱なのだ。

 その中にあって、どういうわけかアイリスは髪の一本も、服も焦げてすらいなかった。

 黒騎士が地面に降り立った。

 そのフルフェイスに血管のように走った光も、兜の奥で、らんと光った瞳も、身に纏う火と同じくアメジストのような紫色だ。

 抱いていたアイリスの身をそっと地面に下ろすと、アジールを刺し殺すような眼で睨みつけた。

 口元から漏れるのは人語ではない、くぐもった獣のような唸り――――明確な怒りを感じさせる唸り声であった。

 本能の奥底の恐怖や畏怖を呼び起こすようなその音に、ギルと同じく、アジールの頭もまた空白となっていた。

「お前はいったい……」 

 逃げることも忘れて呆然と立ったまま、アジールは黒騎士が近づくのを見ていた。

 ――――いったい何者なのだ?

 その疑問を最後まで口にすることなく、彼の体は胸の下あたりで一刀両断された。




 戦いが終わった廃墟の中で、赤麗姫たちは辛うじて風を凌げそうな廃屋の隙間に入り込み、休息を取っていた。

「タイガ……アイリスは……」

「寝ているだけだ。すぐに目を覚ますさ」

 愛妻の頭に膝を貸したタイガが言った。

 その姿はあの黒騎士ではなく、普段の細身で精悍な顔立ちをした青年に戻っていた。

「タイガ……怖くなかったの?」

「なにがだ?」

「砂の中に飛び込んだ時……」

 タイガはチラリと赤麗姫の顔を見て、それから薄っすらと笑みを浮かべた。

「俺は自分が死ぬより、こいつを失う方が怖い」

 そう言う顔は、どこまでも優し気だった。

 赤麗姫は本音を言えば、感情をほとんど表に出さないタイガに近づき難いものを感じていた。

 だがいまは、アイリスを介抱する彼を見ていると、不思議な安堵感すら覚える。

 それは、もしかすると父性と呼ばれる物だったのかもしれないが、父親など存在しなかった赤麗姫にはそのことを理解できなかった。

「お前もリーバを助けるために、何も持たずにここまで来たんだろ?」

 姫は彼が言わんとしたことを悟ったのか、顔を上げた。

 タイガはよし、というように頷いた。

「リーバの居場所はわかったんだ。もう少しだ……」

 タイガは瓦礫の屋根のふちから空を見上げた。

 そこに未だ残る敵の姿を見ているのだろうか。

 青年の瞳に、またしてもあの不思議な炎の色がキラリと光った。

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