毒花
タイガがまだアイリスと出会ったばかりの頃。
彼女はいつも寝屋の中で、伽の話を聞かせてくれた。
北の国のオーロラ、砂漠の雷光竜、淫魔の間に伝わる幻の花――――それらの中に、赤麗姫の話もあった。
魔界で一番赤い花、赤麗から生まれた赤麗姫。
生まれながらにして強大な力を持っていた姫は、目に入る生き物を無差別に殺してはその肉を喰らい、彼女が歩いた場所は後に血の絨毯が敷かれていくようだった。
自称、他称問わず、王を名乗る者は魔界中に大勢いたが、誰も彼女に自ら挑戦しようという者はいなかった。
そんな中で、当時バビロニア南西部を支配下に置いていた錬金王パラケルスが赤麗姫の下に出向き、言った。
「お前の望む物を一つ、なんでも与えよう。それで殺生を止めよ」
考えた末に姫が出した答えは、ある意味では合点がいくが、またある意味では意外な要求だった。
「どれだけ食べても無くならない恋人がほしい」
誰からも教育らしいものを受けなかった姫は、食欲と愛情を混同したらしい。
ともかく、錬金王は今日に至るまで彼だけにしか物にすることが出来ずにいる化学力と特殊な魔術をもって、その願いを叶えた。
そして、自分の領地に小さな城を造り、赤麗姫と恋人を住まわせた。
以来、彼女の凶行は収まり、いまも砂漠に佇む城で恋人と静かに暮らしている――――。
それが、タイガが聞いた赤麗姫の物語だった。
旅先ではいつもそうするように、タイガはまた宿の窓から街並みを見下ろしていた。
ここはカーティスの町より西にあるアリーシャの町。
先にいた土地とは別の領主が支配しているため、素性の怪しい役人たちも手を出しては来ないだろう。
このオアシスは南方でも特に水量が多く、砂漠の真ん中にあるのが信じられないほど作物が採れる。
様々な種実類に色とりどりのプラム、微量の魔力を含むブラックベリー、星の形をしたアプリコット、平べったいプレートバナナに、振ると涼やかな音が鳴る小振りなパイナップル――――タイガが知らない作物も多い。
他にも香辛料の類や、油を採るための胡麻を栽培しているようだ。
人々の顔も肌ツヤが良く、あまり陰を感じさせない明るい雰囲気の町だった。
アイリスが部屋に入って来て鍵をかけたのを見ると、タイガも窓を閉めた。
室内を満たしていた青い月光が締め出され、音もない空間に耳の中がシンと鳴った。
「お姫様はどうだ?」
「眠ったわ。でも、いい夢は見られなさそうね」
アイリスが視線を送った壁の向こうでは、砂漠で保護した少女が眠っているはずだ。
二人は簡素な丸テーブルに着いた。
真ん中に置かれたランプの中で火精がウロウロしているのを見て、アイリスは備え付けの餌箱から、乾燥した楓の木片をひと摘まみ取って入れてやる。
ぽってりした丸い火の玉が木片の上に居座ると、香ばしく甘い匂いが部屋に満ちた。
野生の火精は枯れ葉や枯れ枝を食べる。
飼われているものも基本的にはどんな植物でも食べるが、しっかりと餌を選べば照明としてだけでなく、香炉の役割も果たすのだ。
「あの娘、本当に赤麗姫だと思うか?ぜんぜんお前の話に聞いたような感じではないが」
「わからないわ……自分が伝説の魔物だと思い込んでる子供……って可能性もあるけど」
アイリスは暫し考えて、言った。
「いえ、私は本当だと思う。少なくとも、装備も無く砂漠を横断して来たんだから。並のオーガやデーモンなら行き倒れか、獣や盗賊にやられてるわ」
「だがさっきは大したことない野盗に追われていただろう」
タイガは足を組みなおした。
「それと、随分と咳き込んでいたが、あの娘は病気なのか?」
「ええ、砂塵性肺炎だと思う……」
「医者に診せるか?」
「診せたところで、大した処置はできないわ。砂塵性肺炎には治療薬がないの。砂風にあたらずに安静にしておくしかないわ……」
砂塵性肺炎とは、正確な原因は不明だが、砂漠の毒気が砂と共に体内に入り、呼吸器を蝕むことで起こると考えられている。
罹るのはたいてい他所から来た者――――それも、子供や老人、体が弱っている者等、免疫力が低い者が罹る病気だ。
屋内で安静にしているのが唯一の薬だが、油断すると命まで失う場合もあると言う。
部屋の中に沈黙が居座ったが、やがてアイリスが言った。
「これは予想だけど、あの娘はジャモコの毒花を送られたんだわ」
「……なんだそれは?」
初めて聞く言葉に、タイガは先を促した。
「大昔にいた、ジャモコっていう毒物の扱いに長けた貴族が編み出したものでね。息とか体液を有害な性質に変える魔術を女性に施して、政敵とかに送るのよ。毒は大抵は即効性のあるものじゃなくて、受け取った相手は少しずつ弱って死んでいくの。症状は一見すると普通の病気と変わらないらしいわ」
「ってことは、そのリーバって奴が毒花だったのか……」
恐ろしい話だが、その所業はもはやタイガの常識の範疇を越えており、青年の顔には呆れすら浮かんでいた。
「でもこんな手、三千年前でも古すぎて誰も使わないと思う。それに、簡単にバレちゃうの。標的だけじゃなくて、周りの生物全部を害してしまうから……例えば顔の前を飛んだ虫が息に当たって死んでしまったり、触っただけで植物が萎れたりしたらしいわ」
アイリスの眼は、ランプの中の火に向けられている。
火精は木片の三分の一を炭に変えたところだった。
「それに、毒花に変えられた女性にとって、解毒剤のほうが毒になってしまうから、昔は女性を傍に置く時は解毒剤を飲ませて確かめてたっていうし……」
そう言うと、アイリスはまた赤麗姫が眠っているはずの隣室に眼をやった。
「たぶん、あの娘が何も知らないのをいいことに、錬金王が仕組んだのね……可哀そうに……」
「だが、あのお姫様とリーバってやつは三千年も一緒にいたんだろ?まさか今更になって毒が効いてきたっていうのか?」
「これも予想だけど……そのリーバって子を食べている間は力が維持できるけど、食べなくなった途端に弱っていくような……そんな効果の毒だったんだと思うわ」
タイガは眉を顰めた。
「……意味がわからんな。そんなことをしてなんになる?」
「あんたには話してなかったけどね――――」
そう前置きしてから、アイリスは続けた。
錬金王パラケルスには、配下にカスターとヨークスという一族がいた。
元は親戚筋だったという二家は、ある時にそれぞれの当主が女性関係で揉めてから、とにかく仲が悪かった。
互いに難癖をつけあっては矛を交える二家を、錬金王がその度に仲裁するのだが、暫くするとまたどちらからともなく別の問題を起こしては争う始末。
そこで、錬金王は度重なる内紛の罰として、二家の境界の土地をそれぞれからほんの少しずつ召し上げた。
そして、その土地に城を作り、赤麗姫を住まわせたのだ。
これで、二家は直接ぶつかることが出来なくなったばかりか、姫は他所からの侵略者に睨みを利かせる番犬の役目にもなった。
そのために赤麗姫には力を失ってもらっては困るが、万が一自分に牙を剥いた時のために弱点も作っておいたのだろう。
というのがアイリスの推理だった。
「……それで、どうするんだ?」
タイガが言った。
どうする、とはもちろん赤麗姫の扱いである。
「そうね。助ける必要はないんだけど……」
アイリスは顔に似合わない酷薄な言葉を口にした。
魔界の住人は他人の死に対して冷徹なところがある。
大抵の者は自分が生きるのに精いっぱいで、余計なことを気にかけていられないのだ。
特に、幼い頃から魔界の荒野を旅していたアイリスは、甘えた感情が命を縮めるということが身に染みてわかっていたし、それ故にタイガが残虐な死の剣を振るおうと、異を唱えはしなかった。
「でも、助けたいんだろ?」
アイリスの言葉を繋ぐように、タイガが言った。
「……いいの?」
「誰にも気を使うことのない旅だ。お前のしたいようにすればいい。もちろん俺もそれについて行く」
夫の言葉に、オレンジの明かりに映し出された顔が柔らかく笑った。
普段は勝ち気で大人びた態度のアイリスが、時にたった一言で、純真さすら感じさせる花咲くような笑みを浮かべるのは、夫のタイガだけが知っている秘密だった。
「それはいいとして……いまの毒花の話も姫にするべきだと思うが、どうするか……」
「そうね……傷つくかもしれないけど。話さないといけないよね」
憂鬱に俯いて、アイリスは言った。
その時、廊下の方から小さく響いた音に、二人は顔を見合わせた。