黒猫珈琲1
カトレア共和国首都ナビスの片隅にある喫茶店「黒猫珈琲」では、店主と一人の従業員が閉店後の後片付けに追われていた。
カウンターに雑然と置かれた新聞の一面には「連続殺人鬼現る」と大きな見出し。
「今月三人目の遺体が見つかる。遺体は無残にも引き裂かれ損傷が激しい。首筋には噛まれたような跡が残っていた。まさか犯人はバンピールか……ね」
溜まった食器を水でざばざばと洗いながら、この店の従業員である私ーーアテシアは新聞の内容を誦じた。
今日は来店する客が皆この話題を口にしていたので、すっかり覚えてしまったのだ。
「本気で書いてるわけじゃないとは思うが、これ以上騒ぎが大きくなるのはまずいな……」
そう呟いたのは、喫茶店の店主であるイゼルグだった。
三十代半ばに差し掛かろうという年齢のはずだが、短く整えられた黒髪にすっきりとした顔立ちで、実年齢よりは随分若く見える。目尻は昔と比べて少し下がってきたかもしれないな、と思う。
「とにかく、やれることをやらないとな」
いつも穏やかな彼の表情が今日は険しい。店の床をいつもより手早くモップで拭き上げていく姿を見て、彼が想像以上に焦っているのだと察した。
「私とマスターがいるんだから大丈夫。なんとかしよう!」
私が元気付けるように言うと、イゼルグの表情は僅かに柔らかくなった。
ーーマスターと呼ぶのは、記憶を取り戻した私にとってまだ少し違和感がある。
私たちには前世の記憶があるのだ。それも一度だけじゃない、何度も、何度も。
ある時は同じ冒険者として、ある時は敵対する国の兵士として、ーー私たちは出会いと別れを繰り返し、いつしか親友と呼んでも差し支えない仲になっていった。
記憶が蘇るタイミングはまちまちで、幼少期に異世界の夢を見ることもあれば、直接出会って分かることもあるし、お互いの名前が分かった瞬間に記憶が流れ込んでくるようなこともあった。
今回、私は相手がイゼルグだと知らないまま何年も接してきた。
花屋の娘に生まれた私は、小さな頃から注文された花を配達する手伝いをしており、喫茶店の開店祝いに飾る花を届けに行ったのが始まりだ。
店主のことを皆がマスターと呼んでいたので、幼い私は彼がマスターという名前だと思い込んでいた。
彼の方は私がアテシアと名乗った時に記憶が戻ったそうで、この時点で自分がイゼルグだと教えてくれていたら私も気づいたかもしれないのに解せない。
名前が分かったのは、私が喫茶店でアルバイトを始めてすぐのことだ。
時折やってくる客が彼をイゼルグと呼んだ瞬間、私の頭の中に前世と前世とそのまた前世とーー記憶が一気に押し寄せた。
そして私は、相手が旧友のイゼルグであるにも関わらず、マスターと呼んで長年慕っていた過去の自分に思い切りツッコミを入れたのだった。
何がマスターだ、相手はただのイゼルグじゃないか……!
でも何年もマスターって呼んできたのに、突然イゼルグなんて呼び始めたら一体何があったのかとご近所さんに思われかねない……!
そんなわけで未だに彼のことをマスターと呼び続けているのだった。
……違和感しかないけど!
一方イゼルグはできるだけ名前を隠す気でいたようで、常連客にも口止めしていたと後から知った。前世を思い出したら子供の私が間違いなく危ないことに首を突っ込むと思ったのだそうだ。
記憶の戻った私が、今こうやってイゼルグの仕事を手伝ってしまっているわけで、それはもう仕方ない。
危険だよって言われたら逆に燃えてしまうのが元冒険者の私。
とはいえ、今は冒険者だった頃とは全然違い、体力も力もあまりない身だ。
足手纏いにならないようにしないと……。
綺麗になった食器を丁寧に重ねながら、私はこっそり気合いを入れ直したのだった。
先程新聞にも載っていたバンピールとは、民話にも伝えられる人間の血を糧とする存在だ。空想上の怪物だと思われているが、この世界に実在する種である。
見た目は人間とほぼ変わらない。鋭い五感、強靭な肉体と生命力、深く怪我をしてもすぐさま治ってしまうほど強い回復力を持ち、私たち人間より遥かに長く生きる。
しかしながら定期的に人の血を飲まなくては生きられない体のため、遠い昔は人間にとって恐怖の対象だった。
時が経つにつれて数が減り、徐々に人間社会に溶け込むように生活するようになったことで、人々はいつしかバンピールが架空のものだと考えるようになり、今では一部の人しかその存在を知ることはなくなってしまったのだ。
私とイゼルグは、そんなバンピールたちが街中で安全に暮らせるよう支援する仕事を担っている。
血液を提供したり、夜型の彼らが働きやすい職場を紹介したり、ーーそしてもう一つ、バンピールハンターによる攻撃に、慎ましやかに暮らしているバンピールたちが巻き込まれないようにすること。
二週間以上、血を飲まなかったバンピールは欠乏症になって死に至ることが多い。
しかし稀に二週間経っても死ぬことなく、自我を失って暴れ出すバンピールがいることが知られている。一度暴走が始まれば死ぬまで止まることはない。
ゆえにバンピールを危険視し、管理・処刑を行うバンピールハンターが存在するのだ。
ハンターは現在、暴走したバンピールだけに対処する穏健派と、バンピールそのものを滅ぼすべきと考える過激派で二分している。
過激派が派遣された場合、暴走したバンピール以外にも危害を加える可能性があるため、ハンターの活動する夜は出歩かないよう、私たちは注意喚起を行っていた。
実は店主のイゼルグも元ハンターだ。
過剰に暴走したバンピールと対峙して重傷を負ったところを、レジェというバンピールに助けられて一命を取り止め、以降はハンターを辞めてレジェと共にバンピールの支援活動を行うようになったのだそうだ。
レジェはこの街で医師として働いており、輸血用の血液の一部を提供してくれている。
レジェの診療所でも血液は受け取れるが、健康そうに見えるのに何度も医師にかかるのは不自然に見えるのでは……と相談があったのをきっかけに、喫茶店を開いたそうだ。
喫茶店なら毎日立ち寄っても変ではないし、なにより珈琲好きのイゼルグが乗り気だったらしい。
今回の事件は既にバンピールの暴走によるものだと結論付けられ、今朝街にハンターが入ったようだとレジェから連絡があった。
またイゼルグはハンターを辞めた後も、穏健派ハンターたちと密かに連絡を取っており、派遣されたハンターが過激派であることも教えてもらっていた。
問題はここからだった。
ハンターに関する連絡を受けた後、イゼルグは躊躇いながら話し始めた。
「レジェの話によると、三日前にこの街に向かうバンピールに会ったやつがいるそうだ。行き先を変えていなければ、おそらくもう着いているはずだ。最初の遺体が見つかったのは二週間前だから、そいつはおそらく犯人じゃない。だが……」
イゼルグは考え込むそぶりを見せる。
「常連さんには夜は出歩かないようにって声を掛けれたけど……心配だね。お店ずっと開けてたけど、来てくれなかったし……」
「それが問題なんだ」
「どういうこと?」
私は思わず聞き返した。イゼルグは続ける。
「昨日、路地裏でネズミの死骸が大量に見つかった話は聞いたな?」
「うん」
「死んだネズミは体内の血液がほとんど残っていなかったらしい」
「それって……」
「もしかしたらそいつは欠乏症になりかけているのかもしれない」
私はハッとして思わず口元に手をあてた。
「もしそうなら、今夜も外に出ている可能性がある。ハンターに見つかったらまずい」
いつもなら気をつけるよう伝えるだけで良かったが、先のバンピールは過激派のハンターが来ていることを知らないはずだ。
血液を求めて外を出歩いていれば、暴走したバンピールと共に殺されてしまう可能性があった。
ハンターより先に会って、できれば保護した方がいい。
「分かった、絶対に先に見つけよう」
私はしっかりと頷いた。
「……無理はするなよ?」
心配そうに私の表情を伺ったイゼルグに、私は意識的に肩の力を抜いて見せた。
「ありがとう。結構なんでもできちゃうマスターと違って今の私はスーパー凡人だからね、今の自分にできることだけやるよ」
軽口を叩きつつ、血液の入った瓶と短銃と催涙弾を手際良く鞄の中にしまう私を見て、
「やっぱりアテシアはアテシアだよな」
と、イゼルグは苦笑したのだった。