森口玄1
Day0 1:02 森口玄
時刻は夜。山の中にある一軒の家から光が漏れていた。辺り一帯が木に囲まれ隣家は見当たらない。辺鄙な所にある家だがリフォームされたのかその外見は綺麗だ。
その家から三人の声が聞こえた。
「玄よ、どうするのだ?いよいよ時が来たぞ。儂はここを出て、務めを果たさなければならん」
野太く低い声だ。長い人生を生き抜いてきた野性味あふれる力強さが感じられる。
「ゴンさん危険ですって!いくらゴンさんでも無謀ですよ!ここなら人も来ないし、何とかなりますって!ご主人さまも何とか言ってやって下さいよ」
こちらはまだ若く、青年になったばかりの声質をしている。年上のゴンと呼ばれる者を気遣っている発言と聞き取れる。
「んむ…。」
三人目の男、玄は何か思料しているのか、その言葉は短い。もともと寡黙な人物かもしれない。
「儂としては、おぬし等にもついてきて来てほしいのだ。儂一人で出来ることも限られておる」
幾分かの末、玄は答えを出した。
「分かった…。着いていく…」
その答えに迷いが感じられたが、一度決めたことは曲げないような意思が込められていた。
「そうか…。すまぬ」
「はぁ。ご主人様がそう決められたなら従うしかないですね。やるからにはやってやりましょう」
一同の合意がとれたことで明かりが消えた。
Day -196 森口玄
森の中を男が歩いていた。地面には雪が積もり、木々は葉を散らしている。男が歩くと雪の上に足跡が出来た。
一人森を歩く男、森口玄。今年36歳を迎える大柄な男だ。一目見ると太っているように見えるが、その肉体はまんべんなく鍛えられていた。季節が季節なので分厚いコートを着ているが、そのコートは鍛えられた筋肉により膨れ上がっている。
「ふぅ…」
玄は肩に担いでいた散弾銃の位置を直した。玄が生まれ故郷の山に帰って、早五年。トロ6に当たり、無駄遣いをしなければ一生働かなくても暮らしていける大金を得た玄は両親が住んでいた山の中にある家に引っ越してきた。両親には新しい家を買ってあげ、玄は犬と暮らしている。
先を進んでいたポチが近くで吠えた。獲物がいるらしい。玄は銃を肩から下した。引っ越してくる前に狩猟免許試験などの試験を受け、猟友会にも入った玄は両親から受け継いだこの広大な山の中でイノシシやシカなどを狩っていた。
ポチが見えた。
山の家に引っ越してきた玄が毎朝家の前を見るとお座りの姿勢で待つ犬がいた。腹が減っているのではと餌をやっていたところ玄に懐き、今では寝食を共にし、猟もこなす玄の相棒、それがポチだ。見た目は黒色の柴犬。口の周りと耳の中、そして足が白い。大変可愛らしいが、猟になると野生に戻ったのかのような目つきになる。
柴犬はもともと自立心が強く狩となると自分の判断で行動することが多い。だが、このポチにはいかなる時も玄の命令を忠実に守り、冷静さを失わない賢さがあった。
今回もポチは獲物から距離を取り、玄にその場所を知らせていた。
玄は木々の間をくぐり、獲物を視認した。熊だ。2メートルぐらいだろうか、黒色の巨体が四足を地に着け、こちらを見ている。
「熊か…」
玄は銃を熊の方に向け構えた。右肩に銃床を当てて安定させる。狙いを定め距離を縮めた。
雪を踏みしめる足が緊張で少し震えている。
今まで玄はシカやイノシシを狩ったことはあったが、熊は見たことすらなかった。
ポチは声でクマを威嚇している。玄は十分狙いが付く場所まで移動した。
玄は引き金に指を置いた。上下2連式の銃のため勝負は2回までだ。玄は呼吸を整えた。
「待て、人間。撃つな」
熊が話し出した。玄は錯覚かと思ったがそうではなかった。
「そうだ、儂が話とる。ちょっと話を聞け」
流暢な日本語だ。熊は玄が銃を下げるように手を少し上げて上下に振った。玄は銃身を下に向けたが、銃自体はおろさなかった。警戒していることが見て取れた。
「まぁ良い。何故話せるのかそう思おとるな、人間よ。こいつのせいなのだ」
熊の耳と耳の間当たりの頭から一本の白い角が姿を現した。
「この距離じゃ、分からんだろうが、これは生きとる。よく見ると動いているのだ」
玄は角ではなく別の何か不気味な存在に眉をひそめた。
「こやつによると半年後にこの世でよくないこと、『終末』が起きるそうなのだ。そこで、儂の使命は最悪の事態を避けることだ。」
「終末…?」
玄がここで口を開いた。
「それは分からん。時が来たら分かるとだけ伝えられたのだ」
玄は目の前の熊の言うことを一応は信じてみようと思った。熊が話すこと自体がありえない話で、その半年後に起こるとこの熊が言っていることも起こりうるのではないかと考えた。
「なるほど…。で、見逃してほしいと?」
「まぁ、それもあるが…。人間よ、儂に協力してくれないか?話が分かる人間もこうはいない。儂も人間の文化に触れておかないといかんのだ。そうこいつは言っている。話し相手にでもなってくれ」
熊は玄が見逃す前提で話を進める。玄も熊を見逃すつもりだが、その思考を読んでのことだろう。
「少し待ってくれ…」
玄はこの熊を家に招いてもいいと思った。それは長年培ってきた勘による。この熊に敵意は見られないし、この熊が嘘をついているとは思えない。玄はこの熊が言うように何か悪いことが起きる予感がしたのだ。
「よし…家に来てくれ。半年後まで面倒は見てやる」
「人間よ、真か!恩に着る」
熊は頭を下げた。
「俺は森口玄だ。ところで何と呼べばいい?熊と呼ぶのは良くない…」
「おぬしが決めてくれ」
「そう言われると困る…。んーと…ゴンでどうだ」
玄は熊から連想された名前を言った。安直すぎるかもしれないがこれが玄の限界だった。
「ゴンか…いい響きだな。それで問題はない。それでは玄よ、よろしく頼む」
「おう…」
ゴンは名前に特に拘りがないのかあっさり了承した。
ポチは主人が熊を殺さないのを不思議に思い、玄の方を不安な顔で見ていた。しかし、熊に対して玄が警戒を緩めたのを見て、威嚇状態を解き、熊の周りを歩きて熊の出方を窺っている。
「家に案内する…付いてこい」
玄は踵を返して進み出した。ゴン、ポチの順でその後を追った。