山川渉2
Day1 19:21 山川渉
「遅すぎないですか?」
俺は、そう口に出し隣人の帰りの遅さに嘆いた。定期的に大声で助けを求めて叫んでいるが、反応が全くなかった。
午後になり暑さがピークなり、黒のスーツズボンも脱ぎ、今では下着一枚の状態で壁にもたれている。そして、便座の上に座るのに疲れ床に座りなおした。両足は便器の横を抜けるように伸ばすことができ、便座の上での姿勢よりはましだった。
「土曜日は家でゴロゴロするのが大学生だろ!家から出るなし!」
隣の大学生は、何も悪いことをしていないのに文句が口から出た。大学時代に俺のようにオンラインゲームする為に家にこもっていた学生の方が少数派なのは分かっていた。しかし、この部屋の暑さと空腹により精神的に疲れがピークに達していた。
「くそ!リア充が」
隣人の顔を頭に浮かべ、毒を吐いた。森下雪。引っ越してきたときに挨拶に来た時に、彼女にあった。よく手入れのされた黒い髪をうなじにかかるぐらいのショートにして、前髪は自然に横に流す。片方の横の髪は耳にかけていた。気の強さを感じさせるキリッとした目。シュッとした鼻。控えめに赤い口紅が塗られていた唇。はっきり言って美人だった。言葉遣いも丁寧で知性を感じさせた。俺が通っていた大学の外国語学部で英語を学ぶとあいさつに来た時に語っていた。英語を話せるそうで、頭の良さは受験の勉強が出来ただけの俺とは天と地ぐらい違った。
当時、大学四回生だった俺は隣に引っ越してきた美人を喜んだが、特にそれ以来接点もなく、通学、通勤の際にあって挨拶するぐらいの仲だった。森下に会えたら眼福眼福と思う、それぐらいの距離感だ。日本とブラジルぐらいか?
あれぐらいのレベルの美人なら彼氏がいることも必然だろう。彼氏の家に行っていたり、旅行のために遠出している可能性が高い。
今日は帰ってこない確率が高い。いつまでこの独房に閉じ込められなければいけないのか。本当に参った。ふと目に、トイレットペーパーが入ってきた。ペーパーホルダーに入れられたそれを見て、腹が鳴った。
「さすがに、紙は食べられん」
と言って、目をそむけたが食欲に負けて、少し千切り、口に入れた。トイレットペーパー口の中で水を吸い噛み切れない。飲み込むが味もなく、それ以上食べる気は起きなかった。
腹は満たされることなく、虚しさが募るだけだった。
Day3 8:02 山川渉
「まじで、死ぬ」
月曜日だ。昨日、森下が帰ってくるだろうと思っていたが、帰ってこなかった。叫んでも反応がない。今日は会社があると思ったが、祝日。そして明日から二日間は有給を取っていた。俺が働いている会社は毎月二日間、土日祝日以外に休むことができるので、丁度五連休したのだ。そろそろこのトイレにいるのも限界だ。腹が減り、暑すぎて目眩がひどい。
何か食べ物はないかとトイレの横にある棚を探したが、何もなかった。
最悪、壁を壊すしかない。
やることもないので寝ることにする。
Day4 13:48 山川渉
限界が来た。視界の端に小さな人型の妖精が舞っている気がする。これは言い過ぎだが、疲労のピークの山を越え、谷を下り、ヒマラヤ山脈並みのドデカイ山がまた来た。最終手段を採るしかない。壁をぶち破ろう。壁の素材は木だ。陶器製のタンクの蓋で強くたたけば破れるのではないだろうか。
「よし」
俺はパンツ一枚で立ち上がった。水を飲むとき以外はタンクの上に戻している蓋を取る。重さがあり固いので、両手で壁にぶつけるのがいいだろう。
便器の奥は隣人の部屋と接しているのでなし。左の壁の反対側は、浴室なので壁が厚そうだ。となると右側か。右の壁を見る。壁の向こうには、机とゲーミングPCが置かれているので出来るだけ振動を出したくないが、そんなことは言っていられない。
俺はタンクの蓋を右肩の後ろに構えた。
「おらぁ!」
掛け声とともに壁に思いっきり蓋をぶつけた。ドンッという鈍い音とともに、壁の一部に野球ボールぐらいの穴が開いた。手で穴に詰まった壁の破片をとり、中を注意深く見る。そこには耐震のためなのか石膏のような壁が見えた。もう何回かたたく必要がある。再び蓋をぶつけた。石膏の表面が崩れ、粉塵が舞う。空中の粉を手で払った。削れた石膏の壁の中に鉄筋が見えた。
「くそっ!」
全体的に鉄筋が張り巡らされているとなると反対側には行けそうにない。タンクの蓋を床に置き、うなだれる様にして床に座った。この時間が一番きつい。汗が体中から滝のように出ている。俺は残り少ない気力を振り絞り、水を飲もうと立ち上がった。
奥の壁が見えた。もしかすると、この壁はリフォームの際に取り壊されていないのではないか。鉄筋による補強が行われていないかもしれない。少しでも開ければ、今まで大声を出して助けを求めていた声も確実に森下に聞こえるだろう。
わずかな希望が出てきた。俺の部屋と同じ間取りならこの壁の向こうはキッチンだ。下の方に穴をあけ、シンクの下のキャビネットに貫通させよう。
そう考えたが、便器の横の狭い空間に蓋をたたきつけるのは、難しいことに気が付いた。
「どうするか」
とりあえず、踵でけりを入れてみるか。体を横に向け、手を左の壁に付けた。膝を曲げ、そのままけりを入れる。一発では、壁がへこむ程度なので何度もけりを入れる。壁にたたきつけられた踵が悲鳴を上げたが、無事に小さな穴が開いた。白い壁紙の裏のベニヤ板に穴が開きさっき横の壁に穴をあけたときとは異なった色の石膏で出来た壁が見えた。
「ワンチャン鉄筋ないぞ、これ」
そのまま、立ち上がり、再度石膏の壁に蹴りを入れた。すると小さな穴が開きまたベニヤ板の表面が見えた。さらに踵蹴りをお見舞いする。すると、反対側のベニヤ板に穴が開き鍋や調理用の油、醤油などがみえた。
「よっしゃぁ」
俺はガッツポーズをした。その後、小躍りしたりし、一通り喜び終えると、このままパンツ一枚の格好はいかがなものかと思い、服を着ることにした。
肌着とワイシャツが汗に触れ、皮膚に張り付く。
「気持ちわりいが、まだこの格好の方がましだな」
一人納得し、トイレの壁に開いた単行本ぐらいの穴に向けて声を出す。
「すみませーん。誰かいますかー」
物音ひとつしない。仕方がないが、穴を広げて反対側に行き、玄関から外に出よう。その後大家さんに、この事態を説明して、壁に穴をあけたことを許してもらおう。