チャンスカード
チャンスカード
堀川忍 作
人は、時々思いもよらぬ出来事にでくわすことがあるらしい…何気なく拾った鞄の中に「持ち主不明の大金」が入っていたり、買ったという記憶さえ忘れていた宝くじが、実は一等で何億円もの大金を手にしてみたり…
しかし、そういう努力や才能を伴わないで、偶然手にした「大金」というものは芥川龍之介の「杜子春」の場合のように、人格を堕落させ一時的な享楽に走らせ却って人間を不幸な落とし穴に突き落としてしまうものであるらしいのだ。人間というものは思わぬチャンスに対して冷静に対処することがなかなかできず、自分を見失い安易で楽な方へむかってしまうものらしい。
私の場合、マカオのカジノで「その時」を迎えた。香港への出張を利用して同僚に誘われるままに、香港からマカオへ一晩だけ同行することにした。
「カジノ」などのギャンブルには、まったく興味のない私にとっては苦痛とまでは言わないが、決して楽しいところではなかった。…だが、どうやら私には勝負運というのか分からかったのだが、「その夜に限って」先が読めたのだ。同僚がポーカーをしていても次に配られるカードが事前に分かったり、ダイスの目さえも振る前から映像のように見えてくるのである。始めは「ただの偶然だろう」とさして気にもとめず、ギャンブルに一喜一憂する同僚の隣で所在無げに見ていたのだが、彼がルーレットに場所を変えた時にチップを一つ落としたので何気なく誰も置いていない8の上にチップを置いた。ディーラーがホイール盤の回転させ、球を投げ入れた。ゲームに参加していた人たちが夢中になって球の行き先に集中していた。私が見るともなしに、見ていると球は8の所に落ちていた。誰かが「おい8だぞ!」「8に賭けたのは誰だ?」と騒ぎだした。同僚が驚いた顔で言った。
「お、お前のチップがヒットしたぞ!」
「えっ、一体何がどうなったんだい?」
ディーラーが私の方へ数十枚のチップを運んできた。次のゲームもその次も私の置いた数字に球は吸いこまれるように止まった。その後一時間もしないうちに私の手元には千枚以上のチップの山ができていた。同時に私の周囲にはたちまちのうちに多くの見物客ができ、次に私がどの数字に賭けるのかひそひそと話しているのが聞こえてきた。でも私はそんな周囲の雑音も気にせずに、機械的に賭けを続けて一晩で何十億ドルもの現金を…もちろん小切手だが…手に入れて香港のホテルの自室に戻って一息ついた。
「俺は杜子春とは、違う…こんなあぶく銭で人生を見誤るようなことはするものか!」
香港のホテルに戻った私はテーブルの上に置かれた小切手で紙飛行機を作って窓の外から投げたら一体どうなるのだろう?…などと馬鹿なことを考えていた。無駄に使わなければ、自分の家族はおろか親類さえ皆一生働かなくても遊んで暮らせるし、自社に投資すれば重役どころか、取締役にだってなることが夢ではないだけの現金が自分の手の中にあるのだ。いや、待てよ。額面上はドルだから、日本の金に換算したら会社どころか、世界を相手に商売することだって不可能ではないんだ!
私が馬鹿げた空想をしていた時に「コンコン」と窓をたたく音がした。そっちへ目を向けると、如何にも貧相な姿の老人がテラスに立って私を手招きしていたのだ。香港のスラム街になら何人もいそうな老人だったが、私はこの老人が何故か懐かしく思えた。
「どこかでお会いしましたか?」
すると老人は薄笑みを浮かべて首を振った。それから、こう言ったのだ。
「一晩で大金持ちになった気分は如何かな?」
「私は、杜子春のように愚かではありませんよ?」
「…杜子春?」
「あぁ、昔、日本の芥川龍之介という作家が昔書いた小説ですよ」
私は、自分の記憶をたどるように、老人に小説の概略を説明した。老人は、静かに頷きながら話を聞き終わると今度は私に訊いてきた。
「なるほど…で、あんたはその金をどうなさるつもりじゃ?」
「分かりません。どうしたものか、考えていたところです」
「ほぅ…迷っていなさるのか?」
「自分の実力で得た金ではありませんから…」
「では、こうなさらんかな。その小切手とこのカードを交換する…」
その老人は懐から一枚のキャッシュカードのようなものを出して言った。
「この小切手と、そのカードを交換するんですか?」
「そうじゃ」
「そのカードは、一体どういうカードなんですか?」
「これはじゃな、つまり『チャンスカード』と言って、どんな望みでも叶えてくれるんじゃよ」
「どんな願いでもいいんですか?」
「あぁ、どんな願いでも…ただし、一回だけじゃがのぅ」
「例えば、私が『神様になりたい』と願っても叶うんですか?」
「…あぁ、もちろんじゃ。じゃが、願いが叶うのは一度きりじゃから『もう一度人間に戻りたい』と願っても無理じゃがのぅ…あっ、それと…」
「まだ、何か制限があるんですかぁ?」
「…あぁ、当たり前のことなんじゃが、死んでしまった人間は生き返らせることはできん」
「…つまり、歴史を変えたりすることはできない。一度きりだけの願いだ…と?」
「そういうことじゃ…なんでもありじゃが、歴史だけは変えられん」
「歴史的事実以外はなんでもあり…でも一度きりかぁ…」
「ワシの言うことが信用できんのなら、それはそれでいい。自分で決めなさればいい。杜子春とかいう青年になったつもりで考えるんじゃな…?」
結局、私はその怪しげな老人の差し出した一枚のカードと自分が一生かかっても手にすることのできない巨万の金額が記された小切手を交換してしまったのだ。まるで、老人によって催眠状態にさせられたように、気が付いたら私は一人ホテルのベッドに腰掛けていた。手には怪しげなカードが一枚握られていた。老人はいつの間にか部屋からいなくなっていた。まるで悪夢を見てうなされてしまったような不思議な違和感だけが残っていた。
次の日の朝、会社の香港支社に定時出勤した私を見て昨夜マカオへ私を誘った同僚が驚いたように声をかけてきた。
「…どうして会社なんかに出勤してきたんだ?」
「どうしてって、仕事だろう?」
「仕事って…今のお前はこんな会社ぐらいなら経営者になれるほどのセレブなんだぞ!…昨夜のことを忘れたのか?」
「いや、覚えているよ?」
「じゃぁ、何故?」
「実はだなぁ…」
私は同僚に昨夜の老人の話を説明し始めた。最初は黙って聞いていた同僚の顔色が段々曇って行った。
「ま、まさかお前その老人と大金の小切手を交換したんじゃないだろうな?」
「あぁ、そのまさかさ。このチャンスカードと引き換えにな?」
私は内ポケットに入れていた一枚のカードを見せた。同僚は呆れた顔をした。
「馬鹿か、お前は?…そんなの詐欺に決まっているじゃないか!」
「確かに…そうかもしれない。でも、あの小切手だって所詮ギャンブルで得た泡銭だ。そんなお金で何かをしたって、成功は保障されていない筈さ」
同僚は明らかに私に軽蔑の眼差しを送っていた。「まぁ、そのチャンスカードとやらで『アラブの石油王になりたい!』ってでもお願いしてみるんだな?」そう言い残すと、私のデスクから離れて行った。「確かに…彼の言う通りかもしれない」私は自分がとんでもないチャンスを逃したのかもしれないなと思った。でも、私は黙々と午前中の業務をこなし、午後からは取引先の会社へ向かった。
「それにしても惜しいなぁ…あの金の一パーセントでもいいから、俺にくれていたら、今頃は煩い妻子から逃れて、自由に生きることができたのになぁ?」
同僚は車を運転しながら呟いた。彼の頭の中には、今朝の私との会話がまだ離れていないようだった。彼の試算によると私が昨夜マカオのギャンブルで得たお金を日本の現在の為替レートで換算すれば、一パーセントでも大卒会社員の生涯賃金になる筈らしかった。「…ということはだなぁ、お前は百人分の生涯賃金を無駄にしたってことに…」
彼がそう言いながら巨大なビル群の道を右折しようとした時に、突然目の前に人影が飛び込んできたのだ。反射的にハンドルを切ったが、激しい轟音と共にフロントガラスにひびが入って鈍い音がした。私たちは目の前のエアバッグに視界を遮られてしまい、一瞬何が起こったのか理解できなかったが、少なくとも交通事故に遭ってしまったんだということだけは分かった。
「ちくしょう。ドジな当り屋か…!」
やがてしぼんでいくエアバッグを払いのけて運転していた同僚が舌打ちをしながら車のドアを開けて出て行った。私は割れたフロントガラスの先のボンネットの上に夥しい血を流した少年が乗っかっているのが見えた。車を降りた同僚は何回かどこかへ携帯電話をかけてから、うんざりした顔で私に説明してくれた。中国に返還された後も香港では貧富の格差が激しくて、その日の食事にさえ困った少年たちは路上を走る高級車を狙って体当たりして「怪我をした!」と運転手に言いがかりをつけて小遣い稼ぎをしているらしいのだ。だが、今日我々の車にぶつかって来たのは、まだ新米の「当たり屋」らしく下手して本当に事故を起こしたらしい。「警察にも会社にも連絡したから…」後は保険会社と被害者との示談もされて、我々は新しく来た台車で目的地へ行けばいいのだと…
「き、救急車は呼ばなくていいのか?」
「呼んだところで来てくれはしないさ」
「あの子は、もう死んだということか?」
「いや、さっきの様子ではまだ死んじゃぁいない。…でも、もう時間の問題だ」
「…じゃぁ、まだ…死んじゃぁいないんだな?」
「仮に病院に運ばれたとしても、素姓も分からないあの子を治療する医者なんていないさ」
「でも…まだ死んじゃぁいないんだな?」
私は、咄嗟にドアを開けて車外へ出た。事故を目撃した見物人をかき分けて少年の傍に行った。確かに虫の息ではあったがまだ死んではいないようだった。私は死にかけの少年に習ったばかりのたどたどしい広東語で声をかけた。
「何か言いたいことがあるのか?」
「い、妹が…」
振り返ると、五、六歳の貧しい身なりの女の子が血まみれの兄と思われる少年を見つめて涙を流していた。私は心の中で呟いた。「どうせ、私には関係のない中国人じゃないか。しかも貧しくて、生きる価値なんて…」…だが、私はそう呟きながら胸の内ポケットに手を伸ばし、昨夜老人から受け取ったチャンスカードを取り出して言った。
「どうか、この憐れな少年を助けてあげてください!」
すると、不思議なことに今まで晴れていた空が急に曇り始め、雨粒が辺りを洗い流すようにスコールがやってきたのだ。…それは、ほんの数分間のことだったのかもしれないが、
少年から流れ出た鮮血も、ひび割れた車のフロントガラスも…とにかく何もかもを事故の起こる前に戻してくれたのだ。驚いて立ち竦んでいる私の目の前には、元気な中国の少年が不思議そうな顔で立っていた。彼は流暢な英語で私に話しかけた。
「僕は…もう死んでしまったの?」
「いや、君は生きているよ。ほらオジサンの手の温もりが分かるだろう?」
「でも、さっきこの車に突っ込んで…」
「ほら、車も君も大丈夫だよ。…内緒だけどこのカードは一度だけどんな願い事でも叶えてくれるんだ。それでオジサンが死にかけていた君を『助けてくれ』って願ったのさ」
「どうして?…どうしてオジサンは僕なんか助けてくれたの?」
「オジサンは日本から仕事で来たんだけど、死にかけた人を見捨てることなんてできなかったんだ。…だから君も自分から車に当たってお金儲けなんかしないで、命というものを大切にしてほしいんだ。…それから、このカードを君にあげるよ。本当に困った時に使うんだ。願いが叶うのは一度きりだから、大切にするんだよ?」
「…でも、それは大切なカードなんじゃないんですか?」
「オジサンはさっきの願い事で使ってしまったから、もう必要ないんだ」
チェンと名乗った少年は、近くにいた妹の手を取りながら何度も振り返り狭い路地へ駆けて行った。私は車に戻り、同僚に事情を説明した。
「…つまり、あのカードは本物だったということか?」
「結局、そういうことだな」
「オーマイガッド…だな」
同僚は、呆れるというよりも、腹立たしさを隠せないように私を睨んでからエンジンキーを回したのだった。
私たちは任務を終えて、無事に出張から帰ることができた。帰国後も私は真面目に働き、結婚して娘が生まれ、それなりの出世もして「家庭」という平穏な幸せを得ることができた。…やがて娘も成長し、それなりのパートナーを見つけて結婚して家を出ていった。 何年か後のある秋の昼過ぎに、娘が妊娠したらしいことを電話で言ってきた。
「つまり私の孫が生まれるということか?」
私も妻も大喜びをした。年が明けて妻は娘夫婦の住む関東地方のA市に出産の準備を手伝うために先に行き、私はしばし独り暮らしをしなければならなくなった。食事や洗濯その他の家事は殆ど妻に任せていたので少し困ったがコンビニが自宅の近くにあったのでそれほど不自由はなかった。冬の寒い朝、妻からの電話で目覚めた私は、無事に男の孫が生まれたことを知らされた。私は出かける準備をして洗面台で顔を洗った。何気なく覗いた鏡に映った私は…一瞬不思議なことに気付いた。
「私も気がつくとこんな老人になってしまったのか…あれっ?…この顔、どこかで見たような気がするんだが…どこだっただろう?」
私は気を取り直して急いで自宅からタクシーで飛行場へ向かった。しかしその途中で、私は急に胸に激しい痛みを感じた。
「く、苦しい…」
「お客さん、大丈夫ですかぁ?」
運転手が車を止めて振り返った。多分急性の心臓発作なのだろう。運転手の声に答えることもできず、段々目の前が遠のいていくような気がした。同時に「死」を予感した。
「わ、私はせめて初孫と一緒に遊んだりしたかった。せめて顔だけでも…」
私の意識はそこで途絶えた。…だからその後のことは、私の意識が戻り、国立循環器病センターの集中治療室から一般の個室に移された後、初孫の健治を抱いた娘から聞いた。
私を乗せたタクシーの運転手は退職した救急隊員だったらしく、私の様子の異変に気付き、すぐに救急車を要請してAEDで心肺蘇生の処置をしてくれた。それが第一の幸運だった。更に運転手と救急隊員の判断で私は循環器病センターに運ばれ様々な検査の結果、一般の健康診断では発見できないような重篤な心臓疾患だと診断された。心臓移植以外に助かる道はなかったらしいのだ。しかし専門医が他の手術を控えていたので「無理か」と思っていたところに偶然、アメリカからノーベル賞受賞者の山中伸弥教授と共同研究するために来日していた中国系アメリカ人女性心臓外科医師が「私に患者を診させてください!」と言い、交通事故で偶然運ばれて来た脳死状態の患者からの移植手術が行われることになった。これが第二の幸運。手術は思っていたよりも難しく、サポート医師は次々と交代していったが、アメリカの女性医師は十に時間以上の手術を見事に終えて、無事を確認してから京都大学の山中教授のもとへ行った。…帰国前に私を見舞った女性医師は出産を終えて駆けつけた娘にこう話したそうだ。
「私の兄は香港で今も働いています。働いたお金で私をアメリカに留学させてくれました。留学する前に兄は私に言いました『お前が本当に困った時に一度だけこのカードに願えば必ず叶うだろう。以前兄さんはある日本人から助けてもらった。その時のカードだ。私はお前が立派な医者になれるように願ってしまった。だから、今度はお前がこのカードを持っているんだ。本当に困った時に使うんだ』と…お陰で私は一人前の心臓外科医師になれました。私は医師としての仕事に励みました。…でも、貴方のお父様の手術は非常に難しく困難でした。だから私はカードに願いました。『どうかこの患者を助けて下さい』とね…そのことを山中先生に話したら、先生はこうおっしゃいました。『貴方は医者としては未熟かもしれないけれど、人間として立派だ』山中先生は私を人間として認め、重要なミッションを与えてくれました。…私にはこのカードはもう必要ありません。どうかこのカードを生まれてきた坊やに差し上げてください。そして他の誰かのためになるように使って欲しいという私からのメッセージを添えて…」
娘は見覚えのある古いカードを私に見せてくれた。「あの時の女の子が私を…?」溢れる涙を私は止めることができなかったのだった。
(了)