β9 赤の×
□第9話□
□赤の×□
カッカッカッカッ。
Ayaは、普段は、仕事で忍ぶ様に歩くのに対して、ハイヒールの音が響いていたが、お構いなしで行った。
「Kouは、まだホテルにいるわ。階段! 階段を使う筈だから。見失わない内に、追い付きます様に……!」
Ayaの足は速い。
スカートをつまみ、裾に気を付けて転ばない様にしていた。
いつもは、狙撃をするのに邪魔な格好はしないが、今日は念願のデートであったのだから紅のドレスも仕方がない。
どんっ。
「やっだ、ごめんなさい。急いでいまし……」
階段の踊り場で顔面から、誰かにぶち当たった。ドジを踏んでしまった。
「Kou……?」
ぶつかった相手は、立ち止まっていたKouであった。
再び、いつもの香りのない透明な存在を逃がしたくなかった。
「どぶじだの?」
鼻を押さえて、背中から、離れた。
「分かった。その鍵の部屋に行こう」
Kouは、思うところがあって、Ayaの誘いを受ける事にした。
後ろから覗き込んだKouの顔は、冷たく蒼く蒼くなっていた。
「……大丈夫?」
Ayaは、行き過ぎたと反省していた。
「私が謝るわ。傷付けてしまってごめんなさい」
背後から、Ayaが、声を掛けた。
「……私に鍵を預けてくれないか?」
Ayaは、こくりと頷いた。
「ええ」
二人は、踊り場からレストランの直ぐ下に向かった。
一二階であった。
***
――ホテル。Ayaの部屋より。
カチャリ。
Kouが、一二〇一号室を開けて先に入った。
ベッドが二つのツインであった。
「……」
「……」
先ず、やらなければならない事があった。
無言で、二人で暫く部屋を調べた。
「盗聴も盗撮もされていないみたいだな、ここは。それに密室だ」
施錠を確認した。
仕事モードにチェンジした。
「都合がいい。仕事の話がしたい」
Kouは、大人しそうに見えて、行動力のある情報屋、兼、ジャーナリストである。
「は、はい。わかりました」
畏まった。
「私がわがままを言ってしまったので。仰せの通りにいたします」
Ayaは、芝居がかって、緊張で絡まったもしゃもしゃとした糸を解こうとした。
「冗句は、要らないさ」
現実主義者のKouであった。
「先ず、直近の。前金とやらは、私は、聞いていないが。どこから、仕事を貰った。Ayaの仕事の取り次ぎは、全て私の筈だが」
脅しではなく、本当に身を案じての事であった。
「Kouからと呼び出されて行ったのよ。だからコロッセオの前にいたの」
小さい子の言い訳にしか聞こえなかった。
「受け子かよ。確かめなさいね。ほいほい行かないよ」
速攻で叱られた。
「誰だ、呼び出した奴」
「“未来への手紙Jの刻印撲滅機構” だわ」
「土方むくさんに、私がAyaに手紙を託したな」
Ayaは、暫く前の事を思い出した。
「あれは、そう、中に虫食いの手紙があったのを情報屋のKouが白い紙に書き改めて、日本の徳川学園美術部員に宛てろと言うから……」
「……Ayaに運んで貰った」
Kouは、頷いた。
「美術部員は四人、ターゲットは、あの子なの? 土方むく様よ。あの子は可愛い感じだったわ」
Ayaも姉の様な気持ちでいた。
「ふっ。どうやら、あの絵を見つけてくれた様だ」
大したものだと言わんばかりであった。
「やはりね。私もあの絵は、見たわ」
Ayaは、ほうっとした。
「素敵な絵だったわ。“Gilles unt Adele” ジレとアデーレ」
「ゴッホの向日葵について、何か言ったのか?」
あの絵の裏にあったのであった。
「いいえ、何も。言われた事以外しないわ。手紙を渡しただけ」
「そうか……」
Kouは、少し遠くを見つめた。
Ayaは、そんな彼を見つめた。
「極東も……。騒がしいな……」
***
――数日後。アトリエにて。
ウルフおじいちゃまとスターにゃんこの寅祐に慰められ、むくは、徐々に元気を取り戻して行った。
「神崎部長、朝比奈さん。美術部員として、モデルになっていただけますか」
むくは、丁寧に頭を下げた。
烏滸がましいが、人を赦す事は、人が人たらしめるものであると、むくは思う様になった。
そして、ここ数日、むくはアトリエに詰めて制作に精を出していた。
「亮……」
「麻子……」
いちゃこら、いちゃこらしていた。
「バレたなら、もういいよな」
そう、亮がふっ切れたらしかった。
そうして、むくは、恋人の絵の為に幾つか習作を描いていた。
「今日は、構成をまとめましょう」
この日、むくが独りでアトリエに入った。
カチャ。
「酷いです……」
絶句しかかった。
アトリエに入るとむくの描いた朝比奈麻子と神崎亮の、“croquis” クロッキーつまり速写画や鉛筆デッサン等複数の肖像画への習作にイタズラがされていた。
赤いスプレーで、大きなバツが書かれていた。
「誰がしたにしても酷いです」
「むくは、隣がお付き合いされている朝比奈さんでも、それでも神崎部長をキャンバスに残せると思いました」
アトリエは、非情なまでに冷えた。
がくりと膝をついた。
胸の前で手を組み、小さく言の葉がこぼれた。
「神崎部長……。恋人が居ても嫌いになれない私への神罰でしょうか?」
冷たいアトリエで、予感に震えるしかなかった。