β16 妖精のむく
□第16話□
□妖精のむく□
――午後のアトリエより。
むくは、アトリエに着くと、“Tchaikovsky” 作 “Swan Lake” 白鳥の湖のカセットを鳴らした。
「この絵は、今はタイトルは、内緒です」
口に指を立てた。
「むくが、この絵を仕上げる迄のお話をしてもよろしいですか?」
首を左に傾げた。
揺れた髪が風を起こしたかの様に見えた。
「ど、どうぞ」
Ayaは少し緊張して来た。
「あら、この音楽は、バレエの、“白鳥の湖” ね」
ふと気が付いた。
「うふふ」
むくは、可愛らしく笑った
「この絵のモデルは、名前を呼ぶのも恥ずかしい方とむくです。むくの隣で微笑んでいるのは、むくの大切な方です」
ウルフは、神崎亮に良い印象がなかったので、首を捻った。
「大切と平たく言ってしまいました。むくの初戀なのです。初めての戀は、一度きりです」
Ayaに告白していた。
ウルフは、何も言わず聞いていた。
「だから、思わぬ事があっても、ひとつの想い出だけで生きて行きたい。そう思える生き方をしたい。好きな方に恥ずかしくなく生きて行けたなら、実らない戀があってもいい、そう思います」
「何かあったのかしら?」
「Ayaさん、今は、そっとして置いてくだされ。年寄りの頼みじゃ」
ウルフは、恙なき様に祈っていた。
「思わぬ事ですか? むくは、大失恋をしました。よく分からない好きな方の恋人から口撃をされ、突然心が折れました。情けないです。むくは、そんな事で泣く事を覚えました。涙は枯らす迄流すと、笑いが生まれる事も知りました」
涙を枯らすには、上を向くと良いとポーズをしてみせた。
今は、姿勢はぴんとし、臆さなかった。
「言われた言葉が頭の中でガンガンリピートしました。一人ぼっちでも、人といても、何かをしていても、歩いていても、言葉の渦に巻き込まれました」
典型的な病気のシグナルであった。
ウルフは、聴き漏らさなかった。
「ウルフおじいちゃまに、幻聴が出ていないか、心配されました。徳川大学附属病院に、一緒に行こうと声を掛けていただきました。むくは、悪い子だから、ウルフおじいちゃまのお気持ちを踏みにじってしまいました」
ウルフは、むくとその絵を見た。
そのウルフを見て、Ayaも同じ様にした。
「むくは、くるくる回るのが好きです」
そう言って、アトリエの奥からダンス用のリノを出して敷いた。
「結構力持ちです。たまに踊るのですよ」
そう言って笑うと、白い服のまま、トゥシューズを履いた。
「黒鳥の所です」
♪ タンッタンッタンッタンッタンッタンッタンッタンッタンッタンッタンッタンッ……。
黒鳥なのに、白い妖精が舞う様であった。
くるっくるっと回りつつ、爪先をさっと足につける振り付けである。
これをひたすらに舞い、汗も飛ぶような気持ちでいた。
技術は人並みだが、こうするだけで何か自分を解き放ちたいかの様に見えた。
「三二回グランフェッテ・アン・トゥールナンです。ひたすらに回りました」
情熱的に踊った。
今なら、そう解釈できる……!
「もう一度です」
♪ タンッタンッタンッタンッタンッ……、くるり、すっ、くるり、すっ、くるり、すっ……。
♪ カッコッコッ。
♪ グランジュテ、大きく跳躍して
♪ カッコッ。
♪ アラベスク、片足で立ち、ポーズ。
そして、劇場の喝采を浴び、礼をした。
「このパートに自由な振り付けをしてみました。今の、私の気持ちです」
「良かったの。むくちゃん」
「妖精かと思ったわ。白い妖精。むく様」
「儂にも妖精に見えたぞ」
むくは、あやす様な二人の言葉に胸が詰まった。
「……そして、この絵を仕上げる時、むくは、少し壊れていました。この絵を描きながら、むくは、悪い子で、穢れた自分を背景の深緑で塗り潰してしまいました」
「では、これは……?」
Ayaが声を掛けた。
ウルフも疑問に思っていた事だ。
この絵にいるのは、私服で笑う神崎亮と、そこにちょこんと離れて息吹をかけようとしている土方むくの姿であった。
「むくは、妖精になりました」
そう言い、胸の前で腕を交差した。
「真っ白な妖精。今にも舞いそうな、無垢の妖精。それが、Aya様にも、ウルフおじいちゃまにもまだ見せていなかったこの絵の最後の形です」
「好きです」
「神崎亮先輩」
「好きです」
美しい両の瞳に、水の妖精を湛えていた。
「タイトルは、『無垢の妖精』です」