生きて人魚のようになること
僕は海岸線に沿って歩き続けていたが、そこでふと、どこからか聞き慣れない言葉が響いてきた。何だろう、と振り向くと、波打ち際に一人の女性が立っているのが見えた。彼女はずっと水平線の向こうを見つめながら、微かな高い声で唄っていたのだ。それは世界の終焉を悲しむような、そんな寂しさに溢れていたのだった。
僕は人気のない海岸線を直進して彼女の近くを通ろうとしたが、そこで彼女が、「人魚になってみたいのよ」とふと、つぶやいた。僕は少し驚いて彼女を見返したが、彼女が海の方へと歩いていくのがわかった。僕はびっくりして慌てて彼女の肩をつかみ、「何をしているんですか!」と叫んだ。
「人魚、になりたいのよ」
彼女は振り返って、そう零した。彼女の瞳は虚ろに濡れている。その黒く、吸い込まれるような瞳を見つめていると、心がざわざわして彼女の肩を無意識に離してしまった。
「危ないですよ。とにかく、命を投げ出すようなことは絶対にやってはいけませんよ」
僕がそう絞り出すと、彼女はぼんやりと僕の顔を見つめながら、微かにうなずいてみせた。
「わかった……もう、こんなことはやめるわ」
彼女はそう言って海からこちら側に戻ってくると、砂浜に座り込んでしまった。僕は逡巡したけれど、彼女の傍らに立ち、「何かつらいことでもあったんですか?」と聞いてみた。
「私、海を泳いでいる夢を、見たのよ」
彼女が不意にそう言った。僕は何のことか混乱して、彼女の顔を困惑げに見返してしまった。
「海のずっと奥深くまで潜って、水中を泳いでいくような夢を見たのよ。魚たちがいて、傍らには私の友達がいて、一緒に濁りのない水の中を泳いでいくのよ。友達の足はなくて、尾びれが鱗を輝かせて動いているの。私も、人魚なのよ」
「その夢を見たから、人魚になりたいと思ったんですか?」
「あんな風に泳げたらっていつも思ってたのよ」
僕はじっと彼女の憂いを含んだ瞳を見つめていたけれど、やがて宙を見つめて、少し考えた後に言った。
「なら、潜ってみたらどうですか?」
「海に、潜る?」
「シュノーケルとか、やってみたらどうですか? そうすれば、死んで人魚のようにはなれなくても、生きて人魚のようになることはできる。……どうですか?」
彼女は僕の顔を初めて目にしたように大きく瞼を開いて、そしてうなずいてみせた。
「そうね……この現実から逃げるんじゃなくて、楽しんでみるのね。確かにそれは、正解かもしれないわ」
彼女はうなずき、それからそっと、立ち上がった。
「ありがとう……なんか、吹っ切れたような気がしたわ」
彼女はそう言うと、薄らと桜色の微笑みを見せて、長い髪をなびかせながら砂浜を横切って街の方へと歩いていった。僕はその背中を見送りながら、綺麗な人だな、と心の中でつぶやきを漏らしてしまった。
夢に囚われて現実から逃げ出そうとする時、一度海を見つめて風に耳を澄ませれば、なんとなく生きている実感が湧くかもしれないのだ。どうでもいい些細な日常の中にこそ、幸せの秘訣があるのかもしれなかった。
僕は海を見つめながら歩き出して、今度海に潜ってみようかな、と休日の一時を再び満喫するのだった。またこの海に来た時に彼女がいたら、誘ってみようかな、なんてことを考えながら……。




