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午前二時の青

作者: 楠 海

 あんな香水持っていたっけ、とはじめて気がついたのは、午前二時過ぎのことだった。

 ネックレスやらピアスやらをごちゃごちゃと入れた箱の隣に、その小瓶は素知らぬ顔で鎮座している。ふと目が覚めたときのぐんにゃりとねじれた姿勢のまま、私はそれをしばらく眺めた。

 そういえば持っていた、と思い出されてくれないので、一向に寝惚けているのかもしれない。開け放した窓から入ってくる夏の夜の生ぬるさを泳ぐようにして、わざわざ、小瓶を取りに行く。フローリングを歩く足の裏が湿っていてぺたぺたと音を立てた。

 すこし頭が起きてきたような気もする。体重を放り捨てるようにしてベッドに座り、熱をもった掌の中でガラス瓶を転がす。ひんやりと分厚いガラスがその熱を吸いこんでいく。揮発の気配。きゅるりと音を立てて蓋を開け、そっと鼻先を近づける。

 目の前をひとが横切ったような感覚に顔を上げる。

 暗い部屋には誰もいなかったが、この香りをまとっていたひと、しばらく思い出すことさえしていなかったひとのことは思い出した。

 そのひとはひどく珍しい客人で、珍しいというよりむしろ、一度しか訪ねてきたことのないひとだった。この家で飲んで、夜は徹せずに寝て、翌朝始発で帰っていった。

 他愛もない会話の内容などほとんど覚えていない。ただ、化粧気のないひとの肌から不意に甘い香りが立って、それに気をとられた私に向けて彼女が小さく笑ったという、それだけの話だ。

 それだけの話なのだから、ここに香水瓶がある理由になりはしない。彼女は忘れ物をしていかなかったはずで、だいたいその夜からもう随分と経っているのだから、あんなところに香水瓶が置き忘れられているのに気がつかないはずはないのだ。

 首をかしげながらその甘い香りを深々と吸いこんでいると、視界の隅がひらひらと揺れた。香水瓶から顔を離すのを待っていたように近づいてきたそれは、瓶の口に留まって翅をゆっくりと開閉した。

 暗い中でもなお青い蝶。

 そこらで見るような生易しい青ではないという以外は、透けてもいないし光ってもいない、無闇に現実の質感をまとった蝶である。

 それと同じ青い蝶が、ひとひら、ふたひらと部屋の中を舞いはじめて、そういえば窓を開けたままだったと振り返れば、蝶は途切れることなく部屋へ入ってくるところだった。

 てんでばらばらに息づいてちらつく青に狭い部屋を侵食されながら、香水の蓋を閉めることも忘れて、途方に暮れる。青い蝶の群れからは何の示唆も読み取れはしない。ただただ、揮発に酔うように、彼らは視界を乱舞するだけなのである。

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