#09「Someday」
この作品のタイトル名・サブタイトル名は、歌手の「佐野元春」さんの楽曲名を使用しています。次回以降のサブタイトル名も同様です。
文章内では歌詞は引用していません。しかし、簡単な単語は用いてます。名詞・固有名詞程度です。
#09「Someday」
「“陽子”……“藤田”さんのお孫さん。夏休みに帰って来るって……」
台所に立つ母親“素子”がそう言った。傍らで夕餉の支度を手伝う娘に優しく声を掛ける。
今は“愛”は祖母の“素子”と同化していた。娘を気遣う母の心持ちだ。
娘の失恋話は、本人から散々に聞かされた。“藤田”さんの孫とは“浩一”の事だ。
しかし、我ながら強い娘に成長したのだと――誇らしげに思う――人参の皮を剥く姿を見つめていた。
「え?」
娘の表情が固まった。同時に動作も止まる。視線も移動しない。娘自身は思考に没頭しているのだ。
「“磯部”さんに聞いたの。あの人は“藤田”のお婆ちゃんと一緒の病院だったでしょ」
無反応だった。娘の気持ちは今も変わっていない筈なのに。
「関係ないよ……」
目に感情が戻った。虚勢を張っている。母親は一発で娘の嘘を見抜く。
少しだけ娘に加勢することを誓う。
――5年半前。
“藤田浩一”の中学の卒業の日。“陽子”は何時までも待っていた。約束した場所で待っていた。
しかし思い人は来なかった。現れなかった……何の言葉も無く。
翌日、娘はその先輩に会いに行った。
“浩一”の祖母に素っ気なく追い返された。
「会いたくない」
孫の言葉だと告げていた。彼の祖母は困った顔をしていたのだった。
その日一日、娘は塞ぎ込んでしまった。
でも只では転ばない。したたかな所は母親譲りだった。
しかし、“陽子”は変わった娘だった。春休みの間、彼の祖母に毎日のように会って話して――仲良くなってしまった。
「関係は無くなったの? お婆ちゃんに合いに行けば? 偶然、お孫さんと出会うかもよ……」
“素子”は人参を銀杏切りにする。
――駆け出していた。自転車を思い切り漕いでいた。
“愛”は“陽子”に同化していた。母の心が弾んでいるのが分かる。
“藤田”の表札。
呼び鈴を鳴らす。
「ハァーイ?」
優しい顔の祖母が現れた。
“陽子”は呼吸を整える。
「あの……ハァ……先輩が帰って来ると聞いたので……」
しかし、まだ息が荒い。
「アラ……“陽子”ちゃん久しぶりね。そうなの……ま、上がって……お茶でも飲んでいく?」
「ハイ! 遠慮無く!」
元気に返事する。初めて先輩の家にお邪魔したのだった。
床の間のある立派な和室に通される。そこには日本画が飾られていた。
美術関係を進路にと考えていた“陽子”は、日本画を真剣に見つめる。
「松林桂月先生の作品よ。萩市出身の日本画家の方……知らない?」
「知りません。不勉強で済みません」
“陽子”は大きく首を振る。
「別号は“玉江漁人”……あなたは『玉江駅』の近くに住んでるんでしょう。そこの出身よ」
「へぇー」
“陽子”は再び絵を見つめる。緻密な書き込みがなされているが、優しい印象の絵画だった。
「コチラを召し上がってね」
“藤田 冨美子”が茶菓子とコーヒーを差し出した。茶菓子を手に取る。「横濱銘菓」とあった。
「これって……」
“冨美子”の顔を見る。
「“浩”ちゃんが荷物と一緒に宅急便で送ってきたのよ」
封を開ける。甘い匂いが漂ってきた。コーヒーもインスタントではない。ドリップした物だ。“浩一”が拘っていたことを思い出す。
「インスタントは酸っぱいだろ!」
その時の顔を思い出し笑顔になる。お菓子もマロン味で美味だった。
「喜んで貰えて嬉しいわ」
“冨美子”は皺の多い目尻を下げていた。女性の孫が欲しかった彼女は“陽子”を愛おしそうに眺める。
“陽子”の恋を応援したい――と“冨美子”は思った。孫の“浩一”は繊細だが鈍感なのだ。
「あの……先輩は……」
本題を持ち出す。“冨美子”は忘れていたことに気が付く。
「今日の夕方、『萩バスセンター』に到着するって言ってたわね」
昨日の、孫からの電話の内容を思い出していた。
「詳しい時間とか判りますか?」
“陽子”はバスを待ち構えるつもりだ。
「新幹線が『小郡駅』に到着するのが、2時頃とか……」
後は、バスの時間を計算すればよい。
「判りました。調べて見ます」
笑顔で答える。
萩バスセンター――午後3時30分。
“陽子”は木製のベンチに腰掛けてバスの到着を待つ。小郡〔現・新山口〕駅からは‘防長交通’と‘国鉄’の二つの会社からバスが出ている。
幸い、両者が到着する場所は近くなので降り立つ乗客の顔は直ぐに確認出来る。
「2番に特急‘はぎ号’が到着します。次は東萩駅です」
女性の声でアナウンスがある。
乗っているとしたらこの便が、一番可能性が高い。
国道191号線。萩駅方面から来た大型バスがウィンカーを出して停車する。ホームに回頭せずに、そのまま停車する。
前方のバスの扉が開いた。乗客は満員時の半数程度だろうか。次々と降り立つ。外国人観光客の姿も見えた。つま先立ちしてバスの中を覗こうとしたが、背の低い“陽子”には無理だった。
“陽子”はピンク色の半袖のワンピースを着ていた。最近購入したお気に入りの品だった。一旦帰宅して着替えた。
“浩一”との再会を待ちわびていたのだ。
大柄な男性が降りてきた。青いジーンズを見て“陽子”は確信する。見間違う事など無いのだ。
「せ……」
――先輩!
いきなり声を掛けて驚かすつもりだった。
“浩一”は左手に大きめのスポーツバッグを抱えていた。右手の先には女性の手があった。
バスの前部から女性が降り立つのを手伝っていた。
その女性は長い髪の毛を掻き上げる。綺麗な女の人だった。
“陽子”は固まる。
「おっ」
“浩一”は目の前の“陽子”に気が付く。ちゃんと出逢うのは5年以上ぶりになる。
「せ、先輩……き、奇遇ですね――」
目の前のピンク色のワンピースの少女の目が泳いでいた。嘘を吐くのが下手くそな子だった……“浩一”は思い出す。
「――し、知り合いを待っていたんですけど……せ、先輩もこのバスで帰ってきたんですね」
聞いても無い事をペラペラと喋り出す。矛盾のある言葉だった。「先輩も」と言っていた。じゃあその「知り合い」はどこに居るんだ? ――“浩一”は思う。
多分、その知り合いの名前は“藤田浩一”と云う名前のはずだ。
バツが悪い相手だった。“浩一”の感想だ。罪悪感もある。
だが、取り乱している“陽子”の姿を見て哀れに思ってしまった。
彼女が取り乱している原因は、傍らにいる“大原 茉莉”の存在だ。
“陽子”は本当にタイミングが悪いと思う。
中学の卒業式。確かに悪いことをした。だが、春休みの間――毎日のように彼女は“浩一”の家を訪れていた。自分は、その時不在なのに……。
春休みの間、父と母の暮らしている家に居た。珍しく親心を出してきたのだった。
祖母が、孫の不在を必死に説明したのに……“浩一”を隠していると勘違いしたらしい。
祖母“冨美子”の話だと、自分が“浩一”を怒らせてしまったのなら謝るとまで言ったそうだ。
益々、会えなくなった。
彼女は違う高校に進学した。進学校に通う“浩一”とは次第に疎遠になる。
運が悪い女の子――そんな印象を持った。
彼女ほどの人なつっこさがあれば、ボーイフレンドぐらい簡単に作れるのに……思ってしまう。
「この子は、“浩”ちゃんの知り合い?」
手を繋いだまま“茉莉”が尋ねる。
優しい表情だったが、目付きだけは鋭かった。対抗心を剥き出しにした女の顔だった。
「後輩です……中学の時の部活の……」
親密な二人の関係。その言葉を聞き、“陽子”はくるりと背中を向ける。
停めた自分の自転車へと、トボトボと歩いて行く。
“愛”は一連の様子を眺めていた。父は酷いと思った。母が可哀想だった。
――でも……父と母は結婚した。二人は破局を乗り越えたのだ。
どうやって?
「“陽子”! どうしたの?」
帰宅した娘の、只ならぬ雰囲気に驚く母“素子”。玄関先で尋ねていた。
母の問いに答えずに“陽子”は二階の自分の部屋へと引きこもってしまった。
娘は泣かない子だった。小学校に上がった時から“陽子”の涙を見ていない。
否、娘は母親の自分に見せていないだけなのだ。
――あの日。
――あの時。
泣かない筈は無い。
繊細な娘が困難に立ち向かい困惑している。あの時と表情は一緒だった。
能面のような哀しげな表情を浮かべたままだった。
「あの人……綺麗だったな……」
自分の部屋の畳の上に仰向けに寝そべる“陽子”。
全てが上手く回らない。
――悔しい。
思いっきり涙を流してしまいたい。
先輩の思い出を、涙で流し去ってしまいたい。
――でも。
――‘あの時’に比べれば、何でもない!
高校三年生の春、父親が死んだ。
その時も泣かなかった。
母親を――力を無くした母を勇気づけていた。
だから――高校卒業後の進路には悩んだ。
母と娘の二人だけだったが負担は掛けられない。
一般大学への進学は諦めていた。
しかし、美術大学への推薦入試があった。
受けてみた。
不合格だった。
学科試験も面接も完璧だった。美術の実技で不合格を食らった。
ショックだった。この道で進もうと考えていた。進路に選んでいた。
自分を全否定された思いだった。
才能の無さを痛感した。
結局は、地元企業で接客のアルバイトしていた。
でも先日、クビになった。
お客さんとの会話の方が多くて、売り上げに結びつかないそうだ。
老いてきた母親に、これ以上負担を掛けられない。
賭だった。
“浩一”に頼ろうとした。あわよくば「永久就職」……考えなかった訳ではない。
甘かった。他人に幻想を抱きすぎていた。
5年の歳月。
自分の環境も大きく変化している。
まして、都会の大学に通う“浩一”は劇的に変化を遂げていた。
「……彼女なんだろうな……」
天井に向けて呟いた。
いっその事――
――死んじゃおうか。
不遜な考えが――黒い色が“陽子”の心に影を落とす。
その時。
机の上の写真立てが、風も無いのに手前に倒れた。
「!」
‘彼女’に気付かされた。
起き上がる。
「そうね! 負けるもんか!」
叫んでいた。
‘彼女’の分まで生きると誓ったのだった。
‘彼女’の短かった人生。
‘彼女’が出来なかった……恋。
可能ならば産みたいと思った。
‘彼女’を娘として。
叶えてやる!
「負けるもんかぁ!!」
もう一度叫んでいた。
――翌日。午前9時。
「“藤田”」
見慣れた表札だった。その隣には“陽子”の自転車が停まっていた。
呼び鈴を何度も押している。
「ハァーイ」
“冨美子”が出た。
「先輩はご在宅ですか!」
押しの一手しか残されていなかった。
「“浩”ちゃんは“茉莉”さんを観光案内してるわよ――」
“茉莉”とはあの女性の名前。
“冨美子”は優しく笑っていた。“陽子”は少し腹を立てる。
「――“茉莉”さんは、“浩”ちゃんの恋人でも何でもないわよ……」
そう言って“陽子”の肩に優しく手を載せる。
「え?」
“陽子”は厳しい顔で尋ねていた。
「“茉莉”さん本人に聞いたの……ま、“浩一”がどう思っているのかは知らないけれど……“茉莉”さんは9歳も年上。子供は相手にしてないわ……大人の女性よ」
「でも……」
手を繋いでいた。女の勘が、“陽子”に警鐘を鳴らしていた。
「その辺はキッチリしているの、“茉莉”さんは一人でホテルに泊まっているし、“浩一”は昼間の時間だけ案内すると言ってたのよ――」
優しく頭を撫でる。
「――安心して、“浩一”の……孫の‘お嫁さん’には“陽子”ちゃんが相応しいと思っているから……あの子も父親に似て鈍感だからね」
“陽子”は赤面する。耳まで赤くする。
‘お嫁さん’の単語は、破壊力がありすぎる。
――午後4時。
ホテルに帰り着いた“茉莉”に、フロント係からメッセージが告げられた。
二言三言会話をしている。
ラウンジのソファーに腰掛けていた“浩一”はその様子を眺める。
彼女はフロント脇の緑色の公衆電話に駆け付ける。
笑顔だった。営業用のスマイルでもない。
“浩一”は不安な表情で見ていた。
電話の内容は聞こえて来ない。相手は彼女を本当の笑顔にする人物だ。決して、“浩一”では無い。
長い会話を終えて、彼女は電話を切る。吐き出されるテレホンカードを愛おしそうに抱きしめていた。
そして、フロントで交渉している。フロントマンは余り良い表情ではない。
しかし、業務であるため何ヶ所かに電話していた。
“茉莉”が軽やかな足取りで近づいて来た。
「ごめんなさいね。急遽、横浜に戻ることになったの。だから宿泊をキャンセルしたの……」
笑顔だった。見たくはなかった。
彼女は自室に戻り荷物を纏めていた。
ホテル前にタクシーが到着していた。
「山口宇部空港ね――」
“茉莉”は運転手に確認していた。
ここ萩市からタクシーで向かうのだろうか? 大した金額になるはずだ。
「――羽田行きの最終便に間に合いそうなの。急ぐから……」
それだけを言って、彼女はキャリーバッグをタクシーのトランクに積み込む。
タクシーはボディの下半分が黄土色に塗られた車体だった。
「あの……」
“浩一”は、これ以上何も言えなかった。
「……じゃあ」
にこやかに去って行った。嵐の様な人だと思った。
勝手な人だと思った。
――午後5時。
自宅に帰り着く“浩一”。
玄関には見慣れない靴があった。ピンク色の可愛らしい靴だった。
落ち着いた色ばかりの中に、たった一つ映えていた。
玄関まで話し声が聞こえる。笑い声が漏れて聞こえる。“有村陽子”だった。
呆れる。とうとう家にまで上がり込んだのだ。
中学卒業時は、玄関で祖母と話し込んでいたそうだ。
客間の襖を開ける。
祖母が孫の顔を認めて、意味ありげな笑みを浮かべた。
「おかえりなさい」
ゆっくりと言葉を区切っていた。敗者を慰める言葉だ。
「あ、お邪魔してます。先輩!」
元気よく頭を下げていた。笑顔だった……何も言えない。
「可愛い子よね。婆ちゃんはこんな子が孫の嫁に欲しいわよ……早く、曾孫の顔が見たいのう……ゲホゲホ」
最後の方は、老婆の演技をしていた。まだ「古希」にも届かない年齢だ。矍鑠としていて、今でも仕事にも精を出している。
“浩一”は祖母の言葉を聞かないフリをする。
「あの……そろそろ帰ります……母の手伝いをしなくちゃならないので……」
“陽子”は立ち上がる。“浩一”は何故か彼女の足に目が行ってしまった。
今日は短めのスカートだった。すらりと伸びた細い素足を見つめてしまった。
「“浩一”! 送ってあげなさい!」
祖母はコチラを見ずにお茶を啜ってから言った。
夕刻なのだが、夏場なので日が高い。
“浩一”は客間の開け放たれた窓からの景色を見る。
「送ってあげなさい」
“冨美子”は念を押す。孫は折れた。
「ウチに送って貰うのは初めてですね」
“陽子”が明るくそう言った。自転車を押している。
自転車を走らせれば10分も掛からない距離だ。祖母は何を考えている! 帰ったら不満を述べようと考えていた。
二人は中学校の前に差し掛かる。
懐かしい……古き良き二階建ての木造校舎。奥の方の校庭では新しい建物の建設が始まっていた。
“愛”は鉄骨が剥き出しのままの建築途上の校舎を珍しそうに眺める。
そして、振り返る。黒衣の男は再びマントを深く被っていた。
「取り壊すのか……」
思い出も多い校舎だ。古くからの歴史もある。
“浩一”は惜別の感情を抱いていた。
「残念だけど……悲しい出来事じゃないんです――」
真っ直ぐに前を向いたまま“陽子”は言葉を続ける。
「――やがて、新しい校舎には私たちの後輩達が通うんです。その子達の新しい思い出の場所になるんです」
“陽子”の視線の先には学校の裏門が見えて来た。“浩一”は視線を落としてしまう。因縁の場所。
「あの時はごめん……」
5年間言えなかった言葉だった。やっと口にすることが出来た。
「いいんです――」
“陽子”は柔らかい表情になる。でも弱く見えた。小さく思えた。
「――私も悪かったんです。変な期待をして、先輩に重圧を与えてしまった……」
――キミは悪くない!
叫びたい。抱きしめて謝りたい。
あの時――不安が心の隙間から浸食してきた。瞬時に一杯になってしまった。
冷静に振り返っても……合理的な説明が出来ない心の変化だった。
あのまま……彼氏と彼女だったら……。
違う人生を歩んでいたかも知れない。
――取り戻せない。
“浩一”と“陽子”はゆっくりと歩く。
学校を過ぎたところで、彼女の自転車を代わりに押してやる。
突き当たり、大きな道に出る。左に曲がった。
橋が見えて来た。大きな河に掛かる長い橋だった。
橋の上は風が強い。彼女は髪の毛を抑える。
中学の通学路だった彼女には見慣れた風景だったのだろう。右方を見やる。
山間から海の方へ太陽が移動していく。
潮を含んだ海の匂いを感じていた。
「先輩……少し遠回りしても良いですか?」
右手で髪の毛を抑えたまま、彼女は聞いてきた。
「うん……」
“浩一”は頷いた。
その場所――“愛”はよく見知っている。
しかし、現在とは大きく状況は変わっていた。
今は新築の家々が建っている場所は、当時は夏みかんの畑だった。
その隣……。
「この場所なんです」
“陽子”は大きく手を広げて場所を指し示す。
空き地だった。砂利が敷かれていて簡易の駐車場になっていた。今は一台も駐車していない。
「ここが?」
“浩一”の声。確かに何も無い場所だった。
“陽子”はその場所に入り込む。誰かの所有している土地だ。正確には不法侵入となる。
「狭い場所でしょ――」
確かに……普通自動車を四台も停めれば一杯になる。
「――この場所に家を建てるのが……私の夢なんです」
“浩一”を真っ直ぐに見つめる。
「家を?」
彼の質問には答えなかった。
彼女は両手を拡げたまま――くるりと一回転半する。駐車場の後ろ……雑草で覆われた緩やかな土手を見やる。その上には線路が……単線の軌道が走っていた。
「ここには暮らしていたんです。確かに暮らしていたんです……四人の家族が……」
振り返る。彼女は胸の中心に両手を当てていた。
思い出が溢れて仕舞わない様に……大切に抱えていた。
萩バスセンター――9月初旬。
午後1時。
“浩一”の長い夏休みは明日で終わる。
無事に運転免許も取得した。
バスを待つ。傍らには“陽子”が立っている。
二人で夏休みを過ごした。濃密な夏休みだ。決して忘れない。
結局、“大原茉莉”から連絡はなかった。自宅の電話番号を伝えていた。向こうに着いたら電話する――その約束は破られた。
大型のバスが1番ホームに到着する。乗客は殆どいなかった。
“浩一”は乗り込む。
「じゃ! 先輩! 無事に着いたら電話下さい!」
乗り込み口――笑顔で手を振ってくれた。
彼は後方の席に座る。
「コンコン」
窓を叩く音。下を見ると“陽子”が居た。手を振っていた。
バスが出発する。
“陽子”はくるりと振り返る。彼を見送らなかった。
次に会えるのは何年後だろうか? 考える。
――新しいバイトを探さないと……現実に引き戻される。
甘い時間が終わった。
街の音が消えた。
――さみしい。
胸に手をやる。
寂しさで心が満ちてしまった。口から溢れ出てしまいそうだ。
街から色が消えた。
灰色の景色だ。
――あいたい。
顔に両手を当てる。
翼があれば今すぐにでも追いかけたい。空を飛びたい。
「“陽子”!」
名前を呼ぶ声が聞こえた。ソラミミなのだろう。
音が戻って来た。
バスセンター近くの店。ラジオなのだろうか……歌が聞こえて来た。
「“陽子”!!」
もう一度聞こえた。今度はハッキリと聞こえた。確信する。
ゆっくりと振り返る。
バスの後部が見えた。「小郡駅(新幹線口)行き」の表示が見える。
クリーム色の車体に赤とオレンジのライン。
色が戻っていた。
バス停でない場所に停車していた。本来とは違う場所で乗客を降ろしていた。
大きなスポーツバッグを抱えた“浩一”が歩道に立っていた。
空を飛んでいる思いだった。
車のクラクションが聞こえる。ブレーキの軋む音がした。
強引に道路を横切った。
危険な行為なのは知ってる。
“浩一”の慌てる顔が見える。驚いてバッグを落としていた。
全てが愛おしい。
彼の拡げられた腕の中に飛び込む。
抱きしめられた。強く抱きしめられた。
「いつかの答えを……言い忘れた――」
そう言って“浩一”は“陽子”にキスをする。
バスが長くクラクションを鳴らして出発した。
二人の様子は、ミラーから運転手に丸見えだった。
長い長いキスをする。
キスに慣れていない二人は、息苦しくなり唇を離す。
「――横断歩道じゃ無い場所を渡るのはあぶな……」
彼の言葉をキスで遮る“陽子”。
思い出が蘇る。
二人の出会い。二人だけのクラブ活動。病院での出来事。
そして、卒業式。
――この夏の思い出。
浴衣の二人が出かけた花火大会。
夏祭り。海水浴。七夕飾り。盆踊り。
これまでの空白を埋めるように二人きりで出かけた。
「私のファーストキスです! 先輩! 責任を取って下さいね――」
またキスをする。
何度目のキスだろうか?
“浩一”は数えるのを止めた。
「いつか……」
キスをしながら囁いた。
『Someday』(サムデイ)は1981年発売の「佐野元春」さんの4thシングルの曲です。
1982年発売のアルバム「SOMEDAY」に収録。アルバム「No Damage」や「Moto Singles 1980-1989」などにも収録されています。
有名すぎる曲なので、皆さんもご存じでしょう。この曲もアレンジが多い作品ですが、私はシングル盤のイントロに車のクラクションなどが入っているバージョンが好きです。
「いつか……」若さ故に、くすぶっている思いをスローテンポに歌い上げている名曲です




