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#08「ジャスミンガール」

この作品のタイトル名・サブタイトル名は、歌手の「佐野元春」さんの楽曲名を使用しています。次回以降のサブタイトル名も同様です。

文章内では歌詞は引用していません。しかし、簡単な単語は用いてます。名詞・固有名詞程度です。


   #08「ジャスミンガール」



 “愛”には始めての風景だった。

 線路を電車が駆け抜けていく。ステンレスの車体に赤いライン。「急行 海老名行き」この文字を見て神奈川県を走る私鉄だと気が付く。

 遮断機が上がり、女性が足早に踏切を渡る。直ぐそばを車が走っていく。

「綺麗な人」

 “愛”の感想だった。

 そして見知らぬ顔だった。


 女性は長い自分の髪の毛を抑えていた。電車の風圧で舞い上がるのを防いでいた。踏切を通過した後も、風が残っていた。

 その女性は疲れた顔で歩道を足早に歩く。表情は殆ど無かった。能面のよう――綺麗な人なのに勿体ない――“愛”は思う。


 “愛”は後ろを振り向く。黒マントの男は矢張りそこにいた。

 珍しく、頭を覆うフードを降ろしていた。端正な顔立ちがハッキリと見える。優しげな顔だった。女性を見つめていた。


 この女性は誰なのだろうか? 見当がつかないでいた。


「おまたぁせぇ~」

 住宅街の一画。裏手のドアを開けて店に入る。女性に表情が戻る。口調からも気さくなお姉さんの印象を与える。

「お弁当屋さん……」

 “愛”は呟いた。そこは持ち帰り弁当の大手チェーン店だった。

「遅かったわねぇ~」

 パートタイムの一人の女性が嫌味な口調で話す。

「もう~“茂子”さんたら~」

 笑顔の表情を変えず。嫌味をサラリと受け流す。

「“茉莉まり”さん! 厨房お願いね!」

「ハァーイ!」

 “茉莉”と呼ばれた彼女は、元気よく返事をする。

 白いエプロンを身につけ、三角巾を頭に被る。

 土曜日の昼の12時を回った時間帯。近くには会社の独身寮や学生アパートが建ち並んでいる。

 ひっきりなしに続く客に、店員達もきりきり舞いさせられていた。


「じゃあご苦労様……」

 ――午後2時

 店員の大半が帰っていた。

 店舗兼住宅のこの店の店長が、そう言って自宅に引っ込んだ。

「ふぅ……」

 店番を任された“大原おおはら 茉莉まり”は、ため息をく。他のパート連中とはソリが合わないと実感していた。

 今日はパートの一人が休みのために、急遽ヘルプとして2時間早く呼び出された。


 月曜日~土曜日。14時~19時までのパートタイム。途中、細かな休憩時間が入る。

 今の時間帯は客もまばらなので一人で店番となる。

 17時過ぎからは再び忙しくなり、店長を始め新たなパートさんがやってくる。


 店の前、緩やかな坂道を黒煙を上げてダンプカーが通過していく。

 店のカウンターに両肘を付いて、あごを抱えて見送る“茉莉”。

 気が付くと目の前には客がいた。背の高い若い男性だった。

 この店は小規模な店舗である。

 カウンターの外は直ぐに歩道だ。雨よけの大きな屋根がある程度。


「よう! 学生さん!」

 “茉莉”は気楽に客に声を掛ける。

 “愛”は気が付く。その客は、若かりし頃の父“浩一”だった。

 大学生なのだろう。神奈川県内の国立大学に通っていたと聞いたことがある。

「か、唐揚げ弁当大盛りで……」

 それだけを喋る。耳まで赤くなっていた。

「大盛り唐揚げ弁当、一丁ね」

 そう言って“茉莉”は厨房に引っ込む。業務用の大型冷蔵庫からバケツ型の容器を取り出し、中身をトングでつまんでフライヤーに投入する。

 直ぐさま、白い発泡スチロールの容器にご飯をしゃもじで盛りつける。大盛りのリクエスト通りにギュウギュウに押し込む。体格の良い“浩一”に合わせるように。

 もう一方の容器にキャベツの千切りと、付け合わせの柴漬けを盛りつける。後は、生姜醤油で味付けした鶏肉が揚がるのを待つだけだった。

 手際の良い一連の作業を、興味深く見つめる“浩一”。


 この店の常連客だが、彼女が担当する揚げ物が一番美味しいと思っていた。フライパンを奮う牛焼き肉弁当も格別だ。ともかく、彼女がお気に入りなのだ。

 昼過ぎまで空腹を我慢して我慢して、彼女が一人になる時間帯を狙う。

「学生さんは、夏休みは郷里いなかに帰るの?」

 どうでもいい世間話だ。いい加減名前を覚えて欲しいと思っている。

「ええ」

 “浩一”は、はにかむ。

「えっと……広島だっけ?」

 彼の個人情報は、重要な事項では無いらしい。

「いえ……山口県です……」

 顔を赤くして答える。

「ごめん! ごめん! 君みたいに体格良い子で広島出身の学生さんが居たのよ!」

 そう言って振り返る。急いで厨房奧のフライヤーから唐揚げを取り出す。揚げに適した時間を体が覚えているのだ。その後、少し時間を置く。

「山口県かぁ~。‘萩’とか有名だよね……」

 再びカウンターに顔を出す。

「その萩市出身です」

 それを聞き、再び引っ込んで盛りつけを始める。

 弁当を白いビニール袋に入れて差し出して来た。

「萩市かぁ~行ってみたいわねぇ~。良いところなんでしょう? あ、そうそう大盛り唐揚げ弁当400円になります」

 “浩一”は100円玉を4枚――彼女の手のひらに載せる。


「あの……コレ……」

 “浩一”は気が付く。明らかに注文していない品が袋の中に入っていた。取り出して突き返そうとする。

「いいのいいの。そのポテトサラダはお昼で賞味期限切れだから……オマケオマケ。受け取っておいてね」

 にこやかに笑いかけてきた。

「そうですか……ありがとう……」

 ――ございます。そう言う前に“茉莉”は――

「お買い上げありがとう! 又、来てよね――“藤田浩一”くん!」

 名前を覚えていてくれた。手紙を渡していたのだった。

 彼の、初めてのラブレターである。


 一目惚れだった。

 店頭で気さくに笑いかけられて、恋に落ちた。

 ――雰囲気は誰かに似ていた。そうだ“有村陽子”……。

 顔付きは全く違っていたが、自分では話しやすい印象を持っていた。


 “浩一”はアパートの部屋に戻る。

 古い木造二階建て。六畳一間にキッチンだけ。料理は殆どしない。ガスコンロではお湯を沸かす程度だ。

 トイレは自室にあるが、風呂は無い。

 仕送りとアルバイトで暮らす身分なので贅沢は言えない。


 大学も国立大学にどうにか合格した。

 バイトも先週で期限切れになった。夏休みが終わったら新しいバイトを探さないとイケナイ。

 夏休みにはずっと帰省する予定だった。今は大学二年生。祖母がお金を出してくれるので、自動車学校に通って運転免許を取得する予定だ。

 申し出に素直に甘える。以前の自分だったら、祖母に対しても頑なに断っていただろう。自分の心は変化していた。成長なのだろう。

 大学でも友人が大勢出来た。


「……萩市かぁ~行ってみたいわねぇ……」

 “大原茉莉”の言葉を思い出す。社交辞令だとは思う。でも、思い切って誘ってみようか……。我ながら大胆だとは思う。ラブレターの返事も貰えないでいるのに……。



 ――午後4時。


 休日なので早めに銭湯に向かう。シャンプーと石けん――安全カミソリとタオルが入った透明の手提げ袋を持って出かける。

 現金は最小限だけを小銭入れに入れている。入浴券を持っているので風呂上がりの牛乳を飲むだけだ。


 銭湯に向かうには、少しだけ遠回りして弁当屋の前を通る。

 店頭に“茉莉”の姿は確認出来なかった。客はいないので店の中の厨房を覗く。矢張りいなかった。トイレ休憩なのだろうか?


「帰って!」

 “茉莉”の大きな声が聞こえた。店の裏手、勝手口の方向だった。

 興味本位で覗き見してしまった。彼女には悪いと思う。

 背の高い――痩せた男が立っていた。顔が見える。30歳代半ばぐらいだろうか。少し強面こわもての顔立ちだった。同時に冷徹な印象を与える。

「まぁそう言わずに……“茉莉”……」

 男は彼女に茶封筒を手渡した。かなりの厚みがある。

「イラナイ!」

 彼女の拒絶だった。封筒は地面に落ちて“浩一”の足元に転がる。蓋が開いて大量の現金が飛び出していた。


「!」

 二人と目が合った“浩一”は咄嗟に駆け出していた。彼女の見てはいけない一面を垣間見てしまった。取り返しが付かない。好奇心猫を殺す――だ!


 背中を向けて遁走した。その時思う。彼女は困っていた――助けないでどうする!

 もう一人の自分が頭の中で確かに囁いた――声を聞いた。


 立ち止まり、引き返す。

 二人は未だに揉めていた。

 金の入った封筒を無理に手渡そうとしている。


 男が“茉莉”の腕を掴み、封筒を押しつけようとしていた。

「やめろ! “茉莉”さんが嫌がっているじゃないか!」

 思ったよりも大きな声が出た。

 男は驚いた顔で“浩一”を見る。長身の彼よりも更に背が高くて体格も立派な“浩一”に、一瞬尻込みをしていた。

「何だと!」

 相手は20歳の若造だ。簡単にあしらえると感じたのだろう――威圧感を出して来る。

「どうしたの? “大原”さん?」

 騒ぎを聞きつけたのか、店長が店の勝手口から顔を出す。

「きょ、今日は帰る……」

 今は形勢不利と踏んだのだろう。男は封筒を持ち、細い路地に停めてあった自分の車に乗り込んだ。

 白のトヨタマークⅡ――マフラーを改造しているのか、大きなエンジン音だった。アクセルを吹かせて急発進する。走り去った。


「店長……済みません……」

 “茉莉”は深く頭を下げる。

「いいのよ……何か困ったことがあったら……言ってね」

 店長の顔からは、厄介ごとを持ち込まれては御免だ――と読み取れる。再び騒ぎを起こせばクビにするつもりなのだろう。

「キミもありがとね……。ん? これから銭湯?」

 “茉莉”は“浩一”の手荷物を認めてそう言った。

「あ、はい」

 それを聞き、彼女は少し考える。

「7時には仕事終わるからさ、店の前で待ってて欲しいのよ――」

 そう言って頭を下げる。手を合わせてきた。

「アイツが待ってるかも知れないからさ……」

 苦々しい表情を浮かべた。

「い、いいですよ……」

 そう言って“浩一”は了解する。



「おまたせぇ~」


 ――午後7時5分。


 “大原茉莉”は店頭でのエプロン姿から、普段着に戻っていた。地味なクリーム色のワンピースだった。

 30分前から店の前に立っていたが、男が現れる気配は無かった。

「いえ」

 短く“浩一”は答える。

「ところでさ、キミの家に行ってもいいかな?」

 彼女の申し出に正直驚く。今からは、彼女の家までのボディーガードを務めるつもりだった。彼女の騎士ナイト気取りだ。

「ええ?」

 大きな声が出た。

「アイツが……ウチの前で待ってるかも知れないし……」

 彼女は“浩一”の左腕に掴まってきた。

 初めて女性と腕を組んだ。“茉莉”の右胸が軽く当たってくる。それに気が付かないフリをする。冷静に振る舞う。



 “浩一”のアパートは弁当屋からは徒歩5分の距離だった。

 金属製の外階段を昇る。彼女の靴がコツコツと大きな音を立てていた。一番奥の角部屋。ドアの横には、まだ新しい洗濯機が置いてあった。

 ドアの鍵を開ける。少し手が震える。

 木製のドアだが、蝶番の部分が錆び付いているのか大きな音がした。

 “浩一”の心臓も高鳴る。


 部屋の明かりを点けた。

 “浩一”は先に部屋に入る。少し散らかっているゴミを片付ける。

「じゃあコレ……二人の晩ご飯ね」

 “茉莉”は弁当の白い袋を二つ下げていた。

 思ってたよりは片付いている。“茉莉”はそう感じていた。

 小さな玄関で低いヒールの靴を脱ぎ、ストッキングのまま部屋に上がる。

「あ、適当に座ってて下さい……お茶を出しますから」

 来客用の座布団など無かった。低い黒い卓台があるだけだ。

 彼女はその前に正座する。


 薬缶やかんに水を入れる。

 座っている彼女のすらりと伸びた足に目線が行く。肌色のストッキングの下には所々痣が見えた。仕事の所為なのか、それともあの男……これ以上は想像しないことにする。


「綺麗に纏まってるジャン!」

 “茉莉”は部屋を見渡す。若い女性が、この部屋に入ってきたのは初めてだった。

 調度品は殆ど無い。横に倒した三段カラーボックスの上に14型のブラウン管テレビが載っている。VHSの小型のビデオデッキがテレビの下にあった。

 カラーボックスの中にはビデオテープが数本並ぶ。ラベルは貼っていない。雑誌が数冊並んでいる。

「何も無いですから……」

 確かに家具らしい物は殆ど無かった。


 暫く沈黙が続く。


 薬缶が音を立てていた。お湯が沸いた。急いで急須に注ぐ。急須と湯飲みは‘萩焼’だった。祖母が知り合いの窯元から譲って貰った品物だった。

 商品として出荷は出来ない焼き物だが、本来なら高級品に分類される。

 陶器の表面に釉薬のムラが見られる。微細なひびも入っている。端が欠けている。


 低いテーブルに、湯飲みを二つ置いてお茶を注ぐ。茶葉は安物だったが濃く入れている。


 “茉莉”が二つのお弁当を拡げてくれた。

「豪華にステーキ弁当にしてみました。キミのはご飯大盛りだよ。それに今回はマカロニサラダだよん」

 始めて目にする豪勢な品目だった。普段購入する金額の倍以上はする。

「あ、どうも……」

 お金のことは言い出せなかった。払うと言うべきなのだが……。

「大丈夫。今日は助けて貰ったから……そのお礼……」

 片目を閉じた。

「い、いただきます……」

 “浩一”は手を合わせる。

「いただきます」

 “茉莉”も小さくそう言った。


 彼女は意外な程に大きく口を開けてステーキ肉をほおばっていた。見つめる“浩一”の視線に気が付いたのか、少し顔を赤くする。

「あ、済みません……」

 謝ってしまう。相手に気を遣わせてしまった。

 若い女性との食事も始めてだった。

「いいのいいの……私は食べ方が男みたいって、言われてるのよ――」

 再び大口でご飯を放り込む。確かに豪快だ。更に、お茶を大きな音で啜っている。

「――キミの方が女の子みたいだよ……」

 肉を小さくかみ切って小口で食べていた。しばらくは食事を他人と摂ってはいなかった。気恥ずかしかった。食事風景を見られるのは、何故か恥ずかしい。

「そ、そうですか?」

 “浩一”は相手の目を見る。心の中を覗かれている気分だった。


「キミは、意外と繊細なんだね。私の方が勝手に大胆だと思っていたよ……初めて合った――その翌日にはラブレターをくれるんだもん……心臓がドキドキだったよ」

 胸に手を当てていた。小さめな胸のサイズだった。

 見つめてしまう。胸が激しく上下していた。彼女の手にも目が行く。白くて細くてか弱い手だった。爪の根本がささくれていた。透明のマニキュアだけを塗っている。

 右手の中指に銀色の指輪をしている。


「あの……て、手紙の返事は貰えないんでしょうか?」

 箸を置いて尋ねる。彼女は食事を続ける。

 ずっと思っていた事だ。

「答えは……食事を終わってからね」

 意味ありげに、ゆっくりと片目を瞑った。



 台所で彼女が洗い物をする音が聞こえる。TVを付けていたが内容は頭に入ってこない。

 流れる水の音が止まる。湯飲み茶碗を布巾で拭き上げる音が聞こえた。


 “茉莉”がゆっくりと戻って来た。胡座姿の“浩一”の直ぐ隣に畏まって座る。

「今日は、泊めて欲しいの……」

 甘い声で囁いてきた。

 “浩一”は固まる。この申し出の予測は出来た。

「それが、手紙の答えなんですか?」

 彼女を見つめる。“茉莉”が顔を近づけて来た。“浩一”は目を瞑った。唇に生暖かい感触があった。初めてのキスだった。

「キミお風呂入ってきたよね。お布団を敷いといて……部屋を暗くして……」

 ――彼女の打算だ。

 “浩一”はそう思うことにした。

 一夜の宿を提供する。その代償だけなのだ。


 押し入れを開けて布団を敷く。

 朝、起きがけに突っ込んだままだった。敷き布団に薄い毛布と枕がくるまれている。拡げるだけだった。

 蛍光灯を消し、オレンジ色の予備灯が灯る。


 衣擦れの音がした。服を脱ぐ彼女の方向は見られなかった。視線を向けることが出来なかった。


「キミも脱いで……」

 “茉莉”は背中に抱きついて小さく言った。言葉とは裏腹に“浩一”の服を脱がして来る。

 彼女の素肌が触れてきた。向き直り、正面から抱きしめる。

 細くて小さな体だった。

 壊してしまわないように、ゆっくりと布団に横になる。

 少し湿っていて、冷たい布団の感触だった。

 それと反比例するように、抱きしめた彼女の身体はとても熱かった。



「何が見せたいんですか!」

 “愛”は苛立ちげに黒衣の男を見る。

 ――男女の行為が始まった。

 男の顔が笑ったように見えた。


 “愛”は背中を向ける。耳を塞ぐ。


 女の声が怖かった。

 それよりも、母とは違う女性と愛を確かめ合っている父親など見たくはなかった。

 軽蔑はしない……。

 でも!

 耳を塞ぐが声は聞こえてくる。獣の声だった。

 ――“愛”には苦痛でしかなかった。



 “愛”が目を開くと朝になっていた。


 二人は服を着込んでいた。

 女の方は、座る父親にしな垂れかかっている。父の胸に顔を押し当てている。

「済みません。お風呂が無くて……」

 彼女の髪を撫でてやる。

「いいの……私……汗臭くは無いでしょ――」

 小声で言った。父の顔が赤くなる。汗臭いのは彼の方だった。

 開いた窓から風が吹き込む。

 TV横の目覚まし時計は午前5時を指し示していた。


「――ウチに帰るわ。シャワーを浴びるの……キミも来る?」

 “浩一”を見上げる。彼は頷いた。二人はキスをする。



 二人は肩を寄せて合って駅の方向に向かう。早朝のため誰も歩いていない。初夏であるのですっかりと明るい。

 踏切に差しか掛かる。回送電車が通過していった。二人して見送る。風で“茉莉”の髪の毛が大きく舞う。


「これが手紙の答えなのよ……」

 遮断機が上がる。警報音が途絶えると、彼女はそう言ったのだった。

「え?」

 顔を見る。彼女からは表情が消えていた。


「私は……こういう女なの。昨日のアノ男がいたでしょ――」

 正面を向いたまま話を続ける。“浩一”は身を固くする。

「――心配しなくていいわ。アノ男はチンピラ以下……キミには嫌がらせとか――してこないと思うよ」

 そう言って立ち止まる。電柱の影に隠れて、正面の高級マンションの様子を伺っていた。茶色いタイルの外壁。その中に彼女の自宅があるのだろう。

 昨日の男は居ない雰囲気だった。白い車も停車していない。


 彼女は足早にマンションの玄関に入る。

 鍵を差し込みオートロックの自動扉を開けたままにして、手招きする。

 “浩一”も続く。


 エレベーターに乗り込む。再び“茉莉”は体を密着してきた。



 “浩一”は部屋に案内されて見渡す。

 女性が一人で住むには大きすぎる部屋だった。リビングに通される。ダイニングキッチンとの一体型だった。その他にも二部屋ある。その一つが彼女の寝室なのだろう。


「立派なマンションでしょ――」

 そう言ってリビングの高級そうな革のソファーに腰掛ける。薦められるまま“浩一”は横に座る。

「――この家だけが私の全て――」

 哀しそうな顔になった。

「――変でしょ。立派なウチに住んでるのに、お弁当屋でバイトしてるの……」

「いえ……」

 それしか言えなかった。


「このマンションは手切れ金の一つ……。アノ男がいたでしょ……その父親に買って貰ったの――」

 雲行きが怪しくなる。

「――私は、以前は会社勤めをしてたの……。小さな会社よ……そこの社長の愛人になった。社長は私に飽きたのか、新しい愛人が出来たのか、息子に押しつけようとしたの。嫌な男達だったわ……父子おやこ揃ってね。でも私は、息子の方の子供を身籠もってしまった――」

 遠くを見つめている。彼女の身の上話。20歳の“浩一”にとっては重すぎる内容だった。

「――アノ男、結婚していたのよ。奥さんが私の職場にまで乗り込んできたわ。その社長の息子は会社で専務をしていた。そして、私は会社にいられなくなって辞めてやった。アノお金は中絶した費用と手切れ金のつもりなのよ」

 “茉莉”は自分の下腹部を押さえた。


「……」

 “浩一”は黙り込む。笑顔の素敵な彼女とはかけ離れた一面。

「そう……私は人殺しなの。お金のために、好きでもない男と寝るの。こんな女をキミは好きだと行ってくれた。正直……嬉しかった――」

 彼女は抱きついて来た。拒めなかった。

「――キミの事をもっと知りたい。私みたいな女はだめ?」

「いいえ」

「そっかー。キミはイイ子だね。キミの故郷を見てみたいね」

 彼女の顔に表情が戻った。


 “愛”は黙ったまま二人を見つめていた。




『ジャスミンガール』は1990年発売の「佐野元春」さんの27thシングルの曲です。

1990年発売のアルバム「Time Out!」に収録。「No Damage Ⅱ」や「The 20th Anniversary Edition」などにも収録されています。

これまでは、少年が憧れる女性のイメージが多かったのですが、この作品では大人の男性が等身大の大人の女性に恋するミディアムテンポの曲です。

因みに「ジャスミン」を漢字で表記すると「茉莉花」となります。

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