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#06「Sugartime」

この作品のタイトル名・サブタイトル名は、歌手の「佐野元春」さんの楽曲名を使用しています。次回以降のサブタイトル名も同様です。

文章内では歌詞は引用していません。しかし、簡単な単語は用いてます。名詞・固有名詞程度です。


   #06「Sugartime」



「面白い絵ですね――」

 放課後の中学校の美術室。古い木造校舎の教室のためか、全体のトーンが暗かった。

 教室の窓際の棚の上には、石膏製の彫像や立体図形が並んでいる。

 窓が全て開け放たれて、白いレースのカーテンが風に揺れていた。

 午後の日差しが教室の奧にまで差し込んでいる。石膏像が長い影を教室の板張りの床に落としていた。

 スケッチブックに絵を描く事に集中していた“藤田浩一”は、後ろから急に話しかけられて驚く。両肩が大きく上下する。この反応は明らかに不審者の行動に思える。

 “浩一”は鉛筆の粉で汚れないように、学生服の上だけを脱いでいてワイシャツの腕の部分を捲っていたのだった。割と毛深くて筋肉質の腕が覗いていた。

 彼は、驚いてフリーズしていた。体が硬直したままなので、首だけをゆっくりと後ろに向ける。


「――驚いちゃいました? えへへ……」

 始めて見る顔だった。二年生の女子生徒である。上履きのゴムの部分が赤色だった。

 同じく美術部員なのだろうか? 目線が合ったので反射的に下に落とす。


「面白い……」

 彼女の言葉が引っかかる。ゆっくりと手を伸ばす。自分のクロッキー画と石膏像とを眺めて比べてみる。確かに下手くそな絵ではあった、そもそもパースが狂っているのだ。ギリシャ人だかローマ人の彫りの深い顔立ちの胸像だが――どうしても東洋人にしか見えない素描だった。

 でも、他人から指摘されると無性に腹が立つ。


「すみません……言い過ぎました。でも、変わった絵ですね。私は好きですよ」

 容赦ない言葉が投げつけられる。その中で「好き」という言葉が引っかかった。女性からは始めて言われた言葉だった。全く変な女だ――と、その時は思った。


 静物画の鉛筆スケッチの手を止めて、今度は女子生徒に正対する。やや、ぶっきらぼうに言葉を発した。

「何か用事?」

 女子生徒は苦笑いを浮かべていた。綺麗な白い歯を見せて笑っていた。

「これを提出に――来たんですよ!」

 そう言って、彼女は丸めた画用紙を拡げ水彩画を見せて来た。

 風景画だった。観光ガイドブックでよく見かける――地元の城下町の町並みを切り取っている。

 水彩画の中では雨が降っていた。

 ――陰鬱な印象を受けるかと思ったが、優しい雨だった。優しい色使いだった。

 全てを慈しみ尊び、包み込む雨だった。


 美術部の顧問の教師は不在だ。否、正確には兼務の女子軟式テニスの顧問の方が忙しくて常時不在なのだが……。顧問は美術教師であるが、むしろこちらのクラブの方が片手間なのだそうだ。

 美術部はおおらかだった。何回かある課題の提出さえこなしていれば、後の行動は自由だった。


 美術部の大半は幽霊部員である。課題提出期限になって、ようやく部活動は賑やかになる。次回提出期限には一ヶ月の猶予がある。唯一活動している部員は自分一人だった。

「あそこに置いとけば」

 乱暴に隣の美術準備室の扉をあごで示す。顧問の机があるので、その上がいつもの提出場所だった。


「そうします~」

 先輩部員の機嫌が悪いのを察したのか、彼女はそそくさと準備室の扉に向かう。木製のドアを開けようとしたその瞬間――

「私、二年三組の“有村陽子”といいます。宜しくね……先輩!」

 こちらに向いてペコリと頭を下げてお辞儀する。飛び切りの笑顔で自己紹介をしたのだった。

「う、うん……。よ、よろしく……」

 圧倒されて返事を返す。彼女が少し笑ったように見えた。


「何なんだよ――アイツは!」

 そう呟いた後に、“陽子”が準備室から出てきた。

「丸まりが取れないよ……」

 しきりに首を傾げている。

 そういえば、水彩画の提出期限は先週末のはずだった。提出期限間近には自分はクラブ活動に出ないことにしている。だから、彼女と遭遇してしまったのか。


 これまでの一連の二人の会話を“愛”は興味深く見つめていた。

 既に取り壊されてしまって久しい旧木造校舎一階の美術室。写真だけは眺めて知っている。内部には初めて踏み入っていた。

 この場所は今では更地となり、中学校のグラウンドの一部になっている。

 二人は中学生時代の父親と母親だった。二人の初めての出会いなのだろう。馴れ初めだ。

 そして、若かりし頃の母親は自分そっくりの容姿だった。

 今と違い髪の毛が長い。後ろで束ねてポニーテールにしていた。


 中学時代の母親――“陽子”はわざとらしく“浩一”の直ぐ右隣の席に座り、学生鞄からスケッチブックと缶ペンケースを取り出す。

 画帖は学校の購買部では販売していない高そうで厚い表紙だった。

「オホン」

 “浩一”は、右横に座った“陽子”を睨みつけ咳払いを一つする。彼女は何もなかったかのように、スケッチブックに鉛筆で何かを書き始めた。

 漫画だった。

 彼女の行動が次の課題の静物デッサンで無いことに、驚くと共に呆れてしまう。


「帰るんじゃないのかよ?」

 良く解らない苛立ちを彼女にぶつける。彼女が隣にいるだけで気持ちが落ち着かない。

「ご、ごめんなさぁーい。でも、〆切りが迫ってるんですよ」

 妙に芝居がかった口調だった。

「漫画家かよ!」

 ――と、突っ込みたくなったが真剣に描いている姿を見て思いとどまる。

 今までの――にこやかで柔らかな表情とは打って変わって直向ひたむきな姿に感心する。

 打ち込める事が有る――羨ましくも思う。

 再び彼女の顔を観察する。

 整った顔立ちだった。可愛いと呼ぶよりも美人のタイプと言える。

 大きめの二重のまなこと、長い睫毛が印象的だ。

 黒髪を後ろで束ねている。黒髪と形容したが、少し茶系の色だ。光の当たる部分は金色に輝く。

 

「ま、嘘なんですけどね……」

 こちらを向かず、生真面目な表情のまま小さく舌を出す。

「嘘!?」

 人を食った態度に呆れかえった。彼女の顔を眺める。

「ただの趣味ですけどね。描き描き描き……」

 そう言って彼女は、作業に再び没頭する。

 でも顔には見惚れていた。正直、好みのタイプの顔だったからだ。

 似ている女優がいたことを思い出す。女優の名前は失念した。

 古い日本映画の女優だった。モノクロ映画の登場人物だった。


 そのままの緊張感を保ったまま30分の時間が経過する。

 鉛筆を走らせる音だけが聞こえていた。


「鍵を閉めておいてくれよ」

 “浩一”は、赤い表紙のスケッチブックを閉じて立ち上がる。

 入り口脇に吊してある真鍮製の古びた鍵を指さした。

「え~帰っちゃうんですかぁ~?」

 不満そうな声を後ろに聞くが、振り返らずに出て行った。

 美術室を後にする。

 しかし、美術準備室に立ちより、彼女の水彩画の反りを直すためにガラス板を乗せておく。



 ――翌日のクラブ活動。


 美術室の引き戸を開けるなりぎょっとなる。昨日の女子生徒“有村陽子”がそこに居たのだ。静物デッサンのモチーフの彫像が、長テーブルの上に用意してある。彼女はそちらを見ないで、昨日の漫画家作業の続きをしていた。

「漫画を描くなら、家でやれよ……」

 小声で呟き離れた席に座る。この位置では昨日とは石膏像の見える角度が違っている。像の位置を直す。

「私の勝手でーす」

 彼女はそう言い切った。

 喧嘩を売っていると解釈した“浩一”は、無言でデッサン作業に集中する。


「お話しませんか?」

 下級生の唐突な申し出に驚く。彼女は――“有村陽子”は、元来無口な自分とは正反対のタイプの人間だと認識している。

 他人と仲良くならずには居られない。お節介な人種だ。迷惑なだけだ。

「別に無いよ……」

 ぶっきらぼうに言い切る。女性は苦手だった。否、他人という存在全てが不得手である。人間が嫌いなのだ。そんな人間と話すことなど無い。


「そんなぁ~。殺生なぁ~」

 ふざけた口調に苛立ちが募る。その表情の変化に気が付いたのか、今度は真面目な顔と口調で顔を近づけて来た。

「先輩の事、知りたいんです!」

 上目遣いにこちらを見てくる。“浩一”は反対に目線を下に向ける。結果、彼女のセーラー服の胸元に眼が行ってしまう。胸当てがあるので思ったよりもふくよかな胸の谷間を見なくて済んだが。

 熱心な話ぶりに圧倒されっぱなしだ。何故――彼女が自分に興味を持ったのか? 全く理由がわからない。見当が付かない。


「何を知りたいんだ?」

 ぶっきらぼうな口調に“陽子”は首をすくめる。しかし、怯まずに直ぐ右隣の席に移ってきた。

「色々と……」

 半ば諦めて、彼女の質問に答えることにする。


「大きいですね……身長は幾らぐらい?」

 彼女は“浩一”の頭の先に手を伸ばす。

「178センチ……」

「へぇー大きい! じゃあ、運動とか何かやってるんですか?」

 手が降りてきて、背中を触ってきた。肉付きを確認している。

「特に……」

 体の向きを変えて、“陽子”の魔手から逃れる。

「どうして美術部に入ったんですか?」

 彼女と正面から向き合うことになる。

「楽だから」

 目を逸らす。

「本当に、つれないですね」

 窓の外に視線を移す。校庭では軟式野球部がランニングをしていた。

「うん」

 会話が途切れてしまった。暫くの間、沈黙の時間が流れる。


「人と話すのは嫌いなんですか?」

 その質問を無視する。沈黙が質問の答えなのだ。

 彫像のスケッチに没頭したいのだが、隣が気になって作業に集中出来ない。

 その時、良い匂いがした。

 匂いの発生源は右隣に佇む人物だ。

 女性の傍らに長時間居たことなど過去にも経験がない。シャンプーの香りなのだろうか? 開け放たれた窓からの風に髪の毛がたなびいている。陽光に照らされてキラキラと光る。


「人間が怖いんだ……」

 彼女に聞こえないような小声で、自分の心の中身を吐露する。今まで誰にも言った事はない。初めての告白だ。

 違う! これは――

 懺悔だ。


 彼女の端正な顔。見える方の左側の眉が少し上がったのが見えた。

 聞こえたのだろう……今度は彼女が言葉を無視する。


 無言のまま時間が過ぎる。


「何でもない……」

 先に言葉を発したのは“浩一”の方だった。

 ここで始めて“愛”は父親と同化していることに気が付く。

 考え方は父親そっくりだった。

 そうだ――自分は人間が怖いのだ。


「私は怖いですか?」

 彼女は“浩一”に向く。珍しく真顔のまま話しかけて来る。人当たりの良い表情は消えていた。怒っているのかもしれない。

「……」

 暫し沈黙する。

 美術室の掛け時計に目を移す。部室に入ってから10分も経過していない。苦痛の時間は無限に続くと思われた。

「私も……初めて会う人は怖いです。でも、話してみて――その人を知って――怖さも薄れていく……」

 彼女の表情が和やかな方向に変わった。

 彼女を問い詰めたい!

 何故かそんな欲望が湧く。


「じゃあ……君に聞く。森の中で熊に出逢った――熊は怖い――人間を襲うから。山の中でまむしに遭遇した――蝮は怖い――毒を持っているから……。人は自分にとって生命の危機を感じるから恐れるんだ――」

 珍しく熱く語っている自分を意識する。ゆっくりと喋っているが熱情を込めていた。

 自身のスケッチブックの上に唾が飛んでいるのも気にならない。

「――人食い鮫も虎もライオンも、人間を殺すから人間は怖いんだ。でも考えて見てごらん――過去の歴史を振り返れば、細菌やウイルスを除くと人間を最も殺してきた動物は――人間なんだ! その人間を恐れても不思議じゃないだろ!」

 口角泡を飛ばす。

 文字通り――口の端で唾が泡となり気が付かずに彼女の方向へと飛ばしていた。

 しかし、彼女は避けなかった。


 反論が――罵倒が帰って来ると思った。

 彼女は、半分開いていた柔らかそうな唇を閉ざす。

 言葉を用意していたのだろうが飲み込んだ。

 悲しそうな顔になった。多分、自分を哀れんでいる。“浩一”をさげずんでいる。

 彼女との関係が断ち切れたのだった。それでいい。清々する。

 逆に晴れやかな気分になった。


「それは詭弁です。屁理屈へりくつです」

 やっと発したのはその言葉だった。中学二年生では無理は無い。

 “陽子”はそれだけを言ってプィと横を向く。完全に怒らせてしまった。

「君は人間が好きかい? 人殺しの犯罪者も怖がらずに愛せるのかい? 戦場で殺戮を繰り返す兵士にも愛を注げるのかい?」

 言葉が止まらなくなった。自分の心のリミッターが外れてしまっていた。

 ムキになっている自分がいる。何故か彼女に――関係の無い下級生に食って掛かっているのか、自分でも説明できずにいた。彼女に対して攻撃している自分の気持ちが分からない。

 彼女は決して‘聖女’などでは無い。それは理解出来ている。

 自分を救済してはくれないのだ。


「多分……愛せません。怖くて近づけないと思います。でも……」

 彼女はそこで、言葉に詰まった。顔を見上げる。泣いているのかと思った。

 “陽子”はそこまで弱くは無かった。

「――でも?」

 彼女を追い詰める。永遠の決別の言葉だ。

「……でも……自分の家族だったら……恋人だったら……抱きしめてあげます。今のところは、答えはここまでです……」

 “有村陽子”はそれだけを言って、スケッチブックを閉じた。


 グラウンドから、野球部のノックの音が響いていた。

 美術室の中は静寂に包まれる。



 場面が変わる。

 陽子の自宅。


「お母さん……先輩は変なんだよ――」

 “陽子”は台所に立つ母親の“素子もとこ”に話しかける。母は割烹着姿だった。ガスレンジに掛かっている鍋からは、良い匂いが漂ってきた。

「――コッチがああ言えば、理詰めで追い詰めて来て……言い返せなくて悔しいの!」


 その時、“愛”は懐かしげに祖母を見つめていた。かなり若い。

 そして、母親の実家を見つめる。何度も訪れて知り尽くしている。古い家だが手入れが行き届いている。今でも働き者の祖母の姿を思い出す。

「何? その先輩のことが好きなの?」

 “素子”はストレートに質問してくる。“陽子”は顔が赤くなった。バレバレだ。

 “愛”は驚く。

 出逢ってからまだ二日しか経っていないのに……「恋」とはかくも不可思議なり。自分の「恋」も不思議だったと――“愛”は“国重俊樹”の顔を思い浮かべた。

 論理的な理由は説明出来ないでいるのだ。


「違うよ」

 “陽子”は口を尖らせる。頬を膨らませる。

「だって、昨日からその先輩の話ばかりだもの……鈍感なお母さんも気が付くよ」

 “素子”はそう言って鍋の蓋を開ける。台所には湯気が立ちこめる。

建長煮けんちょうに?」

 “陽子”は鍋の中を覗き込んでそう言った。崩した豆腐と銀杏いちょう切りの大根・人参を胡麻油で炒める。その後、醤油・味醂・砂糖で煮込む。古くから有る郷土料理だった。

「“陽子”も、子供が出来たら作ってあげなさい……」

 母親からのアドバイスだ。

 料理は煮立っていた。レンジの火を止める。湯気が更に大きくなった。

 鍋を降ろして、お玉で掬いだし‘萩焼’の大皿に盛りつける。あくまでも脇役の料理だ。大きな主張はしない。

 “愛”は冬場になると母親の“陽子”が作ってくれたことを思い出す。代々受け継がれているのだった。自分は作り方を聞いていない事を認識した。もう聞けないのだ。

 現実に引き戻される。

 ――私は、死んだのだった。


 これは罰なのだ。

 友人。片思いの相手。担任教師。

 父と母……祖母。


 みんな自分を愛してくれている。でも、それが感じられなくて……。

 ――自分は死んでしまった。やり直しは出来ない。


 取り返しが付かない。

 地獄に落とされたのだった。


 振り返る。

 黒衣の男が居た。端正な顔立ちに変化は見られない。むしろ仮面をしている様に思える。

 デスマスクだ。死人の顔だ。

 自分のそばに何時なんときも佇んでいる。何の感情も現さない。

 この光景を見せつけて――この男は――どんな感情を有しているのだろうか?

 マントを剥ぎ取って、反応を見たいと思った。でも無駄なあがきなのだろう。

 諦める。



 場面は変わる。


 中学校の校庭だった。緑色のジャージ姿の父親が居た。軟式野球用のバッターボックスに立っている。金属バットを長めに持って、腰を落とし気味に構えている。

 ピッチャーが下手投げで大きめの球――ソフトボールを投げてくる。


 バックネット裏では赤色のジャージ姿の“陽子”が立っていた。打席の父親に声援を送っている。

「打て! 先輩! イケー!」

 父親のクラスメイトと思われる女子達も、驚いた顔で“陽子”を見つめていた。


 クラス対抗球技大会。“愛”は、今もこの大会が行われていることを知っていた。

 男子はソフトボールにバスケットボール。女子はバレーボールに軟式テニス。男女共通競技は卓球である。


 この日は授業が行われない。放課後のクラブ活動も無かった。


 大会には全員参加が基本だ。その為、早々に敗退した生徒はクラスメイトの応援に回る。

 運動部の人気選手など下級生が声援を送るケースもあるが、バッターボックスの彼は文化部なのだ。

 その為、大声で応援している“陽子”の姿は異質に思える。


 “愛”は打席に立つ父親の姿に違和感を覚えていた。そう――左打席だった。父親は右利きだから本来は右打席に立つはずだ。

 野球のルールは、TVのナイター観戦を父親に付き合わされていて多少は知っている。

 進んで見ようとは思わないが……。

「“藤田”! 左打ちのハンデはどうだ! オマケに野球部のエースだぞ!」

 対戦チームの相手からヤジが飛ぶ。ハンデとは何だ? 父親の方が不利ばかりだ。

「カウント、ツースリー!」

 キャッチャーが立ち上がりピッチャーに投げ返す。声を掛け、指でボールカウントを示していた。返球をキャッチした投手は額の汗を拭う。背の高い父親に圧倒されている様子だ。

 ピッチャーポジションの生徒は野球部所属なのだろう。本来はクラブ活動に所属している選手は同種目の同ポジションに出場できないルールがあった。

 だが、急遽リリーフに廻ったのだ。周囲にも許可を得ている。


 “浩一”は不動の姿勢だった。“陽子”からの声援にも動じていない。


 真ん中高めのボールが来る。“浩一”は軽くバットを出して3塁側へのファールボールに逃れる。

 “愛”は黒板にチョークで書かれたバックネット裏のスコアボードを見る。試合の状況を把握した。

 場面は9回の裏。攻撃チームである父親のクラスは1点負けている。ランナーは2塁。ヒットを打てば同点の場面。2アウトであるので勝負を避けることも可能だ。しかし、野球部のプライドが許さないらしい。

「頑張れ!」

 母の声が響く。

 真ん中低めにボールが来る。絶妙なコントロールで球速も速い。ピッチャーは打ち取ったと確信したのか――投げ終わった直後、軽くガッツポーズを決めていた。


 父のバットがボールに届く。低めの球を長いリーチですくい上げる。

 小気味の良い金属音が響いた。ピッチャーは思わず振り返る。

 レフト側には軟式野球部用の高い金属ネットが設置されている。その遥か上を楽々とボールが越していった。

 民家が建ち並ぶ中に落ちる。ボールは、どこかの屋根で跳ねていた。

 サヨナラホームランだった。場外ホームランだ。軟式野球のボールでもそこまで飛ばせる人間は、そうは存在しない。

「やった! やったー!」

 母親が手を叩きながら飛び上がり喜んでいる。皆の視線が集中しているのを感じ取り、顔を赤くしてはしゃぐのを止めてしまう。

 ホームランを打った‘英雄’も2塁ベースを回ったところで顔を赤くする。


 ホームベースを踏んだところで、クラスメイトでも――ましてや母親でもなく……相手ピッチャーが握手を求めて来た。

「ナイスバッティング」

 その言葉に、“浩一”は短く答える。

「ども……」

 顔を赤くしていた。軽く握手する。

 しかし、ピッチャーは父親をヘッドロックする。

「何で野球部に入らないんだあああああ! オマケに可愛い彼女も居るじゃないかああああ!!」

 嫉妬混じりに、頭を締め上げる。

 しかし、父親は簡単に抜け出してしまった。


「か、彼女じゃ無いですよ――」

 顔を赤くしたままだった。“陽子”の方を向く。

「――ただの美術部の後輩です!」

 その言葉に“陽子”は頬を膨らます。


「いや! “藤田”は柔道部に来て欲しい!」

 キャッチャーをしていた恰幅のよい柔道部主将が、野球部エースに声を掛ける。対抗心剥き出しだ。

「試合終了! ホラ挨拶!」

 主審を務めていた女教師が声を掛けて一同が並ぶ。

 “陽子”は顔を上気させて、自慢げに眺めていた。自分のクラスが優勝したかのような晴れやかさだった。


「三年男子ソフトボール優勝は――二組!」

 右手を高々と挙げた主審の言葉に、三年二組の連中は喜び合う。応援のクラスメイト女子の歓喜の輪に“陽子”も加わっていた。緑のジャージの中に赤い色が一つ。

 喧騒の中、一人静かにしているのが主役である父親の“浩一”だけだった。

 娘は父の意外な運動神経の良さに驚く。体だけが大きい人だと思っていた。

 そういえば“愛”の小学校の運動会の保護者対抗リレーに出て、アンカーとしてゴボウ抜きしていた事実を思い出す。



 その日の放課後――


 “浩一”はジャージだけが入ったスポーツバッグを持って、学校の裏門を出る。

 裏門の直ぐ先に“陽子”が立っていた。偶然ではない――彼女の表情は明るくなる。彼女の待ち人は彼なのだ。


「一緒に帰りませんか?」

 申し出に驚く。“浩一”はその時は知らなかった。“陽子”は精一杯の勇気を振り絞って、この行動に出たのだった。

「帰る方向は別だろ……」

 低い声でそう言った。

 そうなのだ。彼女は学校からは河外へ出る橋を渡って帰宅する。彼女の家の場所は本人から聞かされて知っていた。

 “浩一”の自宅とは全くの逆方向。

 そもそも彼女は、学校の正門から出る方が近道なのだ。

 わざわざ裏門で待ち受けたのも、目的は一つだ。

「今日は――遠回りしても――いいかな。そんな日なんです」

 珍しく照れている。顔が赤くなっている。

 可愛いな――

 “浩一”は思った。


 部活動で邪険に扱ったのに、彼女は変わらずに接していてくれる。

 始めて嬉しいと感じていた。「幸せ」とはこんな感覚なのかも知れない。


 少し離れて歩く。他人の目線がないか気にする。

 紺色のセーラー服姿。白いスカーフ。

 その彼女の歩くスピードに合わせる。

 夕日が眩しく思えた。隣の“陽子”の表情はよく見えない。


 学校近くの住宅街の細い道をゆっくりと歩く。

 白い漆喰しっくいの塗られた土塀が長く続いている。二人の並んだ影が映っている。

 二人共に言葉は無かった。

「あの……先輩! 格好良かったです! でも、何で運動部に入らなかったんですか?」

 決意して言葉を発していた。

 身振り手振りを大きくして必死に喋る。二人の影が交差する。


 昼間の事だ。野球部や柔道部の連中に揶揄された件で知ったのだろう。

「面倒くさいだろ……」

 それだけを言って黙り込む。


 “浩一”は思い出す。

 中学一年生の時から、体格の良い自分は運動部の上級生に目を付けられていた。

 上下関係の厳しい運動部体質を忌避していた自分は、反発もされた。

 先輩後輩の人間関係が苦手だった。

 難癖を付けて来た柔道部の上級生を、テレビの見よう見まねで覚えたプロレスの締め技で撃退した。

 その噂が学校中に広まり、誰も自分には干渉しなくなった。

 担任教師からはクラブ活動に入るように強く薦められたので、取り敢えず自分のペースが守れる美術部に所属した。

 もし、美術部に入っていなければ“陽子”と出逢ってなかったかもしれない。


 ――運命。

 強く意識する。

 彼女の顔を見つめる。

「じゃ……」

 自宅に到着した。短い言葉を発す。徒歩10分の短い距離だった。短い短い時間だった。

「あの……先輩……」

 “陽子”が、何事か言いかけた。次の言葉に期待したい自分も――確かに心の中に存在している。

 だが――玄関のドアを開ける。

 足早に中に入った。

 振り返らずに閉める。

 彼女はどんな表情をしたのだろうか。

 怖くて見られなかった。



 ――その夜、寝室。

 “浩一”は夢を見た。

 自分を糾弾する人々の群れに追われていた。大勢の黒い人影だ。多くは自分の行動を非難している。それはそうだ――可愛い後輩が――精一杯の勇気を振り絞ったのだ。

 それに応えないでどうする!


 一方で自分の行動を賞賛する一派もいる。

 白く光り輝く人型だった。

 どうせ、彼女も自分に愛想を尽かせて去って行くのだ。

 犬のように懐かれる前に、早めに拒絶しておけ! 

 母親も最後には自分を拒絶した。

 傷つくのは自分だけなのだ。


 痛い痛い痛い!


 他人から向けられる感情が痛い!

 裸の自分。乳児にまで戻った自分は、体を小さくする。

 慈愛に満ちた優しい手指で触れられても。そっと抱きしめられても。自分の感覚は痛みとして……苦しみとして認知する。

 泣きわめく赤子。


 赤ん坊は7歳の少年に育っていた。

 泥酔すると自分に暴力をふるった父親。

 市内の老舗造り酒屋の営業担当の父親。昼間はにこやかで人当たりの良い父親。

 学校の夏休みには自分を営業車に同行させた。子供をダシに使い営業成績を上げていた父親。

 車の助手席に喜んで座っている自分。優しげにアイスクリームを買い与える父親。


 酒に酔い、鬱憤晴らしを幼い子供に向ける父親。

 ――祖母に聞いた。

 自分が生まれる前には母親に対して暴力をふるっていた。

 しかし、子供が生まれると……その対象は自分になった。

 母親は……庇ってもくれなかった。

 人の愛情を感じることなく育った。

 だから、他人から向けられる感情は全て苦痛に変換される。


 小学四年生の自分が登場する。

 10歳に成長していた。既に高身長の兆しが見える。

 同級生の女子がバレンタインデーにチョコレートをくれた。彼女が自分で選んだ包装紙だったのだろう。ラッピングにも凝っていた。今思うに本命チョコ――。その子の精一杯の気持ちなのだろう。

 彼女の気持ちが込められたプレゼント。


 それが――

 どうしようもなくおぞましい物体に思えた。

 受け取ったチョコの包み紙をビリビリに引き裂いた。彼女の目の前で……。

 高級チョコレートを足でめちゃくちゃになるまで踏みつぶした。

 その子の表情がどうだったのか思い出せない。

 彼女の顔の場所には黒い空洞があった。

 思いが深い分――より痛く感じるのだ。

 痛い! 鋭利な刃物で傷つけられる激痛なのだ。


 それからは、自分に近寄ってくる女子は更に居なくなった。


 小学校高学年の頃から急激に成長し、六年生の時には父親を身長・体重共に追い越していた。

 殴りかかった父親を、学校の授業で習った柔道技で投げ飛ばした。

 その後は、父親は自分に対して暴力をふるわなくなった。

 だが、母親は自分を恐れるようになった。怯えて奉仕する対象が父親から自分に変更されたのだ。

 両親は万事、敬語で話しかけてくる。他人行儀に接してくる。

 それも痛みだった。

 高校を卒業するまで我慢しよう。

 卒業したら、こんな家を出て行こう! 誓っていた。

 だが、両親の方が居たたまれなくなったのか、先に出て行ってしまった。


 ――出ていって、どうするつもりだったんだ?


 夢の中では、もう一人の自分が質問する。

 ――家庭を築くのか?

 ――生まれた子供に、父親と同じく暴力を奮うのか?

 ――そもそもオマエに家庭が築けるのか?


 質問に答えられなかった。


 一瞬でも“陽子”との甘い生活を夢想する自分……軽蔑した。同じ過ちを繰り返すのか? 父親の血がしっかりと……母親の血がしっかりと流れている自分なのに。


 ベッドの上で目を見開く。

 ――やっぱり彼女は拒絶しよう。二度と会わないようにしよう。

 心の中で結論を出した。


 全身から脂汗が出ていた。

 体の奥に痛みがあった。

 場所を探る――右下腹部に痛みを覚える。

 起き上がろうとして更なる激痛が走る。

 何故か――“有村陽子”の顔が浮かんでいた。

 拒絶するはずの彼女を――何故思う。


「助けて……」

 ベッドに再び横になり、消え入りそうな声で叫んでいた。


『Sugartime』(シュガータイム)は1982年発売の「佐野元春」さんの7thシングルの曲です。

1982年発売のアルバム「SOMEDAY」に収録。「佐野元春」さん初期の代表曲なので、「No Damage」や「Moto Singles 1980-1989」などにも、勿論収録されています。

キャンディー・ポップなどと分類される曲で、題名通りに甘い内容の歌詞になっています。

シンセサイザーが多用される曲調は、現代日本のポップス曲の源流だと思うのです。

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