#12「彼女(後編)」
この作品のタイトル名・サブタイトル名は、歌手の「佐野元春」さんの楽曲名を使用しています。次回以降のサブタイトル名も同様です。
文章内では歌詞は引用していません。しかし、簡単な単語は用いてます。名詞・固有名詞程度です。
#12「彼女(後編)」
“陽子”は、それから自分が何をしたのか記憶が定かではなかった。
世界の色が無くなった――全てがモノクロームの世界。
音も聞こえなくなった。
父が居た。いつの間にか家に居た。自分を無理矢理に引っ張って連れて行く。
――いやだ!
――いやだ! 行きたくない!
――そんな所に行きたくないの!
気が付いたら病院だった。
入り口近くで新人の看護師が呆然と立っていた。胸のプレートには“安藤”とあった。
“陽子”の隣、何も無い空間を見つめて驚愕していた。
足が震えている新人看護師に案内された部屋。
母親が放心して、ベッドの脇に座っていた。
ベッドに横たわる小さな人物の顔には白い布が掛けられていた。
この人物が‘彼女’なのだろう。
さっきまで――ほんのさっきまでは自分の‘妹’だった。
父が布を開けて顔を見せようとした。
――やめて!
――やめてあげて!
――本当に“愛”ちゃんが死んでしまう!
一歩も動かずに対面を拒否していた。
頑なな“陽子”の態度に父親は折れていた。
既に、彼自身の心も折れてしまっていたからだ。
次に、記憶があった時には母親の気丈な顔が見えた。一気に皺が刻まれてしまっていた。
母は黒い和服を着ていた。
自宅だった。
葬儀が行われていた。
自分はセーラー服の左腕に黒い喪章を着けて出席していた。
禿頭を見つめる。
僧侶の読経。その前には小さな棺桶が合った。
読唱が終わる。焼香の列が出来ていた。
棺を開けて最後の別れをした。どんな言葉を掛けたのか覚えていない。
思い出の品を詰める。絵本も中に入れた。
小さな縫いぐるみ。着ていた服。何もかもが小さかった。
その次に覚えていたのは、火葬場だった。
漆塗りに金箔が装飾された、純和風の‘宮型霊柩車’を認めていた。
母は常に自分のそばに付き添っていた。
本当に気丈だった。
その母も、火葬炉の鉄扉が閉じられて――
炎が点けられた時――
崩れ落ちた。
油の匂いがした。
自分がその時、どんな表情をしたのか思い出せない。否、表情はずっと無かった。感情さえ無くなっていた。
火葬場の祭壇前で父親が参列した人に挨拶をしていた。
その時、音が戻る。
遺影を抱える母。
そのそばで父は、“陽子”の手を強く握ってくれていた。
「皆さん。今日は娘のために有り難うございます。遠くからも来て頂き感謝しています――」
深々と頭を下げる。“陽子”も倣い礼をする。
暫く父親は沈黙していた。参列者全員の顔を一人一人ゆっくりと見つめていた。
やっと口を開く。
「――親よりも先に死んでしまうのは……やっぱり親不孝者です――」
父親の言葉に、参列者は驚きの表情を浮かべる。
再びの沈黙。
「――娘は、生まれた時から体の弱い子でした。病気を治せるお医者様を頼っては、駆けずり回りました。夜中に病院へ連れて行った事も何度もあります。でも……それを不幸だとは感じた事はなかった――」
その言葉を聞き、一同は押し黙る。目を瞑る。
「――これは娘の……“愛子”の、最初で最後の親不孝です。私は……私たちは……それを笑って許したい……」
父親は無理矢理と笑顔を作る。
隣の妻の肩を抱き、“陽子”の手を更に強く握る。
“素子”は大粒の涙を流して頷いた。参列者からもすすり泣きが聞こえている。
参列者はゆっくりと解散していった。
それを見送った父親は、“陽子”の手を握ったまま火葬場の少し離れた場所に連れてくる。高い煙突を指さす。
「“陽子”……あの先から煙が出ているだろう――」
“陽子”はゆっくりと立ち上る灰色の煙を見つめる。
「――煙の成分は殆どが水蒸気と二酸化炭素なんだ――」
理系の父親らしい――と“陽子”は思う。
「――お父さんは、生まれ変わりとか有るかは分からない。信じる人はいるけれど、本当に有るのかどうかは知らない。でもね……水蒸気は、やがて雲になり雨となって地上に降り注ぎ……河を流れて海に出る。二酸化炭素は、植物が光合成で取り込み酸素を作り出す。それで、動物が……みんなが呼吸する――」
娘の目を真っ直ぐに見つめる。
「――巡っているんだ。全ては環になっている。“愛子”は消えて無くなったわけじゃない」
娘を強く抱きしめる。
「お父さん……痛いよ……」
“陽子”が三日ぶりに言葉を発した。弱々しかった。
「父さんは、今は“陽子”が心配なんだ……もう、何日も食べていないだろう……」
やつれた娘の顔を見つめる。乱れた前髪を直してやる。
「何も食べたくない……」
“陽子”の本音だった。これで死んだら‘彼女’に出会える――本望だ。
「母さんは酷く心配していた。これ以上、母さんを悲しまさせないでくれ――」
頭を下げていた。父親からの嘆願だった。
「――それから、父さんは‘残酷’な事を言わなくちゃいけない」
娘の耳元で囁く。
「なに?」
感情の無い言葉だった。
「今住んでいる家を出なくちゃならない。大家さんに前々から言われていた。このままじゃ、大きな台風が来たら倒壊してしまうと‘市役所’からも注意勧告されている――」
始めて聞く言葉だった。父の顔を見る。
「――明後日には出て行かなくちゃならない。急で済まない……。でも、心配ない。新しい家は多少は広くなるから、お婆ちゃんと一緒に住める。準備をしておきなさい……いいね」
優しく言い聞かせる。
――翌日。
“陽子”は、昼過ぎには自分の荷物を全て纏めてしまっていた。ダンボール箱の蓋をガムテープで閉じる。
本などが取り去られてしまった学習机。
その上にはポツンと――‘遠足’に持っていくはずだった――ピンク色の小さなリュックサックが残されていた。
昼前に、新しい家の掃除に向かった母親から聞かされていた。
「中にあったバナナは傷んでいたから捨てて置いたの。“陽子”……‘あの子’のお菓子を食べてあげて……本当は、お棺に入れてあげれば良かったのにね」
母は優しく頭を撫でてくれた。
食べない娘を本当に心配しているのだ。
片付けられた自室を見つめる。立つ鳥跡を濁さず――父がよく言っていた。
ホコリまみれになった部屋を綺麗にしなければ……。
階下にあったバケツと雑巾を持って来よう。
襖を開け、自分の部屋を出る。
二階の短い廊下。奧にはアップライトピアノがあった。祖母の“ハツ”の代からある由緒正しきピアノだ。出征した旦那さんの実家からの贈り物である。
確かにピアノのロゴが古い。
しかし、手入れは行き届き今も弾ける状態だ。
鍵盤の蓋を開け、白鍵の一つを人差し指で押す。
綺麗な音と共に――“陽子”の世界にはゆっくりと色が戻って来た。
“愛子”が歌う童謡が聞こえて来た。
‘妹’は、母が弾くピアノを喜んでいた。母の伴奏で歌う。姉妹で歌う。光景が鮮明に蘇って来た。
ピアノの向かい。自分の部屋の隣……“愛子”の部屋の襖を開ける。
元々少ない荷物は全て片付けられていた。がらんどうの部屋。何も無い部屋。
‘妹’の不在を思い知らされる。
階段をゆっくりと降りる。古い木材が軋んだ音を立てる。居間には荷物を纏めたダンボール箱が積み上げられていた。
この場所で‘妹’と、お別れをした。
小さな棺が開けられて‘彼女’の私物が入れられていた。
絵本に玩具……お絵かき帳。
お絵かき帳の最後のページには虹が描かれていた。
家族四人の上に大きな七色のアーチ橋が架かっていた。
四人の顔は笑顔だった。
花に囲まれた“愛子”の顔。
‘彼女’の唇にキスをした。‘妹’とは最初で最後のキスだった。
――とても冷たかった。
居間の外を見る。縁側がある。
窓が開け放たれていて、外界の風景が……小さな庭が見える。
――盛夏の頃。
ヒマワリを始め、庭の草花にホースで水をやった。
ホースの先を潰して細かな霧を作る。夏の強い光に照らされて――小さな‘虹’が出来ていた。
‘彼女’は喜んでいた。両手を拡げてクルクルと回っていた。
「本物の虹が見たい!」
そう言っていたのを思い出す。
‘妹’が見たいのは、空に掛かる大きな架け橋だった。
今は、ヒマワリも草花も全て枯れ果ててしまっている。
居間の隣。
小さな物置部屋。その中で母親は泣いていた。
‘彼女’が3歳まで生きられないと、医師に宣告された日。
母はその部屋に籠もって泣いていた。
幼かった自分は、外で待ち続けることしか出来なかった。
母が決心をして、出てくるのを待つしかなかった。
窓から冷たい風が吹き込む。家が軋む大きな音がした。
――夕刻。
陽は大きく傾いていた。長い影が部屋の中に差し込んでいる。
窓を閉めカーテンも閉じる。
部屋は暗闇に閉ざされる。
外の風の音が大きくなってきた。季節外れの嵐が近づいている。
今夜は雨が降るかも知れない。
二階の自分の部屋に戻る。
手を見つめる。
バケツと雑巾のことは忘れていた。
どうでもよかった。
陽もすっかりと落ちていた。
灯りも点けずに、部屋の畳の上に横になる。
世界の中に自分一人だけが取り残された感覚だった。
無限に拡がった世界。
だけど一人ぼっち。
外の風景が少しだけ見えた。
外灯に照らされている木々が揺れる。
雨が降っていた。
雨は降り、河を流れて――海へと注ぐ。
思いが流れて行く。
――思い出が流されていく。
大河の上の木の葉のように……。
この思いも消えてしまうのだろうか?
この感情が変わってしまう事があるのだろうか?
全てが暗闇に包まれる。
立ち上がり、部屋の灯りを点けた。
蛍光灯の青白い光が眩しい。
光を浴びて、机の上のピンク色のリュックサックに目が行ってしまう。まだ、色の乏しい世界では異質で目立っていた。
母の言葉を思い出す。
お菓子を食べてあげなさい。
ゆっくりとリュックを開く――傷んだバナナが入っていたためか――甘ったるい匂いが鼻腔に広がる。
空腹を覚えた。
久しぶりの食欲だった。
中身を全て取り出す。
お菓子の他にも、紅葉した木の葉や団栗などの木の実……小さな花も入っている。
銀杏まであった。銀杏の黄色い葉っぱを手にとってクルクルと回す。
銀杏の木はこの辺りには無い。‘彼女’は何処で拾って来たのだろうか?
――あの日。
濡れていた雨合羽を思い出す。
自分と母が不在の間に、一人で出かけたのだ。遠くに出かけてしまったのだ。
何故出かけさせてしまった? 後悔が襲う。
リュックの中の菓子。
その一つ、チョコボールの包装を外す。
蓋を開けて中味を手のひらに出す。
三粒ほどを口の中に放り込む。
歯でかみ砕いた。
チョコレートの甘い味が口の中に拡がった。味蕾が感じ取った刺激が、頭にまで伝わってくる。
もっと食べたい――欲した。
自分の体も頭も――生きることを欲していた。
拒んでいたのは――自分の‘心’だけだった。
沢山の菓子を、左手の手のひらで受ける。
大きく口を開けて押し込む。
あごを、顔を大きく動かして食していく。
自分に表情が戻っていた。
‘彼女’の声が聞こえた。
――あの朝。
足元に立っていた“愛子”の発した言葉が聞こえて来た。
場所も同じ、この部屋だった。
記憶が再生される。
「お姉ちゃん、さ・よ・な・ら……」
――最後に感情が戻って来た。
咀嚼していた口の筋肉が硬直する。
長らく動かしていなかったからだ。
口からはチョコレート色の唾液が流れ出ていた。
目からは大粒の涙が流れ出していた。
次から次へと頬を伝う。
ゆっくりと畳の上に崩れていく。
手をつき、膝をついて――落ちていく思いを必死に食い止める。
涙が畳を濡らす。
大きく口を開けて、感情を吐き出す。
体の奥に溜まりに溜まった――思いの全てが溢れ出して行った。
喉を伝って絞り出していく。
――慟哭。
泣かないと誓っていた。
母の涙を見て――決して泣かないと誓った。
でも……感情に押し流されてしまった。
決壊した。
母の前では泣かない……その誓いだけが守られた。
暫く――
一人で泣き続けた。
場面は大きく変わる。
“愛”は始めて、もう一人の自分の存在を意識する。
見慣れた病院だった。
分娩室。
その前の黒いベンチに、父“浩一”が座っていた。
そして母の母“素子”、父の祖母“冨美子”も座っている。
彼ら彼女らは一様に祈っていた。
分娩室の近くに看護師の詰め所がある。
カウンターには木製の卓上キューブカレンダーが置いてあった。
日付は“愛”にとっては思い入れのある特別な日だった。
詰め所の先に中庭が見えた。丸石が敷き詰められている。竹が植えられていて、岩が置かれていた。苔むした大きな岩だった。
雨が降っていた。
静かな優しい雨だった。
乾いた苔は、見る見る水分を吸い取る。
翡翠色に輝いていく。
赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
激しい声だ。
生を確認するための、精一杯の小さな存在証明。
分娩室前の人々の願いが叶ったのだ。
全員が明るい顔に変わっていた。
“愛”が生まれた日。
――その日はやっぱり雨だった。
分娩室の中。
目が離れ低い鼻。パグ顔のベテラン看護主任――“安藤真弓”が赤子を抱えて“陽子”に見せる。
臍の緒が切り取られたばかりだった。
皮膚が赤い。文字通りの‘赤子’。
生まれたばかりの新生児。
母親となったばかりの“陽子”はしわくちゃの顔を撫でてやる。
そして優しく語りかける。
思いの全てを打ち明ける。
「こんにちは“愛”ちゃん……また、会えたね」
『彼女』は1981年発売の「佐野元春」さんのアルバム「Heart Beat」の収録曲です。
私としては「Slow Songs」「The 20th Anniversary Edition」に収録されている'Slow Songs version'をお勧めします。
ピアノの伴奏から始まり、少しずつ弦楽器が加わって……最後には壮大なオーケストラ曲へと変化していきます。圧巻の曲なのです。
男女の別れを歌った曲ですが……とある女性……「彼女」への‘永訣’の歌だと、私には受け取れました。
彼の、隠れた名曲の一つですね。




