#11「彼女(前編)」
この作品のタイトル名・サブタイトル名は、歌手の「佐野元春」さんの楽曲名を使用しています。次回以降のサブタイトル名も同様です。
文章内では歌詞は引用していません。しかし、簡単な単語は用いてます。名詞・固有名詞程度です。
#11「彼女(前編)」
「“愛”!」
名前を呼ばれて振り返る。
周囲の風景には見覚えがあった。しかし様相は大きく違っていた。
夕暮れ時――
「お姉ちゃーん!」
幼い女の子が、セーラー服姿の“陽子”の元に駆け寄ろうとした。
「ダメよ走っちゃ!」
見慣れた中学生姿の“陽子”。それよりも少し幼い印象だった。
制服も折り目が残っていて、真新しさを感じさせる。中学一年生の春時分だろうか。
踏切では警報機が鳴っている。
一両編成のディーゼルカーが唸りを上げて加速し、コチラの方へ向かってきた。クリーム色と赤色の二色に塗り分けられた車両。屋根の部分は排煙で煤けていた。
踏切に差し掛かる。幼女は運転手に手を振っていた。相手も振り返していた。のどかな景色だった。
少ない乗客も手を振ってくれている。
幼女は嬉しくなり、一層の笑顔で激しく手を振っていた。
“愛”は黙ってその情景を見つめる。
母が中学一年生当時の自宅周辺。今はコンビニが建っている場所も、この時は田んぼだった。田園風景が拡がる。
今は、ひっきりなしに車が行き交う家の前の道路。
しかし、この時代には交通量は殆ど無かった。
“陽子”は左手で幼女の右手を握り、家の方向へと歩いて行く。
彼女が道路側を歩く。妹のゆっくりとした足取りに合わせるように。
風景の先には低い山が見える。夕陽が景色を赤く染めていた。
「カラス……」
妹は西の空を指さす。
カラスが四羽――山の方向へ飛び去っていった。鳴き声が聞こえた。
「……何故鳴くの――」
幼女は歌い出した。
「――カラスの勝手でしょー♪」
遙か昔に流行った替え歌だった。
「“愛”ちゃん……歌詞が違うよ……」
“陽子”は正しい歌詞で、綺麗な旋律で童謡を歌いだす。
妹は後から繰り返す。
夏みかん畑を通り過ぎると、古い木造二階建ての家が見えて来た。“愛”の現在の自宅と同じ場所に建っていた。
以前、母が父に見せた時には駐車場だった場所。
今と違って周辺に民家が殆ど無い。
「“愛子”ちゃん……今日の夕飯は何かなぁ~?」
“陽子”は鼻を前に突き出す。空気の匂いを嗅ぐ動作をする。
「カレーライス!」
“愛子”と呼ばれた幼女は右手を挙げる。
「正解!」
“陽子”は妹の頭を撫でてやる。優しい手付きだった。
「お母さんがね、ジャガイモと人参と玉葱を切ってたの!」
“愛子”は夕飯の支度を目撃していた事実を告白する。歯を見せて笑っていた。
「あの人が“愛子”さん……」
“愛”は仲の良い‘姉妹’の姿を見て呟いた。
黒衣の男は直ぐそばに佇んでいた。
矢張り無表情だ。
聞いたことがある――母には‘妹’が居た。
この事だけは……あまり語りたがらない……母の過去。
「ただいまぁ~」
姉妹はユニゾンで帰宅の挨拶をする。
“陽子”は玄関の木製の引き戸を開ける。
古くて立て付けが悪いのか、スムーズには開いてくれない。コツがあるのか途中で一度止めて、もう一度力を込めて開けていた。
妹が玄関内に入るのを待って、逆の手順で引き戸を閉める。
家中に香辛料「クミン」の匂いが立ちこめている。
“愛子”は笑顔で台所に立つ母親の元に歩み寄る。
狭い台所だった。冷蔵庫と食器棚で、ほぼ埋め尽くされている。
水色のタイル製の流しと、ガスコンロ台がある。
小さなスペースで母親は腕を奮っていた。
「どうだったの? クラブ活動は?」
母の“素子”が姉の方に聞く。煮立ったカレー鍋の火を消す。
普段よりは遅い時間に“陽子”は帰宅した。クラブ活動の説明会があったのだ。それを妹は家の近くで待ち受けていたのだった。
「美術部に入ったの……」
赤い顔でモジモジしている。母親は勘を働かせる。
「入部届を渡してくれた先輩が素敵だったの……背が高くて……ガッチリしてて、面白い絵を描いていたの」
その先輩が、気になる男子生徒だと母親は直ぐ気が付く。
中学一年――その時既に、父と母は出会っていた。
益々顔が赤くなる“陽子”の姿を見て、“愛”はそう思った。
ただ、父親側の記憶には残っていなかった。
「告っちゃえ!」
意味をよく理解していないのだろう――覚え立ての言葉を、はにかんでいる姉に投げつける妹。
「違うよ……そんなんじゃないよ――」
形勢不利と踏んで台所から引っ込む――姉“陽子”。
「――もう! 生意気だぞ!」
逃げ出していた妹の鼻をつまむ。“愛子”はキャッキャとはしゃいでいた。
――居間。
木製の低くて大きな黒いテーブルがある。家族四人が正座し食事を摂る場所。
そこは、夜には夫婦の寝室となる。
ブラウン管TVを点ける。テーブルに肘を付いて、夕方の番組を見やる“陽子”。
全国ではお昼に生放送される番組。ネット局が少ない山口県では、夕方に録画放送を流しているのだった。
「お姉ちゃん……これ読んで……」
“愛子”が大きめの新品の絵本を差し出して来た。表紙の絵柄に“愛”は見覚えがあった。
白いネズミがピンク色のプリマドンナの格好をしている。
確か、縫いぐるみがあった。父親が幼い自分をあやすのに使っていた。
『アンジェリーナはバレリーナ』
イギリスの作家‘キャサリン・ホラバード’の絵本。バレエが大好きなネズミの女の子‘アンジェリーナ’が主役。
その絵本を姉は妹に読み聞かせている。
居間の畳に寝そべり、肘をついて姉の話に真剣に聞き入っている。
「うわぁ――」
手を叩いて喜ぶ。
「――“愛”は大きくなったらバレリーナさんになる!」
姉はその言葉を聞き、呆れた顔をする。
「ピアニストでしょ……ケーキ屋さん。漫画家に……今度はバレリーナ? 一杯あるねぇ」
指を折って、妹の将来の夢を数えている。
「全部なる!」
姉に対して歯を見せて笑う“愛子”だった。
だからバレエ教室に通わせたのか……“愛”は納得する。
あの日――男の子に笑われて、直ぐに辞めてしまった。
ピアノも習わされていた。
自宅リビングにある古いピアノ。
「“陽子”! お風呂湧いたから一緒に入って」
点けっぱなしのTVからは夕方のローカルニュースが流されていた。リモコンで消す。
水色のタイル張りの浴室。
目地には黒いカビが所々に出ていた。
黒錆に覆われた金属製の丸い浴槽だった。コンクリートで囲われて外周には四角い形のタイルが埋め込まれている。
「五右衛門風呂――」
“愛”は呟く。浴室の窓の外には小さな煙突が見えた。黒い煙が上がっている。
水面には飴色に変色した木製の板が浮かんでいた。
裸の“陽子”は、板の上に慎重に足先を乗せて水中に沈み込ませる。
「おいで……」
コンクリート部分に足を乗せて待ち構える“愛子”。
その妹の胸を抱えて、優しく浴槽に入れてやる。
“愛子”の胸の中心には大きな傷跡があった。手術の跡だ。
その幼女は肩までお湯に沈める。浴槽からはお湯が溢れ出ていた。
「百まで数える……」
姉の方を向いた。
「今日は五十まで……」
妹に言い聞かせる。時間としては1分少々ぐらいだろうか。心臓の手術をしているので、大きな負担を掛けられないのだ。
「いーち、にーい……」
“愛子”は指を折ってゆっくりと数字を数え始める。姉とのスキンシップを楽しむために……。ゆっくりとゆっくりと。
――次の日。
その日も、“愛子”は姉の帰宅を家の近くで待つ。
今日は昼までの授業だった。クラブ活動には出ていない。大きなスケッチブックを抱えていた。市内の文具店で購入してそのまま帰宅した。
「ただいま! 今日も待っててくれてるの?」
妹の頭を撫でてやる。
笑っていた妹だったが、急に顔色が曇る。
「嫌ぁ……」
“愛子”が姉の後ろに隠れる。
妹の視線の方向を見る。駅の方だった。“愛子”は大きな犬が苦手だから、野犬がいるのかと“陽子”は思った。
駅の方向では、幼稚園児達が大勢降り立っていた。お揃いの黄色い帽子に灰色のスモック姿。胸には赤いチューリップ型の名札を下げている。
背中には小さなリュックサックを背負っている。水筒をたすき掛けに下げていた。
遠足のようだ。同行した保護者が子供の手を握っている。
同年代の子供達を大勢見るのは始めてだったのだろう。
姉の背中から離れようとはしない。
「幼稚園の遠足ね……」
妹の手を取り、家の方へ向かう。
「遠足?」
その単語の意味を知らないようだ。
「みんなで、遠くに出かけるの……」
「遠く……」
幼稚園児の方を振り返る。
「来年の春には“愛子”も小学校に行けるから、そしたらみんなで遠足に行けるよ」
現在6歳の“愛子”――
彼女の身体を気遣って、幼稚園の入園は断られてしまった。
病弱な彼女に万が一があった場合に、対応出来ないのだ。
しかし、来年からは小学校も万全の体制で待ち受けてくれると約束してくれた。
特別な資格を持った校医や看護師資格を持つ養護教諭も確保している。
妹の“愛子”にとって――この街が‘彼女’の世界の全てだ。
“愛子”が市外に出たのは、山口市の大きな病院で手術をした時だけだった。
家族全員で出かける機会は殆ど無かった。市内で外食する程度。
定期検診で病院に行く短い外出も、妹の体には大きな負担になっていた。
その時は、決まって熱を出して寝込んでしまう。
しかし、最近の体調は良好の様子だった。
自分で家の近くを散歩している。
――少しの遠出なら大丈夫かも知れない。“陽子”は思った。
“愛子”は――3歳まで生きられない――と、医師に宣告をされた。
‘彼女’の3歳の誕生日を祝った夜――気丈な母……“素子”が泣いているのを目撃した。見てはいけない姿を見てしまったと“陽子”は痛感した。
――この時、“愛”は気が付く。
自分は母親の“陽子”に同化していた。母の気持ちが手に取るように理解出来る。
「ねぇ~お母さん、いいでしょ……」
“素子”の服の裾を引っ張っておねだりする。
「こればっかりはねぇ~。お父さんも仕事が忙しいし、先生にも聞いてみないとね」
“先生”とは、病院で“愛子”の主治医をしている“長浜”医師の事だ。
「一生のお願い……」
“陽子”は縋るような目で母親を見つめる。
――半年後。
季節が二度巡る。
「動かないで……」
“陽子”は妹の“愛子”をモデルにして、自分のスケッチブックに似顔絵を描き始める。
漫画を描く事が好きな“陽子”の絵は、少し劇画チックにデフォルメされていた。
「遠足は……動物園に行くの?」
動かずに姉に尋ねる。
「そうよ……‘秋吉台サファリランド’……車に酔わないように酔い止め薬を飲むのよ……」
鉛筆を動かしながら“陽子”は答える。
この日曜日に、父親の車で家族四人出かける事になった。
忙しい父が奇跡的に休日を確保できた。
場所も萩市から1時間以内で行けるので、医師からも許可が出た。
「ライオンいる? 象もいる? キリンもいるの?」
モデルは飽きた様子だった。姉の方に寄ってくる。
明日の遠足の方に興味津々だ。
「いるわよ~。車で近くまで寄れるのよ」
デッサンは終わった。今は細かな描き込みを加えている。
「パンダもいる?」
爛々と輝かせた目で姉を見つめる。
「パンダは……さすがにいないわ。それより……」
“陽子”は窓の外を見た。雨が降り続いている。天気予報では明日も雨だった。
「雨……」
窓際に立ち外を見つめる“愛子”。
「雨は嫌い?」
振り返り、姉の質問に首を振る妹。
「雨が降るから、植物や動物が生きていける――って、お父さんが言ってた」
“愛子”は少し大人びた表情で語っている。
「てるてる坊主を作ろうか!」
妙案を思いついた“陽子”は立ち上がる。
「てるてる坊主……知ってる! 作る!」
“愛子”の言葉を聞き、材料を集め始める姉だった。
箱からティッシュペーパーを数枚取り出し丸める。そして拡げた一枚の上に乗せて輪ゴムで縛る。おなじみの形が出来上がった。
ペンで顔を描く“陽子”。
顔立ちは“愛子”に似ている印象だ。
妹も姉の見よう見まねで作るが、不格好な物体に仕上がった。
にこやかな表情で、軒下に二つのてるてる坊主を吊していた。
“陽子”が小学生時代にも、遠足の前日に作っていたのを思い出す。
「そうだ!」
“陽子”は思いつく。
二階の自分の部屋に行く。“愛子”も後ろをついていった。
押し入れを開けて下の段を捜索している。
“陽子”の部屋。小綺麗に纏められている。
三畳ほどの細長い部屋。窓際に置かれた学習机と洋服ダンスが目立つ程度だ。
土壁には自分で描いた少女漫画の絵が飾られている。
「何々?」
興味深そうに姉の作業を見つめている。
姉の思い出の品が次々に外に出されていく。小学校の通知表が詰まった洋菓子の缶箱。卒業証書が入った円い筒。その中には水彩画も入っている。カビ臭い書道セット。アニメキャラのシールが貼られた縦笛……。
「あった」
取り出したのはピンク色の小さなリュックサックだった。有名な猫のキャラクターが描かれている。
そして、赤いストライプの模様――小さめの水筒を取り出した。
「えへへ」
“愛子”は笑う。
「お姉ちゃんが小学校の時に、遠足に持っていったの……」
そこで思う。家族で食べる弁当などは母親が運ぶ役割だ。
“愛子”の荷物。
――そうだ。
「お母さん“愛”と出かけてくるね」
玄関から家の中へ声を掛ける。
黄色い雨合羽を着せた妹の手を引き、母親の大きめの花柄の傘を差す。
「雨降ってるわよ……」
台所からは母親の声が聞こえた。
「知ってる。直ぐ近くだから」
そう言い、引き戸を閉じる。
妹の手を引いて訪れたのは、「玉江駅」前の食堂兼駄菓子屋だった。
「?」
“愛子”は不思議そうに店の中を覗いていた。入り口では中華まんじゅうの蒸し器が白い湯気をたてていた。
店の中に入る。二人で訪れるのは久しぶりだった。
「おやつを持っていかないとね」
「わーい! おやつだ!」
両手を挙げて喜ぶ“愛子”。
「遠足のおやつは一人300円までだよ」
そう言って商品棚の前に立つ。
「いらっしゃい!」
店の奥、食堂部分の厨房から女性の元気な声が聞こえた。
店主の顔を認めて“陽子”は軽く会釈をする。
厨房の土間には七輪が置いてあった。
小さな鍋で牛肉が煮込まれている。生姜と葱と醤油の匂いが漂って来た。
食堂名物の肉うどんの具だ。
店頭には、駄菓子・菓子の他にも果物が並ぶ。
「これは……」
“愛子”は、ダンボール箱に入ったバナナを指さした。一本から売ってくれるのだ。
「バナナはおやつに入りません! お菓子を300円まで選ぶんだよ」
「あら、小さいお嬢ちゃんは久しぶりね」
店主が店先まで現れてきた。腰に手を当て姉妹に声を掛ける。厨房姿の白い前掛けをしていた。
今の時間帯は食堂の利用客も無く、暇なのだ。
「あの、バナナ一本幾らですか……」
“陽子”は声を掛ける。4本で100円と表示があった。
それを聞き、店主はポキリと一本もぎ取る。
「いいよ! サービス! そろそろ傷んでくるからね」
黄色い皮に黒い斑点が出来はじめていた。明日には食べ頃だろう。
「あ、ありがとうございます」
正直助かった。今回の費用は“陽子”の少ないお小遣いから捻出するからだ。
妹はお菓子選びに集中していた。合計で300円。簡単な足し算は出来るから100円のお菓子を3個買えば十分だろう――程度に思っている。
「ねぇ、お嬢ちゃん。お姉ちゃんと何処か行くの?」
店主の“植村”はしゃがみ込んで“愛子”に尋ねる。
「うん! 遠足! 動物園!」
笑顔で答えていた。
「そうかぁ~よかったね~」
頭を撫でていた。
まだまだ時間が掛かりそうなので、店主は店の奥に引っ込む。TVの時代劇の再放送の続きを見る。
「これ!」
10分以上吟味して、選んだ品を小さな竹製の籠に入れる。
“陽子”は合計金額を確認する意味で中身を検分する。
妹のセンスに感服した。
100円の菓子は板チョコだけだった。60円をチョコボールに振り分ける。50円の駄菓子を1個。20円の駄菓子を2個。10円の駄菓子が5個だった。
“陽子”が昔よく食べていた、懐かしい駄菓子類が並ぶ。チョコに飴にガムに黒糖菓子。スナック系のお菓子もある。笛になるラムネ菓子を手に取り眺める。
制限金額にピッタリだった。
彼女なりにバラエティーに富んだラインナップを選択したのだろう。
「ありがとね~」
店主の声が響く。
店の外に出た。
雨は上がっていた。
西の空が明るくなっている。
すっかり乾いた“愛子”の雨合羽を脱がせてやり、傘と一緒に持つ。お菓子の詰まった茶色い紙包みを胸に抱えて家に帰る。
――午後4時。
午後からクラブ活動に顔を出した“陽子”が帰宅する。
再び雨が降っていた。紺色の折りたたみ傘を傘立てに突っ込む。
“愛子”の雨合羽が濡れたまま玄関先に無造作に置いてあった。小さな“愛子”の傘も濡れていた。玄関の引き戸も少し隙間が開いていた。
学校に向かった時には、ハンガーに干して置いたのに……。
家の中へと入る。
“愛子”はクレヨンで絵を描いていた。“陽子”が誕生日にプレゼントした小さめなお絵かき帳だった。パンダの絵が表紙だ。
「“愛”……夕方、外に出てないよね?」
確認の為、妹に尋ねる。長時間の外出は要注意なのだ。
雨が降ってからは急激な気温の低下が認められた。妹の体調を心配する。
「ううん」
絵を描きながら首を振る“愛子”だった。
“陽子”は制服から着替えるため二階の自分の部屋へと向かう。
玄関――“陽子”がハンガーに吊した黄色い小さな雨合羽から雫が一滴落ちる。
雨は依然降り続いている。
雨樋からの水が“愛子”の玩具の小さな黄色いバケツに注がれていた。
「ケホン……」
居間で腹ばいになり絵を描いていた“愛子”が――
小さく咳をする。
――午後9時。
「お姉ちゃん……」
パジャマ姿の“愛子”が自分の枕を抱えて、姉の部屋を尋ねて来た。
最近になって一人で寝られるようになった。“陽子”の隣が妹の部屋だ。コチラは四畳半の大きさがある。時々母が添い寝をしている。
医師の訪問が有るため、大きめの部屋が振り分けられた。
「どうしたの?」
今日は早めに寝ようと、パジャマに着替え布団も敷いていた。
いつもは10時半頃就寝する。
「……」
妹は何も言わない。
「姉ちゃんと一緒に寝ようか?」
掛け布団を開いて誘導する。
「ウン!」
元気にそう言って布団の中に潜り込んできた。
“陽子”は妹の頭を優しく撫でてやる。
雨の音が聞こえていた。
――早朝。
階下から物音が聞こえてきた。聴覚の刺激を受けて脳が活動を開始する。
次は嗅覚の刺激だった。
甘い匂いが、二階の自分の部屋にまで漂って来る。
“陽子”は目を瞑ったまま、お昼のお弁当のおかずを想像する。
砂糖をたっぷりと入れた卵焼き。
“陽子”はダシを効かせた味の方が好みだが、妹の“愛子”は甘い卵焼きが大好物なのだ。
赤いウィンナーとウズラの卵……鶏の唐揚げに肉団子……“愛子”の好物の姿が次々と浮かんでくる。
思わず唾を飲み込む。
その後に、触覚が刺激を欲した。
隣に眠る‘彼女’を抱きしめようとした。
――居なかった!
驚いて目を開ける。体を起こし妹を捜す。
布団の足元に“愛子”は立っていた。安心をする。
「……おしっこなの?」
姉は目を擦りながら尋ねる。
雨のためか室内も暗い。目がやっと慣れてきた。
「お姉ちゃん、・・・・」
確かに四文字の言葉を“愛子”が発した。しかし、自分の耳には聞こえなかった。
「……どうしたの?」
立ち上がる。‘彼女’は――“愛子”は真っ赤な顔をしていた。
驚き、妹の額に手を当てる。
酷い熱だった。咳き込み始めている。
「お母さん!」
叫んでいた。部屋から飛び出て階段を駆け下りる。
「お姉ちゃん、ごめんね……」
母親におんぶされたパジャマ姿の“愛子”。‘彼女’は弱々しく言った。目の焦点が合っていない。重篤だ。緊急を要するのが見て取れる。
母娘は父親の運転する車に乗り込む。
緊急に電話連絡した主治医の待機する病院へと向かう。
雨は上がっていた。
“陽子”は三人を見送り、居間のテーブル前に座る。
台所には準備途中のお弁当のおかずが並んでいた。刻んだわかめをまぶしたおむすびも並んでいる。握りかけ途中のおむすびもあった。こちらは“愛子”が食べられない梅干しが覗いていた。
本当に緊急事態だったのだ。
母親からは、これらを適当に見繕って朝食を食べていて――と言われていた。だが、美味しそうな母の料理を目の前にしても食欲は全く湧かなかった。
晴れ上がった窓の外を見る。夏みかん畑の葉の緑が鮮やかだった。
軒下に吊した、てるてる坊主の顔を見る。雨に滲んでいた。
泣いているように見えた。
玄関近く、階段下の電話が鳴っていた。
“陽子”は早足で向かう。恐らく母からだろう。病院に着いたら直ぐに容体を連絡すると言っていた。
また、長期に入院してしまう……そんな予感があった。
来年には、やっと小学校に入学できる筈だった。また、一年伸びてしまう――確信する。
「はい“有村”です……」
ゆっくりと電話に出る。相手の息づかいが聞こえた。母からだった。
「……もしもし――」
そう言った母親は少し沈黙する。
「――“陽子”……」
再び沈黙する。
「もしもし、お母さん?」
病院の公衆電話からなのだろう。時々雑音が混ざる。
「……んだの……“愛”ちゃんが……死んだの……」
母親はそれだけを繰り返していた。
家の外。
晴れ渡った空には大きな虹が出ていた。
――“陽子”の世界の色が消えた。
暫し無音……。




