6 虜囚の竜
え、と小さく漏れた声は、自分でも驚くほどか細かった。
首にあるのは何かの輪の感触。そこには鎖が繋がっていて、その先端を。
「おはよう、マーヤ」
なぜか、ずいぶんとラフな格好をしたカーライルが、椅子に座ってマーヤを見ていた。彼が意味深な目で自分の身体を見るから、マーヤはつられて下を見て、絶句する。
おそらく、寝巻き……なのだろうと思う。
だが、それはかなり露出の激しい、寒い時期には風邪を引きそうなシロモノだった。
肩紐は細く、丈は動けば下に着ているものが見えそうなほど。なによりも、うっすらと身体のラインが透けているのが信じられなかった。そんなものの存在も、それを着ている現実も。
そんな姿の自分を、どこかうっとりとした様子で彼が見ていることも。
いっそいやらしい目だったら、どれだけよかったか。
そんな優しい、大切なものを愛でるような目で見られるから、声も出ない。
「大丈夫、身体に害はない薬を使ったからね」
その言葉に、マーヤは自分が一服盛られたのだと気づく。
おそらく、兄もグルなのだろう。
「ど、どうし、て」
「マーヤに一番似合うと思って」
彼女の質問とはまったく違うことを、彼は答えた。
そして立ち上がると、ゆっくりとマーヤに近寄ってくる。自然と、彼女はずるずると後ろへと逃げていった。首輪をつけて、こんな服ともいえぬしろものを着せられて、近寄られて。
しかも、ここはどうやら寝室だ。
意味がわからないとかわいくとぼけてみせるには、マーヤは少し大人になりすぎていた。
「こ、ここ、こないで! 服、服返して、それから首輪もはずしてください!」
「マーヤ、何を怖がる必要があるんだい? ……大丈夫、優しくするよ」
「来るな触るな近寄るな! 兄さん! シルス! リシェ! 助けてえええっ!」
ばたばたと暴れるが、首輪が何かの力を持っているのか、いつもの力が出ない。よく考えればマーヤは非力な巫女ではないのだから、何かしらの対処を取っていて当然だった。
巫女でさえ、普通の人間よりは腕力などがあるのだから。
次第に盛られた薬で落ちた体力が底をつき、マーヤは力なく彼の腕に抱かれる。
頭の中では、これからわが身に起きるいろんなことが想像されていた。
けれど、そのどれもが自分に起こらない。
「よしよし、もう大丈夫」
カーライルは犬か猫を相手にするかのように、マーヤを抱きしめ、頭を撫でる。
ただそれだけだった。
「……あの、王子」
「カーライル、と呼んでほしいけれど……なんだい?」
「私、どうしてここに」
「話せば長くなるから端折るけど、しばらくここにいてほしいんだ。できる限り欲しいものは用意させるつもりだけど、外に出すことだけは許可できない。シアに会うのも、だめだ」
「だから、どうして」
「今はそれしかいえない。だからどうか、ここでおとなしくしていてほしいんだ」
いいね、と目を覗き込まれると、どうしても嫌といえない。
そんな自分が嫌になる。
マーヤは結局、事情を説明されないままここにいることを選んだ。どうせこんな格好では外に出ても騒ぎになるだけだし、今の自分は騎士ではない。ここに入れる身分ではないのだ。
そんなマーヤが出て行ったところで、誰もがカーライルの命令に従う。きっと、あっという間に捕まってしまう。首輪は触ったところ普通のデザインだが、鍵穴らしきものがあった。
おそらく、これをはずさない限り、マーヤは自由になれないのだ。
しかし、どうして首輪なのか。閉じ込めるだけなら足枷でもいいと思うし、首輪でなくとも竜からその力を奪い取る道具はいくつか知っている。何だって手に入ったはずだ。
そう思ってマーヤが問うと。
「雰囲気がいいなって、背徳的で犯罪的な」
一瞬、何が何でもこの拘束から逃れ、城を破壊してでも出て行こう。
そう思ったのは、許されるような気がした。
■ □ ■
次の日、マーヤに与えられたのはどこかの貴族令嬢が袖を通すような、ため息しか出ない美しいドレスだった。これを、たかが騎士だった自分が、着てもいいのだろうかと思う。
だが、馴染みの侍女はこれを着るように言う。
「こんなの……」
まるで、どこかの晩餐会にでも出るような格好だと思う。ここから出られないのに、何の意味があるというのか理解できない。しかし、あの薄っぺらいものを着るのは躊躇いがあった。
何着か用意されたもののうち、一番地味で質素なものを選ぶ。
首輪から鎖がはずされ、三人の侍女にあっという間に着せ替えられた。
……のだが。
「お風呂ぐらい、一人でいけるのに」
ベッドにつっぷすマーヤは、着替える前にわが身に起こった悪夢を思う。
首輪から鎖が外れた後、侍女達はマーヤを部屋の隣にある風呂へと連行した。新しい服を着る前に身体を清めろ、ということなんだろうと思ったし、実際にその予想は当たっていたが。
「一人で、いいのに……」
あれよあれよと服――といっていいのかも怪しいあれを脱がされ、それ以外も全部剥ぎ取られてから、風呂場で全身を三人がかりで洗われた。この年でそんなこと、予想外だった。
恥ずかしいといっても、一人で大丈夫と喚いても、彼女らは聞き入れてくれない。
そしてきれいさっぱりさせられ、マーヤは朝からすでにぐったりしているのだ。
「うぅ……」
いつまでこんな生活なのかわからないが、ずっとこのままなんだろうか。こうして、彼に飽きが来るまでずっと、誰かにお世話されてここで暮らして、飽きたらぽいっと捨てられる?
捨てられる、のだろうと思う。
マーヤを大事にしたところで意味はない。別にどこかの王族でもないし、貴族でもない。どこにでもいた地方出身の娘で、ただ親が少しばかり武勲を挙げていただけのことだ。
あとは、せいぜいアナスタシアに気に入られているだけ。
その程度の価値しかないのだから、いざという時は真っ先に切り捨てられる。
たとえばどこかの姫君が、彼に嫁いでくる時とか。
彼は引く手数多だから、いくらでもその候補をマーヤは挙げられた。
「大丈夫?」
ぼんやりしていたのだろうか、いつの間にかカーライルが傍にいた。
彼の指が、まだ少し濡れたままのマーヤの髪をなでる。そこには笑みとも、苦笑とも取れるものが浮かんでいて、とりあえず機嫌がいいようだ。何かいいことでもあったのだろうか。
「いや、君に愛を告げたことが、思いのほか広まっていて嬉しい限りでね」
「そう……ですか」
自分との噂が広まって、何かいいことはあるのだろうか。
マーヤは考えるが、やはり特に意味はないと思う。特定の、それこそこうして囲い者にするほど大事にしている相手がいる、というのは無駄に群がる令嬢よけには、なりそうだけど。
さすがにいつ飽きるともわからない王子に付き合い、婚期を逃すのはばかばかしい。
あるいは、それにあわせて動くかもしれない貴族の同行を探り、いろいろ手を打ったりすることもできるかもしれない。王族に特定の相手ができる、というのはそういうことだから。
「あ……」
そうか、と気づく。
カーライルの見えない目的が、マーヤにやっと見えてきた。
つまり、自分という存在の役割は、そういうことなのだ。
「どうかした?」
「いえ、あれも冗談だったんだって、わかったので」
「あれ……?」
「告白です。あの日のいきなりの告白。こうして、私を使ってどこかの貴族に、何か罠を張るつもりだったのでしょう? おかげでひどい目にあいました。もう、どうでもいいですけど」
よかった、とマーヤはほっと胸をなでおろす。
そもそもおかしかったのだ。マーヤは自分がかわいい生き物ではないと知っている。確かに背丈は普通よりやや低いのだが、剣を振るうからそれなりに筋肉があってやわらかくはない。
間違ってもあんな、ふわふわでかわいらしい令嬢と張り合う存在ではない。
あんな令嬢に囲まれる彼が、自分如きを理由なく選ぶはずがないのだ。
あの告白は、罠の最初の一手だったのだ。
あれだけ大勢の前で、あれほど熱烈に告白すれば、誰だってその話をいろんなところのいろんな人にしたくなるに決まっている。それを、彼は利用しただけのことだったのだ。
つまりこれは任務だ。
いや、騎士を辞めたので任務も何もないのだが。
「……マーヤ」
「はい」
「どうして信じてくれないんだろうね、君は。こんなに大事にしているのに」
ねぇ、どうして、と問い、カーライルはマーヤを抱きしめる。愛玩するように、何度も頭や背中を撫でて、腕に力を込める。どうして、と問われても、マーヤには答えなどない。
信じたいと思う気持ちは、確かに心の隅にあった。
だけど、そうさせる根拠がない。
これでもしも、マーヤが巫女だったら。きっとそれなりに自分に自信を持って、彼の言葉も信じようと思えただろう。だって巫女だったならば、王族に嫁ぐだけの『価値』がある。
身分すらも覆すほどの『価値』が。
だけどマーヤは巫女ではない。
姉妹が巫女の、竜の中ではかなり肩身の狭い存在だ。幼い頃から、妹が生まれ、巫女の力を持っているとわかってから言われ続けた。人間には、他種族にはわからない竜の価値観。
――いつかきっと、彼も私から離れていく。
そんなマーヤの心の内側がしっかりと聞こえていて、それを否定するようにカーライルは彼女を抱きしめ続けた。首筋や頬を啄ばみ、侍女が呼びに来るまでずっと傍にいた。
「また後でね」
そういって去っていく背を、マーヤは一日に何度も見る。これが最後になるかもしれないと思いながら、ただ見ているだけで終わる。後悔しないよう何か、言うべきとは思うのに。
しかし、言ってしまうとそれで終わってしまう気がして。
終わるという幻想が、現実になりそうで。
「カーライル……私はあなたが、本当は」
いえない言葉が、彼女の中に積み重なっていった。