4 逃げなければ
次の日からは地獄だった。
始まったのは、カーライルによる尾行だ。
妹よりも上手にこなされるけれど、完全に隠れてはいない――気づかせるための尾行。部屋に入ってくることはなかったが、いつでもできると宣言するように室内に花が夜毎運ばれる。
「……あの、王子」
「カーライル」
「……カーライル王子」
「まぁ、それでいいけど……で、何?」
「花を贈るのをやめてほしいのですが。もう飾る花瓶もありませんし」
と、マーヤは己の決して広くはない部屋の惨状を思う。花が届くようになって数日、置けるところに所狭しと花瓶を並べていて、一部は兄の部屋や家中にまで移動している。
一戸建てに二人暮しでなかったならば、今頃花に埋もれて死んでいた。
そういうことを、彼は知っているはずなのだ。
なのに。
「あれは僕の想いだ。君に対する、僕の言葉」
「はぁ」
それは何となくわかった。
届く花を眺めるうちに、何となく花言葉が記された書物に手を伸ばし、ちょっとした暇つぶしの感覚で調べたことがあるのだ。そして猛烈に後悔し、ついに直談判にきたわけである。
送られる花は、基本的に『愛する人に贈るのに適した花』ばかりだった。
薔薇を筆頭に多種多様。花はこんなに種類があったのかと、マーヤが驚くほど。
「何にせよ、花ばかりは迷惑です。飾られずに枯れるのもかわいそうですし、そもそも来客もあまりないのでやっぱりかわいそうになります。ですからもう花は結構ですカーライル王子」
はっきりと言い切ると、カーライルはどこか唖然とした表情をした。
そんな風に言われるなど考えもしなかった、といった様子だ。おそらく、これまでの女性はみんなそれで喜んだのだろう。だからマーヤの拒絶も、まったく考えなかったに違いない。
「……わかった。でも一輪ぐらいならいいだろう?」
「それなら……いいです」
花をそんなに贈りたいのかな、と思いながらも、マーヤは一日一輪、やはり愛を伝えるのに相応しい花を直接渡されるようになった。問題はそこに、予想外のおまけがついたことだ。
「愛しているよ、マーヤ。君がまだ幼い頃から、僕はずっとそう思っていた。誰よりもかわいくて優しい人。どうか僕とずっと一緒にいてほしい。必ず君を、幸せにして見せるから」
そうして今度は所構わず、言葉と態度で口説かれる日々が始まったのだった。
■ □ ■
地獄は、悪化の一途をたどりながらも続く。
そこに追加された、令嬢集団による、陰口になっていない陰口の雨嵐。
さすがに身体に対する暴力こそないが、気の滅入ることが続く。特に妹のことを引き合いに出されるのは、マーヤにとってはかなりの苦痛だった。隠し切れず、そこを狙われるほど。
それとなく同僚や、時には兄が守ってくれる。
けれど、それすらもだんだん『苦痛』へと摩り替わった。
役立たずではないことを証明したくて剣を握り、しかし結局は守られるだけなのだと。
幸いだったのは、ここ数日カーライルが遠方に視察に出ていたことだろうか。こんな姿を見られたらどう思われるか。彼の性格からは考えられないが、自分を責めるかもしれない。
恐ろしいのは相手に報復することで、それだけは何としても避けなければならなかった。
だから、早いうちに、後数日で何とかしなければいけなかったのだが。
「バケモノが王子に触れないで、汚らわしい」
ぱしり、と音ばかりが大きい平手が頬に見舞われる。所詮令嬢の力なのでそう痛いものではなかったのだが、それより心に響いた。すでにひび割れそうな心に、更なる一撃はつらい。
だけどマーヤも思う。
確かに、この手はあの人に触れてはならぬと。
今でこそ王女に仕えるが、それより前の見習いの時代では、そこそこ荒っぽいところに所属していた。命を奪いこそしなかったが、何人もの悪党を切り捨てて、この手を赤く染めた。
そんな手で触れていい相手では、ないのだ。
彼もそうだし、王女だって。
――最初からそうしていればよかったのにね。
心の中で、誰かが笑うように浮かんだ選択肢を肯定し、背中を押す。それは、いつかの、あの令嬢の声に似ていたが、きっとそれは気のせいなのだろう。
微妙に自分と接点があって、もっとも目の敵にしてくるからそう思っただけだ。
とにもかくにも、自分はこの国を出よう。
カーライルの告白は気になったが、それどころではない。
確かに告白は嬉しくなかったといえば嘘になるが、だからといってあの嫉妬の嵐にこれから一生見舞われ続け、挙句『女を見る目がない』という感じに彼が悪く言われるのは耐え難い。
もし、昔のままの恋心があっても、マーヤは逃げた。
昔のままならば、なおのこと逃げた。
ただ、その逃げ方は少し異なっていたと思う。
今のマーヤは国外へと逃げるだけだが、昔のマーヤはきっとこの世から逃げ出す。
三日と持たなかっただろうと、ぼんやりと思った。
彼が好きだからこそ、きっと持たない、と。
なんにせよ、この場所はよくない。ここには確かに大切な人は多いけれど、自分は幸せにはなれない。ここに留まらなければならない理由もないし、そういう場所からは逃げるに限る。
一度妹の所に寄って、そこからどこか別の国へと向かうルートをマーヤは考えた。
視察同行から戻った兄には一応、城を辞めて出て行くことは伝える。
「兄さん、私はこの国を出ます。何もかもから逃げさせていただきます」
言ってしまうと、少し心がきしんだ。
トキはどこか戸惑った、あるいは焦りの色が濃い表情をしている。まぁ、城と家を往復するぐらいしかしない妹が、いきなり国を出ると言い出せば、どんな兄でもそういう顔をする。
「出て行って、どうするんだ」
「さぁ……どこかで、心のやさしい人と、結婚でも。私が結婚でもすれば、王子も諦めるでしょうし、彼女らだって私など忘れます。それに王子のあれは、やはり『一夜』程度でしょう」
散々囁かれた『好き』という言葉、マーヤこそが『好み』だという言葉。
それはすべて、夜の時間を楽しむための、香辛料でしかない。浮いた噂だけを身に纏う彼の言葉をいちいち信じていては、いつか自分は心も身体も壊してしまうとマーヤは思う。
「カーライル王子が私なんかに、本気であるはずがありませんから」
自分で言いながら、自分の言葉に少しだけ傷つく。
やっぱり自分はまだ幼い恋を、忘れられずに要るのだろうと思った。
でも、爵位も何もない自分に告白する理由は、そんなものしか思いつかない。手を出してもさほど問題のない相手だと、きっとそう思って声をかけてきたのだろう。
この国にいる限り、マーヤはただ苦しいだけの毎日を送る。今更、こんな自分に近寄ってくるような相手もいないだろうし、だったら新たな出会いを探していくしかないと考えた。
頻繁には戻れないだろうけれど、時々は帰るようにしたい。
そんな風に、気楽に、将来のことを思っていた。